ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

地元に帰ったよ日記

正月は地元に帰った。

家にいてもすることがなく、昔通った小学校の通学路を歩いた。

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 昔通っていた小学校は「集団登校」なる制度を実施していて、近所の子どもたち10名ほどが男女別の通学班でかたまって登校した。朝の7時半に集合する場所は雑草が伸び放題の空地の前で、今も何に使われているのか知らない。色褪せて自立能力を失ったカラーコーンが鉄柱に刺さっていた。

通学班の同学年の男子三人はみんな悪ガキだったけれど、後に暴走族に加入し、深夜マフラー音を響かせた先輩たちほどではなかった。俺のほかは先輩たちの子分のような扱いで、俺はそうなれなかった。歩くのが遅かったから、後ろからランドセルを押されたり、後ろに置いていかれたりした。朝飯がおいしかった記憶が無い。

下校のときは自分の歩く速度で歩ける、というだけでほっとした。知り合いと顔を合わせないよう、少しタイミングをずらして帰った。

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よく落ちているものを拾ってきた。かぼちゃに顔が描かれた割れたマグカップ、小さなスーパーボール、難しい漢字が書いてある上級生のテスト。下ばっか見て歩いてんじゃないの、と母に言われて、自分がとてつもなくいけないことをしているように感じた記憶がある。

昔はところどころの側溝にふたがなくて、俺はしばしば突っ込んで足をすりむいた。下ばかり見ていたのは俺なりの用心だったのかもしれない。ちょろちょろ流れる側溝の汚水を目で追いかけながらよく家まで帰った。

そういえばよく小石を蹴りながら家まで帰った。石をどぶに蹴落とさないよう気をつけるうちに、足下ばかり気にするようになったのかもしれない。

「まわりが見えてない」と上司に言われるくらいだから、今でも変わってないのだろう。

通学路には何ヶ所も足を踏み外す箇所、石を落とす場所があったはずだけれど、今はそのほとんどにコンクリートでふたがされている。道を踏みはずす心配はない。俺がいまから小学生をやり直すなら下を向いて歩かないかもしれない。どこを見て歩くんだろうか。前を見て歩くだろうか。

当時の俺はうつむいて歩いていて、きっとそれなりに楽しかったのだ。

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 生徒には学校と自宅を結ぶ通学路がそれぞれ割り当てられ、決められた通学路を外れることは許されない、という学校の規則は、学校側が想定した以上に生徒たちに重く響いた。

自分の通学路から外れた道を通行することは「ツーハン(通反)」と呼ばれ、わが小学校において犯すべからざる罪だった。ツーハンはいけないんだ、先生に言ってやる、と言われたら顔が蒼ざめるような気がするものだったが、そこまでまじめに考えていたのは俺くらいかもしれない。

当時いじめっ子の行動に「通学路を外れた道へ無理やり引きずり込む」というのがあった。一歩でも違う道へ踏み出せばそれは即ツーハンで、分岐路へ来ると、こっちへ来いと引きずり込まれる。俺以外の子供も本気で嫌がっていたと思う。

いったん帰宅すれば通学路を離れてよそへ遊びに行ってもいい。ただ帰宅するまでは通学路を守れ。これが学校が決めたルールだった。

帰宅後も外へ出て遊ぶことはほとんどなかった。

通学路ではない、知らない道を歩くことが怖かった。俺の頭のなかの地図は家と学校を結ぶ一本の道だけでその外は真っ暗な森が広がっているようなイメージがあった。

毎日同じ道を歩いて、その外へ出ることは考えもしなかった。

生きることはノルマが毎日与えられるようなもので、それはそういうものだと思っていた。

不登園児だった保育園時代とはちがって小学校はほとんど皆勤賞だった。俺の反抗期は保育園で終わっていた。

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 「バトルえんぴつ」という遊びが学校で流行った。六角えんぴつを転がして出た目で友だちと勝負する遊びで、ドラゴンクエストポケモンのキャラクターがモチーフに採用されていた。全校でバトエンが持ち込み禁止になったのは俺のせいだ。

2年生のある時期にクラスの、というか学年の問題児だったSくんとよく下校した。いっしょに帰ろうと毎日のように誘ってきた子はSくんがはじめてだったかもしれない。それまで俺はいつも一人で帰っていた。 

Sくんはゴリラと岩を足して2で割ったような顔で、歯並びが悪かった。

車の排気ガスのにおいが好きなんだ、と帰り道で彼はよく言った。俺は好きでも嫌いでもなかったからよくわからなかった。でも雨上がりの埃っぽいにおいや、水たまりにできたガソリンの虹は好きだった。

あるとき通学路からはみ出した路地の方に誘われて、バトエンを交換する話になった(人に誘われたときに限って、少しだけ通学路をはみ出すことはあった)。彼のバトエンは弱くてボロボロで(今も覚えているけど、ビッグアイのちびた鉛筆)俺のまだ鉛筆削りにも突っ込んでいない「あばれうしどり」を交換しようと持ちかけられた。「あばれうしどり」は俺のエースだったから、交換するわけにはいかなかった。

いやこのビッグアイはけっこう強いんだ、だってこの目が3回出ればね、とSくんは説明をはじめるも納得するはずがない。小学生でもその格差は一目瞭然だった。

わかった、じゃあちょっとだけ貸してくれ、あとで返すから。俺はあいつに勝ちたいんだ。そう言われると断る理由もないので俺も折れて、交換した。

後日、そろそろ返してくれないかと聞くと、何のことかわからないととぼけられた。まんまと彼にはめられたことに気づき、涙があふれてきた(当時俺が泣くとしたらこんな感じだった)。わかった、返すから泣くのをやめてくれとSくんは慌てるのだけど、そう言われるとますます涙が溢れてきて、そのうち放課終わりのチャイムが鳴って、運悪く担任が教室に入ってきた。

この一件から教員の間でバトエンが問題視され、やがて全校で禁止される。それから生徒たちの間では、自作のバトエンを作るのがブームになった。

他愛もない思い出だけど、学年が上がると俺は「バトエンを学園から消した男」として自ら吹聴するようになった。終わってしまえばなんでも笑い話になった。

後日Sくんは母親と、俺の家まで来て謝った。俺は自分のせいでこんな大事になってしまったのが恥ずかしくて仕方なかった。彼のことを憎いとは思っていなかった。

 

Sくんは学年が上がるにつれ、周囲から疎まれるようになった。集団行動は苦手だったらしい。「ウザい」「キモい」といった言葉が子供たちの間でも流行した時期で、彼もまた、そういう便利な言葉でカテゴライズされるようになった。

4年生のとき彼は、当時猛威を振るったギャング集団(「たけし軍団」みたいにリーダーを務めた悪ガキの名前が付けられていた)からターゲットにされ、時々学校を休むようになった。

俺もまあたいがいで、髪の毛を引っ張られながら、うちの軍団に入らないとこれを突き刺すぞとコンパスの針を突きつけられるような割とハードな局面こそあったものの、のらりくらりやり過ごした。少しずつ生きるのが上手くなって、Sくんはあまり変わらなかった。

いまSくんは地元の工場で作業員として働いている。3年前、たまたま駅で会った彼はまったく変わっていなくて、ダボダボな服を着て、金色の派手なネックレスを下げていた。彼女がかわいいんだと携帯を開け写真を見せてくれた。キャバ嬢みたいでかわいかった。

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 かつては鉄柵がなかったこの砂利道をななめに突っ切って行くのが俺は好きだった。

帰り道、俺が通学路を外れるとしたら唯一このルートで、私有地だから通ってはいけないと集会で通達があったにもかかわらず俺は無視して通った。いちいち遠回りするのがめんどくさかったのだろう。中にあるのは小さな観音様のお堂で、少しだけ罪悪感もあった。

砂利を歩く音も好きだった。わざと足を深く突っ込み砂利道をじゃりじゃり荒らして歩くのが好きで、そんなガキがいるから柵が立つんだろうな。通学路はくまなくアスファルトで舗装され、砂利道もなくなった。

久しぶりに石を蹴りながら歩きたいな、と思ったら、東京には手頃な石がまったく落ちていないことを思い出した。通勤経路には石が落ちていない。なんだか友達がいなくなってしまったようで急に寂しさを感じた。ずっと忘れていたくせに。

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 打ちっぱなしのコンクリートだった場所はきれいに舗装され、柵も設置され、きれいな遊歩道になっていた。もっとも当時、ここを通行する人はほとんどいなかったはずで、放課後の子どもたちの遊び場と化していた。

柵を挟んだ側の道路は坂道になっていて、遊歩道とは段差がある。

昔はこの段差を利用して鬼ごっこやケイドロをした。走ってる間にどのタイミングで下へ飛び降りるか、とか、それくらいのことだけど、それだけで十分遊びになったのだ当時は。もっとも、そういうことをするから車の前に子どもが飛び出してきて危ない、と問題になったことがある。柵が作られたのはそういうわけだろう。

「遊歩道」という名目にはなったけれど、いまの子どもはここで遊ぶのだろうか。あんまりわくわくしないな、と俺は思う。遊び場として与えられた場所で遊ぶんじゃなくて、普段はなんでもない歩道が遊び場に変わる、ということがおもしろかった気がする。俺は公園で遊ぶのは嫌いだったけれど、歩道で遊ぶのは好きだった。

町は区切られていく。

人間の意図で埋め尽くされていく。

ところで右手中ほどに見えるのはソーラーパネルで、申し訳程度の間隔でぽつぽつ並んでいて邪魔くさい。あんまり子どもを遊ばせたくないのか、と思うけど、この周囲には他にも意図がよくわからない公共事業の産物があって、何を考えているのかわからない。現代アートなのかもしれない。

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田んぼが焼かれていた。ここはよく生ごみが捨ててあった。子どもの俺はそれが肥料だとわからなかったので、変なの、と思っていた。昔はここでおたまじゃくしが干上がっていたり、すぐ近くの用水路に蚊柱が立っていたことが印象に残っている。稲がなっている様子は不思議と記憶にない。

となりの区画は駐車場になっているが、かつては2階建ての木造のボロアパートがあって、俺が隠れ家に使っていた。

小学校では4年生になると強制的にどこかの部活へ加入させられた。文化部に入るのは本当にわずかで、運動部でないやつは軟弱だ、という空気があった。俺は球技が嫌いだったから、泳ぎが下手にもかかわらず水泳部に入って、早々に部活へ通わなくなった。サボった。

「水泳部が君たちを選んだんじゃない。君たちが水泳部を選んだんだ」が当時の顧問の口癖で、そういうのも苦手だった。

ただ帰りが早いと部活をサボったんじゃないかと親に心配されるから、どこかで時間を潰さないといけない。そんなときここのアパートのガスボンベ置き場の奥に隠れ、ランドセルを机代わりにして、宿題プリントを埋めたり教科書の先を読んだりして時間を潰した。

学校のプールで泳いできたはずなのに水着が濡れていないと怪しく思われるから、どこかで水着を濡らす必要があった。その点もここは便利で、アパートの共用蛇口があった。100mも歩けば公園があって水場も使えるのだけど、通学路を外れてしまうから行かなかった。ルールを守ろうというわけではなく、誰かに見られている気がしていたのだと思う。親父の書棚からこっそりエロ本を読むときも、監視カメラが仕掛けてあるんじゃないかと気が気でなかったし、読み終わったら指紋を拭いた。某少年探偵漫画に影響されての行動だった。

余談だが、この手前の側溝も昔はふたがなかった。そんなことばかり覚えている。

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分かれ道に並んだ柿の木はなぜか印象に残っている。

誰のものでもなさそうに平然と並んでいるのがおもしろかったのだろうか。自販機と同じような顔をして並んでいる。多くの実は鳥についばまれてぐずぐずになっていた。すずめが数羽、枝に止まっていて、東京じゃあまり見ないよなと思って近づくといっせいに逃げ出した。

そういえば小学生の時分は、この実を柿だと思った記憶がない。スーパーに並ぶつやつやした柿とこの実はまったく別物だという認識で、これはただ「いろんなところに生えてるまずそうな実」としか思っていなかった。

「誰のものかわからない、正体もわからない実が、よくわからない場所に生えて、よくわからないまま鳥に食われている」というのはなかなかシュールで、そのアナーキーな感じに憧れていたのかもしれない。何の意図も主張せずただそこに立っていてくれる柿の木は、おじいちゃんみたいで素敵だと思う。俺が生まれた時にはおじいちゃんは死んでたけど。f:id:johnetsu-k:20140110202309p:plain

あまり葬儀場には見えないきな臭い建物は、不良のたまり場と噂されたゲームセンターだった。事実、警察が定期的に入った。

俺の母校は荒れていたらしい。俺が中学に進学したときには生活指導に燃える教員が各学年で活躍していて、まったく荒れていると思えなかったが、20年前には廊下をバイクが走っていたそうだ。

小中学生はゲーセンへの出入りを禁止されていたが、4つ上の班長は小学生のときから出入りして問題になったらしい。ソフトボール部の教師がよくここを監視にやってきて、全校集会でこのゲーセンを悪玉のように名指しした。

駐輪場にはいつも大きなバイクが並んでいて、ここを歩くときは中を見ないよううつむいて、足早に通りすぎた。でも一回くらい入ってみたいよね、という話題はおとなしいグループではよく上がった。平凡な道の途中にぽっかり穴を開けた、異世界への扉のような扱いだったと思う。

はじめて中に入ったのは俺が高校を卒業してからだった。

そのころ経営状態は末期で、ゲーム機は敷地の3分の1ほどしか設置されず、そのほとんどはネット麻雀の筐体だった。臭い立ちそうな服を着た男性が数人、煙草をふかしながら張り付いていた。置かれていない側は照明が消えてうす暗く、トイレの前だけぽつんと明かりがついていた。

 ここが衰退したのは結局、大手資本のゲームセンターが相次いで近くにできたこと、不良の供給が絶えたこと、単純に経営努力が足りなさそうだったこと、その全部だろう。

ゲームセンターは学校の外れ者がたまる場所でも、異世界への扉でもなくなった。新しいゲームセンターは安全で、誰でも入れるような場所になった。

だけど誰でも入れるような場所に入れるのは、誰でも入れるような場所に入れる人だけなんだ、と思う。地球はひとつになったけど、はずれものは出てくる。

かつてここに集まっていたような人たちは今どこへ行くのだろう。少し歩いて、俺はTくんのことを思い出した。

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 実家の裏の畑をはさんで向かい側にTくんの家はあった。Tくんは俺が5年生のとき入学してきた1年生で、中学2年のとき河川敷でホームレスを殺した。

Tくんはどぶ板に浮かぶ長屋、といった風情の昔ながらのアパートにおばあちゃんと二人で暮らしていた。中に入ったことはないけれど、建屋全体からは猫のトイレの臭いがした。

Tくんは学校に行くのが好きではないらしく、いつも朝の集合時間に遅れた。歩くのも遅く、よくおいてけぼりにされた。 

6年生になって、俺は通学班の副班長を務めた。副班長は班の最後尾をみはり、だれも遅れないよう進捗を管理する。悪ガキのリーダー格だった班長は、子分を連れて勝手に先へ行ってしまうため、尻拭いは俺に任された。

俺は、彼と、よく笑う太った2年生の子と3人で、毎朝始業のチャイムが鳴り終わるギリギリのタイミングで滑りこむように登校した。

通学路になっているアスファルトの道から用水路を挟んで向こう側、舗装されていない土の道が俺たちの登校ルートで、甘い蜜を吸える小さな花がぽつぽつ咲いていた。こちらにはガードレールがないため、用水路に落ちてしまわないようゆっくり歩いた(そういえばこのガードレールの下も昔はコンクリートで固められていなかった。ここは向かい側と同じように草むらになっていて、落ちていたタバコの燃え殻を吸った記憶がある)

Tくんはそら豆に手足をつけたような子で、ほとんど喋らなかったし、あまり表情を変えなかった。彼の笑顔はちょっと記憶にない。無愛想というよりどう反応していいかわからない、戸惑ったような顔をいつもしていて、写真に残る子ども時代の俺とちょっと似ていた。

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途中の歩道橋は難所のひとつだった。

小学校に入ったばかりのころ、俺は階段を昇降するたびいちいち両足を揃えるクセがあって、どんなに急いでも人の1.5倍は時間がかかった。

当初は俺が降りてくるまで、班のメンバーは俺を待っていてくれたが、そのうち置いていかれるようになった。2年生になっても事情は変わらず、下級生においていかれたのはさすがに恥ずかしかった。交互に足を出せるようになったのは3年生からだったろうか。慣れると階段を一段飛ばしに昇ることもできて、そんなことでうれしかった。

Tくんは俺よりは階段を昇るセンスがあったけれど、そもそも歩くのが苦手なのでやっぱり遅い。歩道橋に着くころには大概始業ギリギリで、俺が一段とばしで先に上へ登って早く、早くとせかした。昔は俺が置いていかれる側だったのに。

歩道橋を渡ると、俺は彼ともう1人の2年生、2人分のランドセルを抱えて、下駄箱まで競争した。毎度、遅刻ギリギリではあったけど、実際に遅刻したことはなかったと思う。

Tくんがいい子だった、という記憶は特にないけれど彼と登校する時間はたのしかった。6年生のころには俺はもうへらへら笑える人間になっていて、Tくんもそうなる道はあったんじゃないか、といまでも思う。

Tくんと関わったのはその2年間だけで、数年後、ホームレス殺害で話題になるまで彼のことは忘れていた。

ローカルニュースで話題になったその事件は犯人グループが逮捕されると2ちゃんねるにもスレッドが立ち、当日のうちに加害者の3人組の本名も割れていた。書き込みのなかに彼の名前を見つけた。

主犯格の男は20代後半だった。当時14歳のTくんとはかなり年齢差があって、報道では、命令されてやったのか、どこまで主体的に関わったのか、少年に殺意はあったのか、ということが問題になっていた。真相は彼らにしかわからない。「殺すつもりはなかった」というフレーズがちょうど流行していた時期だと思う。

彼がこの事件の犯人だと知って、あまりショックではなかった。納得に近かったかもしれない。

俺が小学生の頃は神戸で起きた酒鬼薔薇聖斗事件(これも14歳の犯行だった)あたりから「キレる少年」が話題になり「おとなしい子ほどキレると怖い」とテレビが騒ぎ立て、「自分も絶対こうなるんだ」と思って、怖かった。当時の俺が憧れたのは、何かの間違いで人を殺してしまうとかつまらない罪で、全国で指名手配されて、暗い屋根裏にかくれ誰とも交友関係をもたず、コンビニ弁当を食べて一生を過ごすことだった。テレビでそんなドキュメンタリー番組がやっていて、絶対にそっちの道へ転がり落ちるような気がして怖かった。

だからなのか、Tくんの件を聞いたときも「やっぱり…」と思った。俺もああなっていたかもしれないし、たぶん俺と似ていた彼は、あちら側へ足を踏み外してしまった。それはおかしなことではないと思う。凶悪な人だけが凶悪な犯罪をするなら話は簡単で、彼はふつうの子どもだった。

彼と自分の何が違ったのか、よくわからない。俺はたまたまホームレスを殺さずにここまで生きてきて、Sくんはそうじゃなかった。それだけのことで、ただ俺の方が少しだけ用心深かったとか、少しだけ勉強ができたとか、付き合う人間に恵まれたとか、彼の頃には少しだけ町が変わってしまったとか、たぶんその程度のことだ。 

俺は運が良かったんだ。

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通学路を少し離れるとどぶにゴミが浮いていて、不思議とほっとした。

なぜ落ち着くのかよくわからない。ただ俺が小学生だった頃、どんなに決められた道の中でも、どこかに必ず足を踏み外していい場所、逃げ場所があった。そういう場所で息継ぎをして生きていたのは俺だけじゃないと思う。 

どぶには知らん顔をしてゴミが浮いてる。

街は整備され、きれいになった。側溝にふたができて、危ない道には柵もできて、彼らは知らん顔をしてくれない。ここを踏み出すな、越えたらお前の責任だ。訳知り顔で諭しておきながら、遊んではくれない。人間は顔を見せず、コンクリートの下から言葉もなく命令する。

街は命令形で埋まっている。たぶん俺が育ったときから、それはそうだったのだ。

俺がいま小学生をやり直したら、まともに育ってないかもしれない。どこかで道を外れているかもしれないし、外れることにすら失敗して、窒息しているかもしれない。

最近自殺した友人は息苦しいどころか、本当に過呼吸症候群だったけど、彼女が横になりながらビニール袋を口に当て懸命に呼吸している姿を渋谷駅の改札前で見ながら、なんだか俺は安心した。ちゃんと息を吸おうとしているんだから立派なもんじゃないか、と思ったのかもしれない。普段の彼女よりちゃんと生きているように思えた。

道を少し離れれば、汚いどぶにゴミがぷかぷか浮いてる。こういう場所が残っていて、ほおっておかれるのは悪いことじゃないように思う。俺みたいなゴミでも生きてていいかもしれない、なんて安直に結びつけるつもりはないけれど。

*** 

歩いていると鼻唄が出てきた。実家では鼻唄がよく出て、楽しそうだねえと母に言われる。

本当に楽しいのが半分、もう半分はきっと、からっぽを埋めるためなのだと思う。自分と街、あるいは自分と家族との間にある、からっぽを埋めるため。きっと俺は鼻唄の分だけ、少しだけ世界から浮いていて、こうして浮いているのが嫌いじゃない。未来からやってきたみんなに人気の猫型ロボットはいつも3mm地面から浮いているのだ、なんて適当なことを言って、また少しだけ息を吸って、俺は育ってきたんだ。

俺はここで育ったのだと思う。間違いなくここで。

上司の前で innocent world を熱唱した話

やらかした話をします。けっこう前の話なんだけど。

 

先日、営業部の先輩諸氏とのたのしい懇親会に参加しまして、それはそれで問題が勃発してたんですけど、それはともかく、生きて一次会を終えまして、二次会は上司5人と場末のスナックへ繰り出した。一番若い人で40代後半、俺の倍以上生きてる方々と楽しい二次会です(しかしスナックって楽しいか…?カタカナ4字ならパワプロのほうが楽しいんじゃないのか…?)

昨今のゆとり大学生は知らないかもしれないけど、スナックって歌える場所なんですよね。ママや若い娘もいるし、鏡月のボトルとロックアイスも置いてあるんですけど、カラオケセットも置いてある。客は俺たち以外いなかったんで、さっそく若手から歌うことになる。俺もスナックに行ったことが2回あるからわかる。「おい情熱、歌えよ!」ってその日もトップバッターに指名されまして、まあそうなるわな、ってマイクを握って、そこまではよかったんですよ。よかったのはそこまでです(逆に言ってみました)。

 

しかし俺もだてに営業やってない。接待スキル、ゼロなわけじゃない。こういうときの戦略(ストラテジー)は決まっていて、寺尾聡「ルビーの指環」とか梅沢富美男「夢芝居」とか、おっさんウケする昭和の名曲を歌う。俺は見た目が赤ちゃんなんですけど、キーが低い、いい大人が歌う激シブな曲を赤ちゃんが歌いだしたら、そこはウケるじゃないですか。座があったかい気持ちになるじゃないですか。最高の営業マンなんですよね。なんで営業から逃げ出したんだろうな。 

まあ赤ちゃんがスーツ着て社内をうろちょろしてるだけで爆笑ものだと思うんですけど、それはともかく、今回のカラオケも件の戦略(ストラテジー)で乗り切ろうとした。ら、上司A(若手のエース・40代後半)が俺にフリをよこしてきやがったんです。「情熱くん、ミスチル歌わないの?」。

 

そのすこし前、出張で先輩の車に乗せてもらったんですよ。カーステからはミスチルのベストアルバムがリピートで流れていた。たぶんミスチルが好きか、好きじゃないけど無難だから流してるのか、ミスチルの誰かに恨みを抱いていて怨恨を堅持すべく延々とリピートしてるかどれかだと思うんですけど、そこから音楽の話になって、俺が大学時代、軽音サークルでギター&ボーカル務めてたことを話した(メンバーとそりが合わなくて3ヶ月で脱けたことは言わなかった)。したら先輩が「じゃあミスチルなんかも歌えるんだな」と聞いてきたんで「歌えます歌えます!昔やったな~、懐かしい…」とか言うじゃないですか。まあFのコードが押さえられない時点でありえないんですけど、そういうことです。

 

で、スナックに話を戻すと、件の先輩(40代後半)はミスチルの件をおぼえていた。で、ふられたら歌うしかないじゃないですか。先輩にそこまで言われたらね、歌うしかねえですわ、って意気揚々と「innocent world」を選曲、送信ボタンを押す。

で、問題なのは、実は俺が全くミスチル歌えないこと、とかではなくて全く逆。歌えることなんですよ。

そもそもまず地声が高い。体格が赤ちゃんですから、声帯も短い(ファラオの呪いか何かだと思うんですけど)。で、俺の生い立ちに何の興味もない方には申し訳ないんですが、声が赤ちゃんなことに加えて、滑舌が終わってることもコンプレックスであった。だから大学時代、バンドやる前は自宅でボイストレーニングをやってたんですね。ファラオのせいにしちゃいけない、自助努力で何とかしよう。何が「今年の漢字は”輪”」じゃい、と。だから大学の前半2年は、それとバイトとアマガミと呼吸しかしてない。

 

そもそも俺は人前でやたらあがって、緊張すると声が出なくなってヤバい、という弱点を重々把握してまして、このままいけば就活で詰むのは確定的に明らか。だが逆にちゃんと声が出さえすれば、緊張せず勢いで話せるんじゃないか。そこに活路を見出した。発声練習は生きていく術だと思って頑張った。イケボのゲーム実況者になって女を抱いてやろうと思った。しゃべりが下手すぎて挫折した。そっと動画を消した。その下積みの甲斐あって、今や立派に声が騒音レベルなんですけど、何の話だっけ。

***

スナックに戻ります。暗黒の大学時代を経た俺は、何の因果かミスチルも歌える。

悪いことにその日、俺ののどは絶好調だった。高い音も余裕で出せるぜ。俺の声帯がそう言ってた(ボイストレーニングをすると、声帯と会話できるようになります)。

で、旧型DAMのショボい音質でイントロが流れてきますよね。サビまではよかった(と思う。忘れた)。問題はサビ。「いつの日もこの~胸に~」から、急に音が上がるところ。なぜ急に音が上がるかというと、サビとはそういうもので、ミスチルもそういう作曲をしたからですが、ここからどう展開したか。

 

・サビ入るじゃないですか

・「バーン!」って声が出るじゃないですか

・「シーン…」ってしてるんだよな

 

1番を歌い終え、アルコールで右半球しか脳が回ってない俺にもピンときた。「これたぶん、がんばって歌っちゃいけないやつだったな…」と。やっべ、軌道修正しなきゃと思って、俺の脳内コンピューター(右)が空気を察知した結果、2番は力を抜いて、へろへろになって歌ったんですけど、時すでに遅し。というかヘタに取り繕うくらいならちゃんと歌いきる方がマシだったと思いますが、どっちにしろ動揺しててまともに歌えなかったろうな。ラストのサビはどうしたか覚えてない。あとは野となれ山となれ状態だったと思います。円滑なコミュニケ―ションのために鍛えたボイス、裏目に出た。

それで歌い終わって、アウトロが終わって、何にも反応がなく、静かである。まあそうだわなと納得して、万策尽きたとあきらめて、寝ました(!)こいつ寝たらしいぞ。いや寝たことは覚えてるんですけど、どういう経緯で寝るに至ったか覚えてない。「もう寝ろ」って天の声が聞こえたんだと思う。気づいたら脳が閉店して寝てた。

…で、1時間くらいして起こされて、電車に揺られて家に帰って寝て、目が覚めて、うわって後悔する。後悔がじわじわ来るのはいつものことなんですけど。で、反省した結果、その日は昼から近所のカラオケボックスに出向しました。しらふでもヘタクソに歌う練習をした。どういう方向にクソ真面目なんだ。

***

でこの件、半年前なんですよ。勘のいい方はおわかりだろうけど、俺がやめるやめる詐欺(2年目前半の若手社員に特有のツッパリで上司の額に退職願を突きつけたものの、社長に高い肉を食わされて心が揺らぎ、「やっぱやめるのやめます」と言って撤回、会社への残留および異動が決まった一連の茶番。詳しくはこちら「株式会社を退職しませんでした」

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/06/21/212719)を起こして、社内を騒然とさせた、ちょうどその直後です。翌週だったな。

で、そのタイミングで飲み会に参加する、となれば考えることは一つじゃないですか。「俺のせいで場の雰囲気が暗くなる、そんなことがあってはいけない」と。俺はめちゃくちゃ空気を読みますからね。そうすれば当然

 

・できうる限り、ニコニコ明るく話さなければならぬ

・ニコニコ話すためにテンション上げよう!

・テンション上げるために前もって酒も入れよう!

 

の三段論法が立つのは当然で、事前にちょっと酒入れて、今までの飲み会よりテンション上げていこうと思った。三段論法に謝った方がいいですね。

ところで弊社のオフィス、小鳥たちがのどかに暮らす森のように静かですから、彼らの眠りを起こさないよう静かに話すスキルを身に着けてるんですよ、俺は。普段は森の奥深くでつつましく暮らす、朴訥な木こりのようにおとなしいんですけど、根が田舎者だから、街へ繰り出すと急にボリューム上がる。その日も一次会の段階でかなりうるさかったかもしれない。隅っこのほうに座ってたら、上司の1人(くにおくんもびっくりの硬派)が俺の隣に来て、ぼそっと言うんですよね、「もうちょっと申し訳なさそうにしろよ…」って。びっくりしたな。

 

だがしかしその上司も怒ってるわけじゃなくて、「勘弁してくれよ(とほほ)」という顔をしていた。しているように見えた。で、俺も性格が終わってるので、人が困ってる姿を見ると、つい笑ってしまう癖があるんですね。あろうことか上司の顔を見てたら楽しくなってしまって「ええ!?あ~いや!本当にすみません!」って、へらへら笑いながら誤ってしまった。(今思ったんだけど、こういうことしてるときが一番たのしいな)

それで硬派な上司の顔がますますトホホって感じになってしまったところまでは、覚えてるんだよな。まあカラオケの件よりこっちのがどうなんだと思いますけど、そのノリを引きずった結果が、innocent world ですね。後日、しまったなあ…と思いつつ、まあしょうがねえかって笑うしかない。そんな感じで、生まれてから25年間、俺はそんなことばかりしている…

***

なんでこの話をしたかというと来週、前回とほぼ同じメンツで飲むらしいんですよね。営業部の忘年会。半年ぶりに顔を合わせるんですけど、どういう顔をすればいいかわからないの。

とにかく同じ失敗だけは繰り返すまい、とは思うんですよ。頭では。でも論理的・合理的に考えると、忘年会に誘ってもらえたってことは、そこまで深刻に嫌われてるわけじゃねえよな、というか失敗なんて俺が思ってるだけじゃないか、とも思えるわけですよね。だからまあ、根っこのところで反省してない。「失敗にしても、割とかわいい失敗だよな…」と思ってる。「リーマンショックとか地球温暖化に比べたら全然平気だ…」と思ってる。思ってるからダメなんでしょうね。

 

いや実際、まったくたいしたことない失敗だと思うんですよ。ただ、様々なファクターを総合・勘案すれば、このような事態は未然に防げたんじゃないか。ベテラン営業マン特有の自意識、平時の俺の行い、および声のdB値、埼玉のホステスのレベル、忘れられた大和魂、金星の運行…。そうした要素を懸念したとき、やはり取るべき対策があったのではないか。冷静に対処すれば万事よかったのではないか。そのような反省的自己意識が、絶えず私を苦しめ、あの一件について「失敗だった」と結論を下しめるのです。生まれてすみません。
まあでも、本当にたいした失敗じゃない。たいしたほうの失敗は、こんなところに書けないやつだから…

***

まあ今回も忘年会、行くんですけど。だまってニコニコしてようかな。あちらの世界へ飛んでしまった、出家の儀を済ませたあとの小坊主みたく、悟り顔で座禅でも組んでいよう。そしたら仏様と勘違いされて、拝んでもらえるかもしれないし…

 

半年ぶりに会ったゆとり社員が、さとり社員に変わっていた、というオチでした。おしまい(人生にオチはない)。

「情熱」の哲学史―内なる炎はどこから来たか?

ask.fmの回答を書いてたらやたら長くなった。ので、こっちに上げます。

質問:「情熱の最初の炎を作るには?」

回答:「情熱の炎」は定義の問題でしかありません。考えるだけ無駄ですから、クソして寝たほうがいい。というのはうそで、大問題です。定義の問題だからこそ大問題であって、クソを我慢してでも考えた方がいい。

「情熱の炎」にあたるものを、かつて西洋世界の哲人たちは「コナトゥス」と呼びました。

 Wikipedia-コナトゥス

この項かなり面白いんですが、さしあたり重要なのは以下。

コナトゥス(羅:Conatus 原義は努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力)はかつて心の哲学形而上学で使われた術語で、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。ここで「事物」とは心的実体、物理的実体、あるいはその両者の混合物を指す。数千年にわたって、多くの異なる定義や論じ方が哲学者によって定式化されてきた。

(中略)

今日では、「コナトゥス」は専門的な意味ではめったに使われない、というのは近代物理学ではコナトゥスに取って代わった慣性や運動量保存則といった概念が使われるからである。

…つまり、心やものを動かすものは古来より「コナトゥス」とひとくくりに呼ばれていた。それが今日では、物理学の概念に変わっている。

数千年続いてきたもののルールが、いつのまにか変わってるんです!!!

まあ本当に数千年の歴史があるのかは怪しいですが、ともかく古代ギリシア以降、2000年は続いたコナトゥスの歴史は、近代物理学にとって変わられた。これはどう考えても哲学史上の大事件です。以下説明。 

【コナトゥスとは?】 

原義のとおり、衝動(衝き動かすもの)等々をあらわす言葉でした。たとえばりんごが木から落ちるとき「りんごにコナトゥスが働いた」と言えば、これは人間の行動原理をリンゴに投影した一種のメタファーです。昔のヨーロッパではこういう言い方で議論がされていた。

ところが近代に入ると事情が変わる。たとえばニュートンは、このりんごの落下をコナトゥスで説明せず「引力」だと説明しました。人間の手を離れた、無色に近い表現を使った。「人間はコナトゥスによって恋愛へ導かれる」と言うことはできますが、「万有引力によって恋愛へ導かれる」と言うことはありません(ニュートンはそういうプロポーズをしたかもしれませんが)。

こうして西欧の近代物理学は幕を開けるわけで、見てきたように科学とはメタファー選択の問題、文体の問題でもあるのですが、それは置いといて。

【 現代において「衝動」はどう説明されるか】

「この世界に存在する神が、あなたをつき動かしているのだ」という説明、みなさん納得するでしょうか。あんまりしないと思います。「神は死んだ!」なんてニーチェに言われるまでもなく、われわれ現代人は、神を持ちだされてもピンとこない。がしかし。

「自分の内側にある何らかの力が、自分を衝き動かしているのだ」という説明。こっちの説明は違和感なく飲み込めるのではないでしょうか。

これ、近代物理学のメタファーでロジックが構成されているんですね。ちょうど蒸気機関車が内燃機関からエネルギーをもらって、タービンを回すのと同じ。人間というのは内側から湧き上がるエネルギーにつき動かされる。そういう説明なんです。

無意識から供給されるリビドー(性的エネルギー)を人間の行動原理に置いたフロイトの学説は「力動精神医学」と呼ばれますが、これは力動という名前からして、近代物理学のモデルをなぞっています。Wikiに記述してあった「コナトゥスが近代物理学の概念と置き換えられてしまった」とは、そういうことなんです。大事件だぞ。

【機械の逆襲】

 驚くべきことに近代物理学の隆盛以降、われわれは機械のモデルを人間に当てはめるようになった(デカルト以降、猛威を振るった「人間機械論」ですね)。「引力」「重力」「応力」と物理学の領域で使われていた力学モデルが今日、「コミュ力」「人間力」と人間の側に平然と侵入してきた。「応力」なんて英語では「Stress=ストレス」ですから、これも物理学の応用です。いたるところに物理学のメタファーは侵入している。

数千年もの間、人間様の原理を世界に当てはめて議論していた哲学の歴史が、ここにきて一気にひっくり返った。むしろ我々が機械のメタファーに合わせるようになって、しかもそのことをあまり自覚していない。これが大事件じゃなくて何なのでしょう。

人間が先か、機械が先か。問題は「どちらが正しいか」ということではありません。 

「今日の我々は機械モデルの説明に説得力を感じているし、世間もそのメタファーを当たり前に採用している」。それが問題なんです(で、気づけば俺も「説得力」なんて言葉を使ってますし)。

最初の質問へ戻ります。

質問:情熱の最初の炎を作るには?

「情熱の炎」という表現は、近代物理学のモデルそのものではないでしょうか。

「情(なさけ)」は「熱」によって動かされるものであり、その供給源は「炎」である。「情」を「タービン」に置き変えれば、これはそのまま熱力学の世界ですね。

炎とは人間を人間たらしめる発明であり、古今東西、どの社会でも神聖なものでありました。が、それは同時に人間のコントロールを超えた、畏怖すべき対象でもあった。炎とはたとえば王様が放つ威光のようなもので、背後にあって我々を輝かせてくれるようなものであっても、自分の中に取り込んでしまいたくなる、そういうものではなかったはずです。

それが変わったのは民主主義が定着していく近代以降。国民の一人ひとりが自らの主権者=王様とされるこの時代以降、「内なる炎」という類のメタファーが普及するようになった。

…まあすべての文化を見てきたわけではないので大胆には言えませんが、「内なる炎」のような表現はかなり近代的なものではないかと思います。

【そもそも「情熱」ってなんだ】

そもそも「情熱」というのはpassionの訳語。もともと日本語になかったことは言うまでもなく、明治以降、近代化を進める中で新たに発明された言葉です。日本では古来、人間が衝動に動かされるとすれば「あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)」の世界でした。情熱どころか、物の怪が出てきます。

だいたい封建社会において、民衆に情熱なんて持たれたら領主はたまったもんじゃありません。物の怪か何かのせいにして、情熱は遠ざけておいたほうが都合がよかった。決しておおっぴらにされていいものではなかったはずです。

 

 「情熱の歌人」とも呼ばれた近代歌人、」与謝野晶子は「柔肌の熱き血汐に触れもみで…」と歌って、当時センセーションを巻き起こしました。内側に流れる熱いものこそが人間を衝き動かすのだ、という近代的なモデルを、彼女は言葉にして提示してみせた。それが当時の人々に衝撃を与えたのは、「情熱」を口にしていいなんてことを誰も考えてもいなかったことの現れでしょう。

(もっとも近代以前、江戸時代にはすでに近代の芽がぽつぽつ出ていました。徳兵衛とはつの心中(衝動の悲劇!)を美しくも悲惨に描いた近松門左衛門浄瑠璃なんて十分に近代的です。が、当時は前衛的すぎてあまりウケなかったらしい。近代とは、ようやく観客が追い付いてきた時代と言えるかもしれません)

 

 さて与謝野晶子が情熱を歌った20世紀前半、ヨーロッパでは医学の世界でも熱力学のモデルが応用されます。先ほども述べた、フロイト考案の「力動精神医学」ですね。自分の内側にある、えたいの知れない無意識、そこから生まれた性的エネルギーが人間をつき動かす。だからこそ我々は理性(超自我)によって、内なる衝動を押さえなければならない。蒸気機関の暴走を抑えるのと同じメタファーですね。 

20世紀とは大量生産の時代、大衆への普及が一気にはじまった時代で、それは何も工業や商業に限った話ではありません。一部の知識階級に独占されていた近代という思想も、蒸気機関車や紡績工場、学校や精神病棟に乗って大衆に届きました。そして現代という時代は、まさにその延長線上にあるのだ……ということは、頭の片隅に置いといて損はないと思います。

【コナトゥスに戻ります】

話は戻ってスピノザの話。

汎神論(神は世界に遍在する)を説いたオランダの哲学者スピノザは、理性について現代人とは違うイメージを持っていた。彼は言います。「人間は理性によって自然=神と調和しなければならない」。理性で考えれば神なんて存在しないんじゃないのか?と考えるのは近代人で、彼の論理はちょっと違う。 

これは衝動、コナトゥスが自分の外にあると考えるとわかりやすいんです。世界に存在する万物にはすべて、コナトゥスが宿っている。そして自分の意志も、コナトゥスの一部である。彼は自由意志の存在を否定しましたが、それはコナトゥスによって動かされるからですね。こうしてすべてのものを動かしているコナトゥスはもはや、<神>と呼ぶほかないであろう……

 

こうして汎神論が生まれるわけですが、わかんないかもしれません。俺の理解したスピノザはこういう人だけど。

とにかく彼は、「理性によって内なる衝動を抑え込む」ではなく「理性によって衝動を、外の世界へ無限に拡散させる」という逆の方向へ向かったわけです。発想の逆転とはまさにこのことでしょう。

***

古代ギリシアには「ストア派」という哲学一派がいました。ストイックの語源にもなった彼らストア派は「理性によって感情を抑えなければならない」と説きました。が、これも近代物理学のメタファーで捉えようとすると失敗します。彼らは歯を食いしばって感情を押し殺し、内なる衝動を抑えこむ苦行に耐えたストイシストではなかった。穏やかに、幸福に生きることを志向した人たちでした。彼らにとって、自分を衝き動かすものはスピノザと同じく外側にあった。

 

ストア派は「ロゴス(Logos)」という概念を重要視しました。これは「ロジック(Logic)」の語源であり、ロゴス自体が現代で言えば「理性・論理・言語」を含めた広い概念、「神が定めた世界の神的な論理」なるものを表したそうです。動きのないコナトゥスのようなものでしょうか。ストア派はコナトゥスも重要視していたそうですが、このロゴスとコナトゥスを「神」のもとに統合したのがスピノザの哲学かなあ、と思ってますが、どうなんでしょう。詳しい人教えてくれ。

 

まあ古代の人たちの言語体系を、現代日本語のそれに置き換えようという試み自体、メタファーからメタファーへの大ジャンプなので、明らかな間違いはともかく、あんまり正確な定義を求めても意味はないと思います。言語ってのは近代以降、語彙が爆発的に増えて、やたらと細かくなってしまった。かつては「ロゴス」と一言で呼んでいたものが、「理性」「論理」「言語」とバラバラなものになってしまった。そうじゃなくてロゴスはロゴスだし、そこにメス入れて分解しても意味ないんじゃねえかと思うけど、こんなこと言うから哲学ができないんでしょうね。

(しかしこうやって説明してみると、「コナトゥス」という単語がいかに使いやすいかわかりますね。現代の言語体系からコナトゥスを分析すると意味がわからなくなるけど、彼らのメタファーの内側に入って、コナトゥスを文章に組み入れようとすると、すごくしっくりくる)

【衝動は内にあるか、外にあるか】

 さて、衝動(コナトゥス)の起源は自分の外側、世界にあると考えることは、はたして非合理的でしょうか。

フロイトの学説によれば、衝動は自分の内側からやってくる、得体の知れないものである。その得体の知れないものを、理性で抑え込まねばならない。これは当たり前のように我々は考えますが、実は自分の本質を物の怪にしてしまうのと同じ、相当にしんどいことではないでしょうか。

 

一方で衝動の起源=コナトゥスはいつも目の前にある、世界に偏在するんだとする、スピノザーストア派の立場をとる場合。

これは目に見えるんだから、少なくとも得体が知れないことはない。理性は目に見えるもの、実体のあるもの、論理的なものを頼りにして安心したがります。だからこそ「自分もまたコナトゥスの一部であり、論理を踏み外していない」と理性で感じられるとすれば、これほど安心できることはないのではないでしょうか。

世界に神は偏在する。そして外から訪れる衝動とは、畏怖すべき物の怪ではなく、歓迎すべき神である。そう考える彼らの思考は、ものすごく合理的かもしれません。

 

だいたい情熱の訳語「passion」だって「受難」の意味があるし「passive」と言えば「受動的・消極的」の意です。Passionには「外から訪れられるもの」というイメージがあって、コナトゥスだってそうなんだけど、対して「情熱」って攻め一辺倒じゃないですか。受動的な要素がまるでない。

 近代以降の日本社会が、戦前から高度経済成長を経てブラック企業全盛の現代まで、攻め一辺倒という感じになってしまうのは、こういうことでもあると思うんですけど、どうなんですかね。外から訪れるものは神ではなく、物の怪でしかなかったことの弊害が出ちゃってるんじゃねえかと思うんだけど。

 【おわり】

…まあこの問題は書けばきりがないですが、Wikiのコナトゥスの項目を見てもわかるように、デカルトライプニッツスピノザヴィーコと、哲学の中でも相当のクセモノたちがこの問題にこだわってるんですね。クセモノというのは、哲学のルール自体を疑った人たちということ。哲学界のアウトサイダーなんです。

「哲学のルールがここで変わった!」と指摘したように、デカルトの登場以降は、哲学のルールが大きく揺らいでいる時代です。その時代に、どういうルールが提唱されたのか。これは面白いです。ヴィーコなんてあんまり知名度高くないけど、すごく面白いこと言ってる。

 この人たちがどう考えているのか。近代物理学のメタファー以外にも、選択肢が他にあるんじゃないかと、考えたい人は考えてみてください。コナトゥスまわりの人たちは本当におもしろいと思う。オートポイエーシスのシステム理論にもつながってるし。ということで回答。

質問:情熱の最初の炎をつくるには?

答え:「情熱の最初の炎」は現在、すでに人間の内側にあるようです(あるとすれば)。それを「神」とも「コナトゥス」とも呼ばないのは、今がそういう時代だからでしょうね。

 

【おまけ】 

ところで俺のハンドルネーム「じょーねつ」は、高度に近代的な概念である「情熱」をひらがなで表記することによって脱構築する戦略的な意図を持ったものでは全然なく、下記のとおりです。

「なんでじょーねつっていう名前なのかさっぱりなんですけど」

http://ask.fm/johnetsu592/answer/105181246675

ask.fmの質問、長くなるやつは今後もブログに持ってくる予定なので、適当に質問してもらうと何か書くかもしれません。基本的にリクエストがないと何も書きたがらない人間なので、質問来るとめっちゃ喜びます。よろしくどうぞ。

「コミュ力」についてゼロから考えた

「社会生活を営む上では、コミュ力がもっとも重要である」

…という上記のテーゼは真か偽か。まあ、どちらとも言える。

論理的に言えば、この文章が示しているのは「私は『社会生活を営む上では、コミュ力がもっとも重要である』が真であるような論理的前提に立つことをここに宣言します」でしかない。あなたがそう思うんならそうなんでしょ、あなたの中では、という話で、どんな命題もここへ行きつく。

でこの命題を分解すると、以下のことを前提としている。

 

・「社会生活」という概念が存在している。

・「社会生活」は営めるものである。

・主語が省略されている。いつどこの誰が社会生活を営むのか。

・「コミュ力」という概念も存在する。

・「もっとも重要である」という語は、コミュ力と並置される概念が複数存在することを前提としている(握力とか財力?)。

 

…これだけの文章でも省略された前提ってのは膨大で、全部指摘したら頭がおかしくなるのでやめます。

とにかく隠された前提が多すぎて、問題だらけ。だからいけない、というわけではなく、言葉はこれくらいめちゃくちゃなもので、そのめちゃくちゃさを引き受けるかどうかなんだけど、それはまた後で。

とにかく「社会生活を営む上では、コミュ力がもっとも重要である」という文章を受け入れるということは、それだけで膨大な前提を飲まされるということだ。言葉の怖さはここにある。

この命題の場合、ひとつ大きな問題は何かというと、隠されている前提として、所有のメタファーがあることだ。「社会生活を営む主体は個人であり、コミュニケーション能力は個人に帰属する」ということをこれは暗黙の了解としているからで、先のテーゼはたとえばこう言いかえられる。

 

「人間が『コミュ力』を所有している場合に、その人間はより良い『社会生活』を持つことができる(可能性がもっとも高くなる)」

 

「have a good time」なんて言うように、英語では時間に対しても所有の文法を使うし、才能があるという場合にも「have a talent」になる。ところが日本語は場の論理が中心で、「才能がある・時間がある(There is…)」という言い方をする(月本洋「日本人の脳に主語はいらない」はこのあたりの論ですごくおもしろい)

 

ごく自然な日本語の文体で所有の論理を表そうとすると、多くの場合、所有の論理を裏側に隠すことになる。一見おだやかそうな文章を書いているが実はマッチョ、ってのは学者なんかに多いけれども、それはこういうこと。で、ジョーク以外の文脈で論理を並べるのが怖い人って俺を含めいるんだけど、それは叩かれるのが怖いというだけでなく、このマッチョ思想が裏側で発動してしまうのが怖い、というのがあると思う。所有の欲望は隠されているだけに、ちょうどコートの下でおちんちん出してるようなもので、素っ裸よりグロテスクでもある。

 

「時間を持つ」のように所有の論理は「主体が客体に働きかける」というアナロジーを採用している。ただそこにある、ということはありえない。時間はただそこに流れるものではなく、人間に帰属すべきものであるし、才能だってただ純粋に自分に帰属するものである。

しつこいようだけど、それが正しいか間違いかというのは立場の違いにすぎない。私はそういう論理的前提を採用する、所有の文法が真である世界を生きている、という表明にすぎず、その人はそういう世界観の下で生きているのだなあ、と思うのが論理的に正しい姿勢である。「社会生活を営む上では、コミュ力が重要である」という文章はそれだけでバイアスがかかっていて、うっかりするとだまされやすい(そしてだまされるのがいけない、というわけでもない)。

【でようやく本題に入るけれど…】

「コミュ力」ってなんだろうか。

「コミュ力」なるものが本当に存在するのかどうか、という議論は何度も言うように間違いで、それが存在すると信じる人間にとって「コミュ力」は存在するし、そう思わない人間にとっては存在しない。問題にすべきは「コミュ力」という言葉が成立するためには、それが現実的に有効に機能するためには、どのような論理的前提が必要となるのかを考えなければならない(めんどくさいですね)。

 

「コミュニケーション」と「能力」を悪魔合体させるには何が必要か。

「コミュニケーション」という言葉自体がまず、当たり前だけど日本語には存在しなかった。これと同等に近い言葉が世界中の言語のどれほどにあるのか。人間は当たり前のように話すし、手紙を書くし、セックスもする。それらすべての行為を上空のメタ視点から眺め、「コミュニケーション」というカテゴリで括る。「そう括る必要がある」と思う人間が存在してはじめて、「コミュニケーション」という言葉は生まれる。

 

たとえば鈴虫の鳴き声を聞くのは一般にコミュニケーションと呼ばれているか、と言うとそうではないだろう。

「コミュニケーション」と一般に呼ぶケースと呼べないケースがあって、その線引きによって、人間はコミュニケーションできる相手とそうでない相手を暗黙裡に峻別している。「コミュニケーション」という言葉自体には何の意味もないけど、それによって区切られたあちら側とこちら側の関係には意味がある。

 

で、「混沌から秩序を生むために、人間は言葉で世界を分けたのだ」、というのは不正確で、実際のところ、言葉によって混沌は生まれるし、同時に秩序立てもする。「コミュニケーション」なる概念が登場すれば、じゃあこれはコミュニケーションなのか?そうじゃないのか?という紛糾が生まれる。秩序を生むために作られた国境をめぐって人間が争うように、線引きをしたがる人間の間では必ず争いの種がある。

線を引くのが正しいか否かではなく、線を引くという行為は、良くも悪くもそれ自体が争いの種を生むのだ。

「コミュニケーション」という言葉は、コミュニケーションが成立する関係と、そうでない関係を区別してしまう。農家が畑で立派な作物を育てる能力を「コミュ力」とわれわれは言わない。そしてそのことは不問にされる。くだらないと思われるかもしれないけど、目を逸らさせるのがイデオロギーを通すための常套手段だ。ちょうど、意識もしないふつうの文章の中に所有の論理が隠されてしまうように。

 

「『コミュニケーション』の語義があいまいだからダメなんだ。ちゃんと定義しろ」というのが正論のようで危ういのは、結局これも、言葉と意味が1対1対応させたい、という所有の欲望に基づいているからで、一つのイデオロギーでしかない。百科事典や辞書の編纂自体が、所有の欲望を是とする近代になってはじまったもので、中立的なものではまったくないし、そもそも中立的な言語などというものは存在しない。

「語の定義を始めた時点で近代が要請する文法に基づくしかなくなるんだ」という本当に面倒くさい議論がある。言語はどこまでも流動的なものであって、蝶の死体をピンセットで止めて観察するように、固定された言葉を操作しよう、解明しようとするのは近代特有の欲望である。定義した瞬間、言葉は生命を失っていく。もちろん死体の観察が無益だとは言わないけれど、現実の生物はみな生きて、刻々とその姿を変えているし、原子だって崩壊している。現実をそのまま科学の対象にしようとすれば、変数が多すぎてわけが分からなくなる、少しの入力の差がとんでもない出力の差を生む量子力学の世界になってしまうという話は、膨大すぎるのでやめます。俺はコミュ力の話をしたいんだ。

 

【俺はコミュ力の話をしたいんだ】

「コミュニケーション」の話はしたので、次は「能力」。こっちがまた厄介で、これだけ厄介なものを2つも並べてんだからコミュ力を巡る議論が簡単になるわけがない。

「能力」ってのは「能う(あたう)・力」で、ある課題の達成を可能にする力だ。だからコミュ力は「コミュニケーションを成立させる力」ということだけども、「能力」という熟語自体、標準語が官によって作られていく近代以降に誕生したものだ。それ以前、「力」は単に「力」、相手をねじ伏せるための腕力なり権力という意味しかなかった(と思うけど、少なくとも「能力」というアナロジーは使わなかった)。

 

で世界の様々な現象を表すのに「力」というメタファーを採用した古典力学が西洋で誕生した17世紀、いわゆる「ニュートン力学」だけども、このメタファーは自然科学以外の領域でも広く適用された。有名所で言えば、フロイトの精神医学は「力動精神医学」と称されるように、リビドーという性的エネルギーが人間の動力になるという熱力学と同じメタファーで精神を説明したものだ。近代科学の文法に従って、あらゆる領域が「力」のメタファーのもとに位置づけられる。「力」というメタファーは、数量化して数直線上に並べることが容易で、便利なのだ。「能力」という言葉もだから、近代の産物である。能力、つまり「力がそれを可能にする」という物語は近代科学の文法に他ならない。

原子だの分子だって人間が現象を理解するための一つの説明原理で、量子力学によれば、この宇宙は13次元で、観測不可能なひも状の物体かもしれないのである。「科学は正しいか?間違っているか?」ではなく、科学は一つの解釈体系であって、である以上当然、メタファーを前提にする。科学は一つのメタファーにすぎない、とはアンチサイエンスでもなんでもなく、科学哲学の基本だ。

 

…めちゃくちゃすっ飛ばして書いてますけど、ちゃんと書いたら本当に膨大になる。でも膨大を無視して、論理の前提に無自覚なまま「コミュ力が云々~」と理屈をこねくり回したってろくな論にはならない。「コミュ力」というワーディングを採用すること自体が「弱者とは力を持たざる者のことである」という近代の論理(人間の行動原理を数量化できる力のメタファーで捉え、それを定義によって固定化する)を強化することになりかねない。

「コミュ力」という概念に反発したい人が「非コミュで何が悪い」と開き直るのは実際、筋が悪い。「非コミュ」というワーディングを採用した時点で、人間を数直線上に並べる、世の中にとって好都合なモデルを採用することになるし、不利でしかないポジションに自分を固定してしまうことになる。

近代だなんだって俺が連呼しているのは、現代の基板となっているメタファーは、この近代科学の論理を人間の精神にも応用したものだからで、要するに近代合理主義は今も神様なんだ(アレンジは加わってるけど)。近代は終わった、これからはポストモダンだなんて言われたけど、ポストモダン思想は結局、神様にも神話にもなれなかった。近代はまだ続いている。

*** 

人間社会の歴史とは、メタファーの覇権をめぐる争いの歴史にほかならない。先日の記事(http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/205745)「ただのたとえ話じゃないか」と評されて、それはそのとおりだけど、歴史とは有効なたとえ話の覇権をめぐる戦いのことなんだからたとえ話をバカにしてはいけない。

科学も宗教もイデオロギーも、すべては「どのようなメタファーを採用しているか?」に議論は集約される。その社会では、どのようなメタファーが是とされ、どのようなメタファーが非とされるのか。どのようなメタファーに説得されるのか。人間社会の歴史とは、言語とパワーバランスを巡る系譜だ。すべてをメタファーで捉える視点を得なければ、自分の足場なんてわからないのだし、自分の頭で考えるなんてことはできない。自分の足場をいったんは相対化しない限り、自分で考えているつもりが、まんまと支配的な文法に考えさせられているだけ、という悲劇が待ち構える。言葉で世界に対峙するには、それだけの地力が必要なんだ。

【アウトサイダーの論理】

…まあすべてをメタファーで語るというのは狂人の話し方として有名なんですけども、発狂するというのは「その社会を支えるすべてのメタファーが信じられなくなる」ということだからですね。彼/彼女の前ではあらゆる概念が等価になるから、常人がメタファーでつながないようなものまでつなげてしまう。社会の価値観はすべて幻想だ!って見破ってしまうと、その外側には廃墟しかない。劇場版まどマギの世界はまさしくそうで、正しいことを貫くのはひどく大変なことなんだ。

 

すべてはメタファーにすぎないという相対化の海を前提にして、かつ発狂せず、現世の論理とも調和していくためには、自分なりの論理的基盤、教養体系であり、論理を支えるための物語文法が必要だってのは、前の記事でも書いたとおり。自分の頭で考えるってのは膨大を抱え込むってことで、それでかしんどいことだし、つらいことでもある。

繰り返すけど狂人ってのは、その社会のメタファーを共有できないに人間に貼られるレッテルにすぎない。ある世界での狂人は、違う世界でのヒーローだ。正常も異常も、すべては相対的なものにすぎない。といって、「すべてのものは相対的である。だからあらゆる価値観はウソで、信じるに値しない」というニヒリズムに陥らず、また発狂して自分の世界に閉じこもることもなく、廃墟から自分の言葉で世界を秩序立て、調和を目指す。これが近代が持ちうる唯一の可能性だと俺は思うんだけど、なんで「コミュ力」からこんな話になったんだ…?

***

で、この先はどうなるかといえば、この「個人」を「社会」に応用すればいい。「コミュ力」という定義が拡散しているから議論にならない、と投げ捨てるんじゃない。現に「コミュ力」という言葉がこれだけ流通しているということは、語の定義の前段階、「コミュ力」が暗黙のうちに前提としている部分で、社会の中で共有されている要素があるということで、じゃあその「コミュ力」というワーディングは何と何を峻別し、人間の意識に、社会に、どのような動きを生むのかって構造の全体を考えなければいけない。んだけど、めちゃくちゃ面倒くさい。自分の頭で考えるってのは、この面倒くささと付き合う覚悟があるかどうかなんだろう。だからこれからは何万字も書くしかねえんだ、って吹っ切れてるんですけど、これは傍から見たら絶対怖いな。

でこれだけの面倒くさい前提を抱え込んでようやく、「コミュ力」の問題についてスタートを切るわけですが、面倒なので今日はやめます。勢いで書き散らかしちゃっただけなので、また気が向いたら。

***

…今回のは久しぶりに書き散らしただけなので、わけがわからないと思いますが、こんなわけのわからないことを言っている人間でも社会生活を営めていること、言葉をあきらめていないことを知っていただけるだけでも、有益になればいいなと思ったり願ったりでございます。言葉は何の意味も持たないってことは絶望かもしれないけど、絶望はスタートでしかないんだ。

 

※追記:11月4日の文学フリマ、行きます。よろしくお願いします。

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/173722

もしもメンヘラがひとつの村だったら…―脱メンヘラの人類学講座―

「メンヘラ」って概念は果たしてどうかと思っていて、「理性はあるけど教養はない不摂生なバカ」って言えばいいのにと思いますね。

世間一般に言うところの「メンヘラ」に足ていないのは「健康」と「教養」なんだけど、そんな身もフタもない事実に向き合いたくないから「メンタルヘルス」なんていう高尚な概念にすり替えやがる、ってだけで、たのむから石を投げないでほしいんですけど、そういう話をします。

【メンヘラはさっさと健康になれ】

まず健康。早寝早起き・腹八分目を心がけてください。暴飲暴食はNG。昼はちゃんと日を浴びること。自分の足で歩くこと。ODしないこと。以上。

以下は教養について話をします。

【教養とはなにか?】

教養とは「理性が依って立つ根拠」です。どういうことか。

「狂人は理性が狂っているのではない。理性以外全部が狂っているのだ」という箴言がありますが全くそのとおりで、ここではメンヘラを「狂人数歩手前の人間」としましょうか。つまりメンヘラは、理性以外全部が今にも狂い出しそうで、理性だけがなんとか機能している。理性だけが働きすぎて、悲鳴を上げている。

これは先に述べたとおりで、メンヘラは理性以外の部分(ざっくり言えば「身体」)がうまく機能していない。だからまず身体をちゃんと機能させねばということで、健康問題が出てくる。健康第一です。

 

でもう一方には、働きすぎの理性の負担を軽くするために、自分の外側の教養体系を拠り所にして、理性の負荷を分散させようというアイデアが出てくる。なんでも自分で考えるとパンクするので「そんなの常識でしょ」で済ませられるようにさっさと教養を身に付ける。

こっちは少しわかりにくいと思う。ので、ちょっと歴史の話をします。

 

まず「理性」なんて概念は、昔の人にとって当たり前でもなんでもなかった。「われ思う。ゆえにわれあり」とデカルトが宣言、ヨーロッパで近代合理主義が花開くまで、「自分の頭で考える」なんてことは常識でもなんでもなかった。それどころか自分の頭で考えようとする人間は、共同体の秩序を乱すということでキチガイ認定されたわけです。勝手なこと考えんじゃねえって。

まあ現代だってそうかもしれないですけどね。自分の頭で考えるなんてことはいつの時代だって歓迎されてないわけで、メンヘラ各位が迫害されるのは歴史的に見れば当たり前のことでしかありません。ただ昔はそういうメンヘラを、「神の化身だ」として祭り上げたり、「悪霊が憑いた!」とされてお祓いを受けたり、あるいは世俗の外の仏教が吸収したり(「出家」というやつです)なんてシステムもあったんだけど、今は精神病院が一手に引き受けてるって事情はあります。単に「病気」で片づけられてしまう部分はかわいそうなんだけど、「精神病」なんてのは近代国家がメンヘラを安全に管理するために創作した概念でもあって、そんな場所に自分からハマりに行くところが、あまつさえそこに個性を見出そうとすらしてしまうところが、自称メンヘラはバカなんだって思う理由なんですけど、脱線したな。

 

話を戻すと理性とはなにか。「意味」を作るところです。

人間はあまりに多くの情報量を受け取ると、処理能力不足でパニックを起こして適切な行動が起こせなくなる。そんなときヘルプになるのが理性です。

たとえば100の情報量を受け取ったとして、それを「100⇒1」までザクザクと情報を削ぎ落とす職人が理性であって、そうして理性によって形作られた「1」が意味になります。考慮に入れるべき情報量が多すぎて判断できない、という事態に直面すると、身体が理性に「助けてください!」とヘルプを出す。すると理性はそれに応答し「これは要するにこういう意味である。安心しなさい」と100の情報を1まで要約して体に戻す。すると身体は「なるほど」と納得して、パニックが収まる。こうして元の状態が保たれる。

理性ってのはだから、身体のホメオスタシス(恒常性)を保つ機能の1つで、免疫と同じなんですね。免疫とは、ウィルスのような異物が侵入してきた際に、その異物を体内に安全に取り込むための手助けをする機能。ここでのポイントは異物を排除するのではなく、いったん取り込む、という点です。理性というのも、そのいったん取り込んだ異物に反応し、安全に飲み込むべく異物に処理を施す。だから理性は、精神版の免疫なんです。

 

で、ここから話は意味不明になるんですが、その免疫システムたる理性が何に似ているかというと、村の長老に似ている。

唐突ですが以下は村の話をします。

 

【理性=長老である】

先に対応関係を示しておくと

「人間=村、若者=身体、長老=理性、神話=教養」です。まあ読めばわかる。

 

まず一つの部族を思い浮かべてください。特に好きな部族がなければ、マサイ族で想像すればよし。

マサイ族の若者がいます。ある日、彼がジャングルを散策していると、今まで見たこともない奇妙なアイテムを発見する。仮にipadとしましょう。米兵が手を滑らせて空中から落としてしまったipadを、

若者は村へ持ち帰ります。これはいったいなんであろうか。村の人々が集まり、ああだこうだ議論するも、正体はわからない。もしかしたら村に災厄をもたらす、呪われたアイテムかもしれない。ipadを「2001年宇宙の旅」のモノリスみたいに誤解した村人たちはあわやパニックを起こしそうになりますが、そこで村の代表の一人が「よし、長老に聞いてみよう」と提案、村はずれのテントの中でひっそりと暮らす長老のもとを訪れる。

「長老、村の人間がこんなものを、こういう経緯で拾いまして、我々はこう思うのですが…」と若者が説明をする。それを聞いて長老は「それはな…」と語りはじめる。曰く、その奇怪な石板は古来の神話によると、石の神がつくりだしたものである。石の神は地上に悪魔が寄り付かないように、ときおり奇妙な石板を作り上げる。それは村で言えば、カラスが寄り付かないよう畑に立てるカカシと同じである。その石板には魔除けの効果があるから、祭壇に飾って崇めるのがよいだろう…。

マサイ族の村にカカシがあるかどうかは置いといて、長老の話になるほど、と納得した彼は、村人たちのもとへと戻り、報告する。長老は心配するなと言っていた、すでに神話で予見されていることだったんだ、これは祭壇に飾ればよいのだ、と報告する。なるほど、と村人たちは納得して、村には平穏が戻る…。

 

…わかりますか。

わかりにくいと思うので、図で説明します。

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※これがいちばんわかりやすい、と本人は思ってます。

まず、それ自体で自己完結した村がある(「Village」の環)。この環は何も事件がなければ恒常性は維持されるのだけど、そこにipadという意味不明(図中の「?」)が侵入してくるんですね。それが(1)。

(1)で入ってきた「?」が村の中で処理できなかった場合、村外れに住む長老(図中「Silver」)のもとへ「?」がパスされる。それが(2)です。で、長老は長老で自己完結しているんだけど、長老自体は決して全知全能ではない。だから自分より環の大きな、壮大な神話体系の中に「?」を投げ込む。それが(3)です。

そうしてまた、神話は神話で自己完結しているんですね。古今東西、どの神話にも必ず一定の物語構造がある、という話は、物語論の本などを各位で参照してください。ともかく、長老が神話というメルティングポットの中へ投げ込んだ謎が、神話の体系を通じて答えが出て戻ってくる。それが(4)(図中の「Ans」)。そうして長老は神話から出た回答を受け取り、それを村人のもとへ戻す。この段階が(5)。そうして「?」は「Ans」という安全なかたち(=意味)に変わり、村人は「なるほど」と意味を理解し、恒常性は維持、村は平和を取り戻す…というシステムです。おわかりだろうか。(説明してるうちにわかってくると思うので、気にしないでください。つまずいたらこの図に戻ってくれれば)

 

そしてこの図のそれぞれの環を「長老→理性」「村→身体」「神話→教養」と変換すれば、そっくりそのまま現代人の精神構造になります。どういうことか。

 

まず身体(=村の若者)が外から情報をキャッチする。その情報は身体が自ら判断・処理できるようなものであれば、理性の出番はありません。「ボールが飛んできたらよける」みたいな反射動作はこれですね。何の疑問も抱かず平然と世の中を生きてる人は、動物みたいにほとんど反射神経だけで、体だけで生きてるってことです。もちろん程度問題で、完全に理性ゼロってわけではないけれど、そういう人もいる。

村のモデルで言えば、若者が自分で考えて処理できる情報については、長老のところまで議題に上がってきません。若者で処理できる問題は勝手に若者で処理して、村の秩序は何事もなく保たれる。

 

しかし問題は、体がすぐに反応できない場合です。

外からの情報に対してどう反応すればいいか体が判断できず、それでも何かしらリアクションをとらなければ村の機能は停止してしまう。そのときに理性が判断を下します。「その情報は要するにこういうことだから、こうやって動きなさい」と。そうして「なるほど」と納得して体が動く。

理性は本来、長老と同じく、緊急事態にのみ働くものでした。しかしそれが常時働いてしまうのが現代人であり、理性をブラック企業のごとく酷使しているのがメンヘラである。ということです。現代社会は人間に理性があることを前提にして設計されてるんだけど、でも「理性を機能させる」を成り立たせるのは、結構難しいことなんですね。

 

…ひょっとしてこれの理解が難しいのは、現代人とはきわめて理性的な人種だから「理性で考えるのが当たり前じゃないの?」と思うからかもしれない。「頭が認識する→体が動く」という順で我々じゃ考えがちですけど、逆です。「体が反応する→頭が認識する」の方が先に来る。それで反応できないという事態に直面して「頭→体」の順路が現れる。理性が体に動くよう命じる。

つまり必ず順番は「若者→長老」なのであって「長老→若者」ではありません。長老はテントの中に控えてるのが仕事なんだから。長老がでしゃばったら、村は混乱します。

 

さてこの「村人ー長老モデル」最後まで引っぱります。村モデルで重要なのは以下。

 

(1)外の世界から情報を受け取るのは若者の仕事である

繰り返しますが未知の情報は若者が持ってくるのであって、長老はテントから出ない。「未知」にダイレクトには触れない。村長は若者の代表が持ってきた情報の一部から答えを導きます。もし長老までテントの外に出てジャングルを探検したら、誰も緊急事態に対応できないし、情報量が多すぎて長老までいっしょに混乱してしまう。だから長老はテントの中で、自分がこれまで身につけてきた知見にもとづいてジャッジを下す。

 

ということで長老自体は、新しい知見って何も学ばないんです。長老にとって「未知」は存在しない。すべては神話の中で説明がつく。長老は「何でも知っている」とされていることが必要で、そうでなければ若者は長老を頼ることができません。

人間って、理性にしがみついているうちは、新しいことは何も学べないんですね。長老は新しいことを何も学ばないからこそ、動揺しないで仕事ができるのと同じで。本物の狂人が自分のロジックで完全に自己完結して、妄想の世界に閉じこもれるのは、長老がテントに引きこもって自己完結してるのと同じです。そうなれば長老は、若者=身体の意見をまったく聞かないし、命令だけはイップ的に下す。だから狂人はうんこだって平気で食えるんですよ。身体がうんこを拒否しても、理性は平然とGOサインを出して身体を動かしちゃう。それくらい理性は、合理的に間違える。狂人とは暴君が支配する荒廃した独裁国家のようなものです。

 

余談でした。

長老は若者の代表がテントの中へ持ってきた、情報の断片から「意味」を生み出す。だから若者たちが長老のもとに多すぎる情報を持ち込んだり、とんでもないもの(うんことか)を持ちこんできたら、長老はパニックになります。

長老に上がってくる以前の段階で、危険なものは若者自ら食い止めなければいけない。なんでも長老に頼ってはいけない。若者はうんこを見たら自分の判断で「こんなもの食えない!」と拒絶しなければならないのであって、「これは食べられるものでしょうか?」と長老の前に平気な顔でうんこを差し出してしまうのは、狂人一歩手前なんです。そりゃ長老だって、テントに引きこもりたくなるわって話で。何度も何度も若者がうんこを持ち込んできたら、長老だってそのうち「ひょっとしたら食えるのかもしれない…」って思っちゃいますよ。重要なのは若者にちゃんと仕事させることです。体調を整えろ、健康になれってのはそういうこと。若者の機能しない村が向かう先は、狂気か衰亡のどちらかしかありません。

 

メンヘラは自分の中の長老になんでもかんでも議題を投げてしまいがちですが、それでは長老が可哀そうである。若者にもちゃんと仕事をさせて、自分の中の長老を大事にしてやってください。大事にするってのは、後生大事に抱えるってことじゃなくて、ちゃんと仕事させるってことですね。理性にちゃんと仕事させるためには、身体にもちゃんと仕事をしてもらう。これが1点。

 

(2)長老の答えは、村人が納得さえすれば何でもよい

村人が「なるほど」と納得さえしてくれれば、長老の答えがめちゃくちゃなものでもいいわけです。ipadについて「これはその昔、岩を司る神様が……」と非科学的な説明をしたとしても、それで村人が納得して、村に平穏が戻るならばオーケー。理性とは、そして理性によって生み出される「意味」とは、それくらいにいいかげんで、だからこそよくできた、合理的なシステムなんです。だから「本当の意味」なんてものを探りすぎると、気が狂いかねない。意味が生まれるシステムは適当だからこそ、柔軟に機能するんだから。「あなたが出した答えはウソじゃないですか?」なんて若者が長老に向かって何度も疑問をつき返したら、長老は「俺は信頼されていないのか…?」と焦っていきます。自意識をぐるぐる回すほど、焦燥感ばかりが募っていくのはこれですね。

 

…ところでこのとき、長老が神話を知らなければどうなるか?

神話とは、自分の世界を包み込む大きな論理体系です。これがちゃんと確立していれば「どんなに奇妙なことがあっても神話の世界に位置づけられる」という安心感を前提にして、長老は堂々と若者に講釈を垂れる。どんな驚天動地の出来事が起ころうと、神話にこじつけてしまえばよい。そうすれば若者たちは安心するんです。

この神話がないと、長老は「俺はこう思うけど、根拠がないんだよなー…」って思考の堂々巡りをはじめる。困るのは村人です。長老はつまらない自意識抱えて悩んでいれば済むけれど、そうしている間にも本体の村は大パニック。「早く答えをくれ!」って叫ぶわけですね。だから精神の病ってのは、まず体=若者が悲鳴を上げることで現れる。「メンヘラ」なんて言うのは「メンタルが悪い」のではなく「メンタルとフィジカルが調和してない」のが問題なんです。「メンヘラ」って言うからややこしくなるのであって、ただの「ヘラ」と呼ぶほうが正確でしょう。

 

【「神話」とはそもそも…?】

「崇高な存在によるドラマ」です、神話を言い換えると。

たとえばギリシア神話には「愛を司る神」という自分たちの上に立つ存在がいて、「愛を司る神であれば、当然この神に対してこう行動するはずである…」といった人々の認識を、ドラマ仕立てにしたのが神話です。だから神話におけるドラマってパターン認識の束でできていて、非常に論理的なんですね。

「○○の象徴と☓☓の象徴が、こういう関係で交わるとこうなるあずである…」という論理が、具体的な形で持って現される。ギリシア神話なら「愛を司る神・アフロディーテ」と抽象概念が擬人化され、「古事記」の日本神話なら「河が海へと流れ入る河口で、海側を守る女性神ハヤアツキヒメの神・河側を守るのが男性神ハヤアツキヒコの神」というような自然の擬人化(しかも男女対になったりする)で、キリスト教の聖書なら「全知全能の神」が一人いるだけである…とこうした神話の構造の違いが、集団の精神構造の違いに反映されるというのは余談です(余談でもないか)。

まとめると「自分の外に崇高なものを見出し、それを言葉(=論理)で具現化したもの」こそが神話である。そして神話の中でも、ある程度広く社会に共有されているものを「大きな物語」、共有されない神話を「小さな物語」と呼びます(社会学用語で)。あんまり学術用語って好きじゃないんですけど、ちょっとの間これ使って説明します。

【「大きな物語」のない時代…】

さて、現代の日本において生存している「大きな物語」は、ほぼ皆無です。「社会に広く共有されている神話的な概念」はほとんど存在しない。「古事記」の世界のような日本神話はもちろんのこと、宗教もいまや力を失っていますし、「八紘一宇」に代表される大和魂もなくなってしまった。

「われ思う、ゆえにわれあり」で各々が自己完結している現代、当たり前のように共有される神話なんて存在しない。学歴神話も、ファミリー幻想も、ペガサス幻想も終わってしまった。しかしそれでも神話が1つあるとすれば「科学」でしょうか。後の『精神医学』の章で詳述しますが、結論から言えばあまりにも発展した科学は「素人にはわかりっこない以上、専門家に任せるしかない」という諦観を、否応なく人々に植え付けてしまう。自分で考えることを最初からあきらめさせてしまう。童貞はソープに行けじゃないけど、メンヘラは精神科行けって話で済ませてしまえば、メンヘラは治療されるべき、正常から逸脱した病人でおしまいですね。あとはお薬パクパクって、養鶏場のブロイラーと同じじゃねえかって思う。

 

というわけで「大きな物語」無きこの時代、我々はどう生きればいいか。一人ひとりが自分の中に、神話の代替物を持つしかない、「大きな物語」に代わりうる「小さな物語」をたくさん抱えて生きていくしかないとは批評家の大塚英志が口を酸っぱくして言い続けてきたことですが、それしかないだろうと俺も思っていて、そうして思い出すのは宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」の主人公、堀越二郎です。

 

堀越二郎は、まさに「小さな物語」を生きた、というか生きざるをえなかった人ですね。日本が急速な近代化を進め、お国のためにという「大きな物語」に人々が巻き込まれていく中、二郎はそこにリアリティを見いだせなかった。彼はむしろ「国家」という人工的な概念よりも、「空」や「さばの骨」といった自然の中に自分を超えた崇高なものを見出し、その美しさを設計図の中で具現化しようとする。憧れを論理でつかまえて、それを自分の中に位置づけようとする。彼にとっては美しい飛行機の設計こそ「小さな物語」でした。

彼は半分、神話の世界に生きていて、物語の途中までそのことに無自覚でいるから、とても夢見がちなんですね。でも「自分の頭で考える」という近代をスタートさせるには、そこから出発するしかなかった。自分の神話を抱えてはじめて、自分の頭で考えられるようになる。

二郎を取り巻く「大きな物語」に巻き込まれていった人たちは、結局のところ「日本」を「長老」に置いちゃったんです。何かあったら「お上の言ってることだから正しい」で済ませてしまった。これではいつまでも、自分で考えるということができません。

宮崎駿がいま堀越二郎を描いたのは、「自分の頭で考えるには、夢見がちなところから出発するしかない」という近代のあるべき人間の姿を子どもに伝えたかったからだろうと思うのですが、風立ちぬに深入りするとめちゃくちゃ長くなるので切り上げます。本当にいい映画でした。

 

…というわけで、二郎のように「小さな物語」を、自分を成り立たせるための神話を作るのに必要なものは何か。といえば「教養」ですね。二郎だってちゃんとした教養があってはじめて、社会の中で生きていかれたわけで、ボーッと空に憧れてるだけでは野垂れ死んでしまいます。困った事態に直面したとき「こんなとき昔の人はどう考えただろう…?」「昔読んだ漫画でこんなシチュエーションあったぞ…」という教養体系があれば、それだけで理性を導く手がかりとなります。ぼんやりとした思考を「意味」という形に具現化するためには、教養が必要なんですね。

 

で、この神話のもととなる教養づくりをサボれば、自分の頭の中で緊急事態を処理するしかなくなる。そうすればゆくゆくは自意識に押しつぶされるか、あるいは自分の外に神を見出すしかなくなってしまう。自分の外に神を見い出せば、宗教にハマったりとか、恋人を神に仕立てあげたりとか、オーケンを追っかけたりとか、まあそういう道もありますが、それはしかし長老の責任放棄じゃねえかと思います。別に宗教にハマってもいいけど、現に生まれてしまった長老がかわいそうじゃねえの、それっていつかしっぺ返しが来るよ、と思う。長老を一時的に無視することはできても、完全に殺すことはできないし、いつか長老が目を醒ましてしまう日は来る。一生オーケンを追い続けるわけにはいかない。だったら長老の口を無理やりふさぐんじゃなく、長老を村の中に位置づけて、ちゃんと村全体を機能させる、という方向で頑張ったほうが健全だと思います。が、もしかして俺は相当難しいことを言ってるんじゃないか…?

【メンヘラとはなにか?】

なにやらとんでもないことを言ってる気がしてきたけど、まあいいや。メンヘラとはなにか。いったんまとめます。

「狂人は理性だけが機能している」と最初に述べましたが、これは村で言えば「長老が若者を無視して独裁を振るっている」という状態です。そしてメンヘラが狂人の何歩か手前だとするならば「若者が長老に議題をどんどん投げる」という長老に過剰な負荷をかけ続けている状態、理性を酷使している状態。これがメンヘラ的な思考形態であります。このときメンヘラの中の長老は独裁者ではなく、仕事を押し付けられた可哀そうな被害者ですね。

 

さて、山積みになっていく議題を前に、メンヘラ村の長老はどうするか。「若者は頼りにならんから、ワシが全部命令を振るってやる!」と張り切れば、意味を過剰に生み出す精神状態、「目に映るすべてのことはメッセージ」的な統合過剰の躁状態になる。「どうすればいいかわからない…」と議題を未解決のまま溜めて意味付けをサボれば、自分に起きてることの意味がわからない、生きていても意味がないと絶望する、統合失調の鬱状態になる。

いずれにせよ「長老のまえに議題は山積み」という状況は躁鬱ともに共通していて、それにどう対応するかでどっちにも転びうるわけです。

…まあ便宜上「メンヘラ」という言葉を使ってますが、理性を持った現代人はみんなこうなりうるわけで、メンヘラだけが特別なわけではありません。普通の人だって鬱にも躁にもなるんだから。メンヘラは長老に議題を溜めてしまいやすいパーソナリティである、というだけで。俺に言わせりゃ現代はメンヘラじゃない人間のほうがおかしいですね。理性を前提とした現代の日本は1億総メンヘラ社会なのだから、自分だけがおかしいなんてことはないです。世の中全部がおかしいんだ。

 

…ということで前半終了。後半はこの村モデルを応用して、下記のメンヘラ用語を解説します。

 

1,リストカット

2,承認欲求

3,OD(オーバードーズ

4,多重人格

5,精神医学

6,発達障害アスペルガーADHD

7,お笑い

 

もういちど確認すると「人間=村、若者=身体、長老=理性、神話=教養」。脳内物質とかなんとか難しい用語抜き。この対応関係で全部を説明します。やるぞ!

【補講:なぜ人間は頭の中に村をつくったのか?】

ところでこの村モデルは、あながちこじつけでもない。というのは、人間社会の進歩と歩みを同じくしているから。

まず原始、小さな集団で生活を営んでいた人間たちが、集団は大きい方が有利だということで固まり、より大きな部族社会が発生する。彼らの関係が安定し、定住をはじめれば、そこには上下関係のヒエラルキーと、それに伴ってその土地固有の信仰が生まれる。信仰がないと、集団を一つにまとめられませんから。この段階が先ほどから述べている村のモデルで、「長老」という役職もここではじめて生まれます。

「その土地固有の宗教」とは、「豊作を祈るために土地の神様を祝福する宗教」ですが、この土着の宗教は歴史が進むと「個人の内面に訴えかける宗教」に取って代わる。「仏教・キリスト教・イスラム教」の世界三大宗教はこれですね。歴史の発展段階では徐々にこうなっていく。土地に根付いた宗教は土地を離れられないがゆえに、たとえばキリスト教のように「世界中に信者が19億人!」というわけにはいかない。キリスト教はローカルな土地ではなく、個人の内面という「土地」に根付くことを選択できたため、今日まで拡大しました。

さて、この内面に訴える宗教は、人間と神(仏)が1対1で向き合うことになる。たとえばキリスト教世界。そこには教会なり修道院を中心とした信者のコミュニティがあって、そこに教会をまとめあげる神父でもいれば、彼が長老の代わりになります。個人は直接神とは向き合えないから、代表者たる神父を通じて神と向き合う。

が、そこから歴史はプロテスタントという、聖書至上主義の派閥を生みました。プロテスタントは教会を挟まず、個人と神が聖書を挟んでダイレクトに1対1で向き合います。ということは、長老の役割を果たしていた教会の神父様は抹消され、自分が「神父=長老」の役割を兼ねるしかない。そうして「自分=長老」が頼るべき神話とは、ここでは聖書です。ただひたすら聖書を信仰するピュアな人々だから「ピューリタン」とも呼ばれたんですね。

そして最後に「われ思う、ゆえにわれあり」という、人間が人間として自足する近代合理主義が西欧ではじまって、「神は死んだ」で神が内面から追放される。神はいなくなるけど、「長老=自分」は変わらず、長老は神に頼れなくなり孤独である。だからヨーロッパのこの時代、人々は目に見えるものにすがりつく。人々が私的な日記をつけはじめるのも、商人が富の貯蓄をはじめるのも、画家や詩人がリアリズムに固執しはじめるのも、すべてこの時代です。

目に見えるものに人々が必死でしがみつかざるをえなかった西欧の近代は、かなりしんどく、寂しい時代だったはずですが、それが何を間違ったか、産業革命と二度の世界大戦を通じて、世界中を覆い尽くす当たり前の思想となってしまった。そうした狂おしいほど寂しい近代の延長線上に、現代のわれわれがいるんです。思えば近代とは、神を世界から追放してしまった寂しさを埋めるために、他人を支配せざるをえなかったメンヘラの時代だったのかもしれません。

「そりゃ神話が必要だわ…」と思っていただけたかどうかわかりませんが、とにかく人類は、村から長老を追放し、自分の頭のなかに長老を置くことを選択してしまった。だから自分の中には村があるのである。これは抑えておいてください。

 

***

以上は同人誌「メンヘラリティスカイ」に寄稿した俺の原稿、前半部です。11月4日(月・祝)に開催される第17回文学フリマにて頒布。詳しくはこちら。

 

「第17回 文学フリマ参戦のお知らせ」

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/173722

 

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執筆者は個性的な顔ぶれですし、俺のページ以外は見どころ満載だと思います。ぜひぜひ。

しかし前半部だけで10,000字超えるとは…。ノリノリで書いたのでとんでもないことを書いてる気がしますが、ご容赦ください。後半部はさらにとんでもない。

でも書いてることは冗談でもなんでもなく、本気で思っていて、メンタルは変えられない、薬に任せるしかないと思ってたら、本当に絶望しかないですよ。

どうか言葉をあきらめないでほしい。そういう願いを込めたかどうか、今となってはわかりませんが、文フリ当日は会場ぶらぶらしてます。くれぐれも背後から刺さないよう、よろしくお願いピース。

 ※追記

電子書籍版のDL販売はじまりました。詳しくはこちら。

http://hallucinyan.hatenablog.com/entry/2013/10/26/093925

※補足

「精神病は脳の機能障害だ」という意見、やっぱりいただきましたが、本当にそうでしょうか。たとえば特定の脳内伝達物質が出にくい人がいるとして、その人は「脳に障害があるから、認知がおかしくなる」のではなくその逆で「認知パターンがおかしい結果、脳の作用に偏りが出てしまう」かもしれない。どちらの場合でも観察されるのは「脳内伝達物質が出てない」です。

まあ正解はどちらか一方ではなく、その相互作用なのでしょうが、だとすれば認知パターンを修正していくことで、脳の作用もまた変わっていく可能性は十分あるんじゃないですか。今の医学はそこまで解明できていないはずで。

「精神病」という概念が発明されたのはここ100年くらいのことで、それ以前だって人類は、今だったら精神病と言われる類の症状に対処してきた。なのにそれまでの知恵を一切捨てて近代医学だけを正しいと思い込む、というのは危険だと俺は思います。一般論として「精神病」はあっていいけど、自分が生きていくうえで、それを鵜呑みにして落ち込む必要はない。別の解釈モデルを持って、自分の人生に役立てたっていい。一般論と各論は別にあっていいという、そういう話です。

第17回 文学フリマ参戦のお知らせ

11月4日(月・祝)に開催される第17回文学フリマhttp://bunfree.net/)、今回はニ誌に寄稿をしました。
 

C-58「メンヘラリティ・スカイ」(サークル名:カラフネ)

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詩から小説からオリジナルメンヘラップCDまで付いてくる、業の深い同人誌に寄稿しました。責任編集は、オフ会でおつまみ代わりにスマートドラッグをガンガンつまむ人間ことはるしにゃん(@hallucinyan)と、ustで自殺配信して警察のお世話になった沖縄出身の三流女ネット芸人ことメンヘラ神(@Q_sai_)のお二方。この二人に任せて、ちゃんと企画が完成しただけでも拍手だと思います。
 
はるしにゃん氏による紹介はこちら。
 
まったくメンヘラとは縁がない僕ですが「脱・メンヘラの社会学講座」という名目でメンヘラはただのバカとバカにする最低な記事を書きました。 
炎上必至の内容を好き放題に書いてますので、よろしくお願いします。渾身の25,000字。
 
 

ウー33 「稀風社の薄情」(サークル名:稀風社)

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※上記画像は前回頒布「稀風社の粉」
 
ツイッターのつながりで結成した短歌サークル。執筆者は僕(情田熱彦名義で寄稿)と、鈴木ちはね(@suzuchiu)、三上晴海(@kmhr_t)、どっとあいあ(@dot_aia)、謎の短歌仮面X(?)、以上5人。詳しくはこちら。
 
 
内容は各人の短歌数首および短歌に関連するエッセイで、僕も大まじめな短歌と大まじめなエッセイを寄稿しております。あと完全に気のせいだと思うんですけど、謎の短歌仮面Xさんのエッセイは、俺が何も考えず悪ノリしてるときの文体にすげぇ似てた。
既刊の歌集も販売する予定です。あわせてぜひ。
 

当日は …

おもに稀風社のブース(ウ-33)で、本でも読みながら店番してると思います。「ツイッター見て来ました!」と言っていただければ、読んでる本の中から適当に1ページ破いてプレゼントします(絶対にしません)。よろしくお願いします。

やなせたかしは偉大なる凡人だった

やなせたかし氏の訃報を聞いて、そういやアンパンマンって今でも子どものヒーローなんだよな、とちょっと驚いた。

 

「漫画家やなせたかしさん 死去」NHKニュース

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131015/k10015283981000.html

 

「アンパンマンに込められた哲学が深い」なんて一時期ネットで話題になったけど、本当にそうか?と俺は思う。やなせたかしの詞は、正直に言ってすごく陳腐だ。

彼の場合、詩もそうだけど「幸せ」「愛」「希望」等々、抽象的な概念が胸焼けしそうなほど現れて、「これは子ども向けの歌なのか?」と首をひねってしまう。うまいかヘタかで言えばこの人の作詞は確実にヘタで、つい観念ばかりが先走ってしまう、頭でっかちな人だ。「アンパンマンは当初、貧困に苦しむ人々を救済するという内容で、未就学児にはとうてい理解不能であり、批評家や幼稚園の先生から酷評された」なんて逸話を聞くと、やっぱり理念が先行する人なんだと笑ってしまう。 

それでも俺がやなせたかしの詞に感動してしまうのはただ一点、「アンパンマンは君さ!」と臆面もなく言い切ってしまうその一点で、彼は紛れもなく偉大だった。「もしかしたら、君も俺みたいにカッコよくなれるかもしれないぜ」とヒーローに背中で語らせるのが一流の作家だとするならば、やなせたかしは「君がアンパンマンなんだ!」と、なぜか歌の中に作者がしゃしゃり出てきて語ってしまう、作家としては三流の、暑苦しい親戚のおじさんだ。それはカッコいいどころか、野暮ったくて格好悪い人だろう。だから子どもは、ちょっと成長すると途端にアンパンマンをバカにする。

「アンパンマンは君さ!」のフレーズは、小学校に上がればもうからかいの対象になってしまうくらい、こっ恥ずかしいフレーズでもある。でも、こんなことが大人になっても言えるのはとんでもなく頭でっかちな人だけで、まだ自分を把握できない幼い子どもは、こういう大げさなことを言って励ましてくれるおじさんを待っていたりする。そういうのを待ち望んでる自分ってのは傍から見ると恥ずかしくて、だからアンパンマンをバカにするんだろうな。俺もきっとそうだった。

 

アンパンマンが今の姿で初めて絵本になったのは1973年のことで、連合赤軍事件の直後だ。68年からはじまった学生運動はとっくに下火になり、72年には最後の勢力である連合赤軍も力尽きる。「理想を語るのはもうダメだ」と夢を持ってしかるべきはずの若者たちが下を向いていく時代、50歳を超えた無名のおじさんが「アンパンマンは君だ!」と声を上げる。それは風車に立ち向かっていくドンキホーテのように滑稽だったかもしれないけれど、でも本当は、そういう人が出てくるのをみんな待っていた。だから73年、やなせたかしは異例の遅咲きの漫画家として登場する。日本人が次々と夢をあきらめ、口を開かなくなっていく中、それでもなお愚直に夢を語り続けてきた、頭でっかちで凡庸な人間がやなせたかしだ。時代は鬱屈して、鬱屈したままで、だからアンパンマンは今でも子どもたちのヒーローなんだ。

三頭身で頭ばっかり大きくて、ヒーローにしては不格好、しかも頭にはあんこしか詰まってない、単純明快なアンパンマンは、きっとやなせたかしそのものだったんだろう。

 

やなせたかしの世界は深い」と言ってわかった気になるのは、絶対に違うと俺は思う。彼は徹底して凡庸な人間で、誰でも思いつくような、当たり前のことしか言わなかった。でも世の中は、いつのまにかその当たり前をどこかに置き去りにしてしまった。それが忘れられたままだから、アンパンマンはみんなの平和を守るため今日も世界をパトロールしているんだ。

「深い」なんて言って、やなせたかしを神棚に置いちゃいけないんだと俺は思う。俺たち一人ひとりが、凡庸で不格好な正義のヒーロー、アンパンマンであり、やなせたかしだ。そう言ってやらなければ「アンパンマンは君さ!」と励ましてくれた氏に申し訳が立たない。夢も語れないような世界で、それでも一人ひとりがアンパンマンになること。それがきっと、一番の追悼なんだと俺は思う。

 

俺もネットアンパンマンとして、インターネットの平和を守りたいと思います。

 

合掌。