ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

絶望の焼肉ランチ

一人焼肉ランチをしてきました。

結論から言うと、焼き肉が下手すぎて落ち込んだ。

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※写真を撮ったのですが、あまりに不味そうだったので画像をぐるなびからパクってきました

 

全体の流れですが、まずご飯、サラダ、わかめスープと同時に、カルビ、レバー、ぐにゃぐにゃしたモツの三点盛りの皿が目の前に運ばれる。これらを1枚ずつ、目の前の鉄板で焼くのだという。

さっそく熱した鉄板に肉を載せる。その間、写真を撮ったり、サラダを無意味にいじりまわしたり、隣席のカップルの会話に耳を澄ませたりして、一人焼肉の感慨にふけりつつ、漫然と肉を眺め、どれ、そろそろ肉を裏返そうかな、とひょいっとつまんでみると、案の定というかさっそく、肉が鉄板に引っ付いて取れなくなった。しまった。最初は鉄板に油が回ってないからひっつきやすいのだ。

慌てて肉を剥がそうと焼肉用のトングでいじりまわしていると、店員のおねえさんがささっと近寄ってきた。まずいバレたか。焼肉が下手クソなのに一人で焼肉を食べにきたのが間違いだった。本当に申し訳ない。死にたい。うちで練習してきます。

俺が焦っていると店員のおねえさんは「食後なんですが、アイスコーヒー、ホットコーヒー、シャーベット、3つの中から選べます」と話しかけてきた。あっそういうことでしたか。まずい焼き方を責められるかと思った。

で俺はことごとく小市民なのだけど、「あー……じゃあシャーベットで」と店員さんのほうを向いて、肉などお構いなし、平然として答えているふりをしてしまった。そうして店員のおねえさんが俺のテーブルを離れるまで、じっと平静を装う。

結果的にはこれが敗着だった。カルビは鉄板からはがれた頃には、雑巾みたいにボロボロになっていた。急いで対応すべきだったのだ。

だがしかし、レバーのほうはベストとは言えないにしてもまだマシだったし、ぐにゃぐにゃのホルモンはまだ焼けていない。なるほどタイミングが違うのか。人それぞれに個性があるように、肉それぞれも焼け方が違うのだ。いや俺も焼肉ははじめてじゃないわけで、そんなことは熟知しているはずなのだけど、俺一人だけで、単独で目の前のお肉を管理するという特殊なシチュエーションに常識が揺らいでいた。

 

とりあえずお肉それぞれの性格・パターンはわかった。カルビとレバーはかなり早く焼ける。ホルモンは時間がかかる。ということは、このゲームの最適解はこうだ。

カルビ・レバー・ホルモンの3種類の肉を同時に鉄板に載せる。まずカルビとレバーの2種類を焼き上げて、先に食べる。食べている間に、残されたホルモンは鉄板の上でおいしく焼けてくる。すると俺がカルビとレバーを食べ終えると同時に、ホルモンが完全に焼きあがる(時間的余裕はかなりあるだろう)。そうすれば俺は、あのぐにゃぐにゃなホルモンが焼けるのを無為に待つことなく、スムースに食事を継続できる。こういうわけだ。完璧。ライアーゲームの頭のいいやつかよ。2セット目はこの作戦でいこう。

 

実際にやってみた。まずカルビとレバーが焼ける。いい具合だ。彼らを鉄板から引き揚げる。ここまではOK。

引き揚げた肉たちを口に運ぶ。うん、うまい。うまいのだが、何か落ち着かない。予想外だった。そう、鉄板に残されたホルモンが気になって仕方ないのだ。食べてる間にも目前でホルモンは加熱されている。俺はカルビにもレバーにも全力投球できず、まだ焼けるはずもない目の前のホルモンをじっと見つめながらご飯を搔き込んでしまった。何をやっているんだ。

 

こうなると後はボロボロである。最後に残されたホルモンにも俺は全力投球できず、気持ちばかりが焦り、生焼けのまま鉄板から引き揚げてしまった。パワプロでいうところのピッチャーが打たれすぎてピヨっている状態みたいなものである。もう何をしてもダメ。

生焼けのホルモンを全部食うのも気が引けたので、鉄板に戻し、もう一度よく火を通した。こんなこと一人焼肉じゃなければ行儀が悪くてできたものではなく、一人焼肉ならではの醍醐味なのだけど、だからといって「一人焼肉サイコー!」となるわけでもなく、ただただ「自分は焼肉が下手クソ」という事実を痛感するだけだった。

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鉄板にリベンジしていったホルモン

 

なぜ、俺はこんなに焼肉が下手なのか。俺はトングを片手に考えた。ホルモンをトングでひっくり返し(まだ焼けてないな…)と認識する。そのとき俺は、もしかしたら、と思う。

もしかして焼肉がうまい人たちは、「焼肉の絶対音感とでも言うべき才能を持っているのではないか。彼等はちょうどいい焼き加減になったとき、ビシッとベストなタイミングで、「点」で引き揚げる。ところが俺は、刻一刻と変化するホルモンの状態を目の前で追い続けてしまう。必然的にホルモンをその前の状態と、「点」ではなく「線」の中で比べる。自分の内にある絶対的な基準ではなく、移り変わる肉の様子の中にしか判断基準を持てない。「焼肉の相対音感」に頼っているのだ。自分の中に基準がないから、すぐに揺らぐ。

焼肉というものは、鉄板に載せた瞬間から肉はどんどん焼けていく。ベストな状態へ向かう。10秒前の肉より、今の肉のほうがよく焼けている。ということは、間違いなく肉は良い方向へ向かっているのだ。良くなってるのだから、もう食べたほうがいいのではないか。こう判断してしまう。

これだけだと意味がわからないかもしれないけれど、株の売買を考えてもらうとわかりやすい。株の素人は値上がりするとすぐ手放してしまいがちである、辛抱が効かない、というのは有名な話である。俺の焼肉はそれと同じではないか。焦ってすぐつまみ上げてしまう。株も焼肉も、素人がおいそれと手を出してはいけないものだったったのだ……

この焼肉株理論が正しいかどうかはともかく、食事中にこんなことを考えてるやつが肉を焼くのが下手なのは当然だと思う。このときの俺はすでに食事モードではなく、反省会モードに入っていた。

 

ラスト、3セット目の肉が残っていたのだけど、まったく記憶がない。何を食べていたのだろうか。何かに追われるようにして、敗戦処理のゲームのごとく肉を処理してしまった。そもそもなぜ「3種類いっぺんに焼く」というルールを自分に課さなければいけなかったのか、まったく意味がわからない。下手クソなら1種類ずつ焼けばいいじゃないか。「焼肉の最適解」とか訳のわからないことを言ってるからダメなのだ。

 

以前、某氏が話していた「どうぶつの森」の話を思い出す。

かのゲームは、主人公が莫大な借金を背負った状態からはじまる。森のなかでどうぶつたちと楽しく生活しながら、少しずつ借金を返していくのがこのゲームの遊び方なのだけど、彼は「珍しい昆虫をつかまえてショップに売るのが、一番効率がよい」という攻略法を発見した。そしてどうぶつたちとの交流なんて目もくれず、来る日も来る日も昆虫採集。最速でたぬきちに借金を返した頃にはもう飽きてしまったという。

今の俺には、彼の気持ちがよく分かる。焼肉の最適解を探し求めるあまり、目の前の出来事を楽しむことができていないのだ。そんなに焦ることなんて、この小さな世界には何もないというのに…

 

カルビを最後、1枚だけ残していた。俺は一球入魂とばかりに、このカルビを丁寧に焼いていく。これまでの経験からベストな焼き加減を見極め、絶妙なタイミングで鉄板から剥がし、米のうえに着地。食べる。うまい。

…うまいはずなのだけど、俺はなんだか、焼いてる過程で工場研修を思い出してしまった。ミスができないから、目の前の作業(つまらない)に集中しなければならない。俺は自分が食べるだけの肉に対して妙に気負ってしまい、絶対失敗してはいけない、これはうまく焼かなければいけない、というプレッシャーを感じてしまう。これではまるで仕事と同じじゃないか。

俺は自分が焼肉を焼いてるマシーンみたいに思えた。焼肉を焼く仕事をする機械である俺が、どういうわけか肉を食べている……

孤独のグルメのゴローちゃんのように、焼肉を掻き込む自分を人間火力発電所のアナロジーでたとえられたら、どんなにか焼肉が楽しかっただろうと思う。あんなテンションにまでなるには、もっと焼肉のテクニックと人生経験が必要なのだ。

 

俺は負けた。焼肉に負けたんだ。

 

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食後にデザートのシャーベットが来た。これが一番おいしかった。

食事にここまで集中できたのは、本日はじめてである。ほんのり香るゆずのかおりが、焼肉に傷付けられた俺の心をそっと癒してくれる。シャーベットは正解だった。今回正解したのは、このシャーベットの注文だけだったと思う。

 

今回は負けた。だが、俺はあきらめてない。

今度焼肉に来るときは、私が焼いてあげるからあなたは食事に専念して、って俺の代わりに全部焼いてくれる焼肉奉行の彼女をつれてお前のところへ来てやるからな。待ってろよ。

 

俺に25年間彼女がいないのは、焼肉が下手なことと関係があるのかもしれない。

近況報告(もぐらゲームス&稀風社に寄稿しました)

近況報告を2件ほど。

1つ目。バカゲーのレビューを寄稿しました。 

バカゲー界の鬼才、復活… ―オンラインACTゲーム「プロフェッショナル警察」

このゲームは人生です。本当におすすめ。

ところで今回寄稿したもぐらゲームス発起人のNoah(のあP)さんとの出逢いというのが奇跡的で、食パンくわえて家を飛び出した俺がのあさんの車にぶつかって多額の慰謝料を請求したことから始まるのですが、そういう嘘はともかく、もともとツイッターで私(@johnetsu)を追っかけてくれていたらしく、アメリカ・アマゾンと回転ケイク氏のUstに俺がゲスト出演してた回もリアルタイムで視聴してくれたそうです。何年前だ。

のあさんはもともと「ゲームのちからで世界を変えよう会議」という意識のレベルがハイそうな団体を運営しておりまして、ゲーム業界各所で獅子奮迅の活躍をされておりまして、しかし実際、そんなガツガツした団体でもなし、もっとたのしく、おまつり感覚で書く場所がほしいな、ということで新サイト「もぐらゲームス」を先月立ち上げたという理解なんですが、そういうことなら俺も書きましょう、と小生もめでたく(?)執筆する運びとなったわけでした。

だいたいこのブログのメインコンテンツたる短歌もオナホ男も黒ロンの記事もメンヘラの記事も、ほとんど他誌への寄稿なわけで、俺は自分から好き勝手に書くぞーってタイプじゃないかもしれませんね。誰かから依頼が来て、それを裏切る形で悪ノリするときがもっとも輝くという最低な人間なので。いやどんな形であれ、頼まれるということは素直に嬉しいです。感謝。

で、もぐらゲームスなんですが、主に同人ゲーム界隈の話題を中心に取り上げていくそうで、フリーゲームには一家言のある俺としても、今後ももぐらゲームスにはちょいちょい書いていくかと思います。市販のゲームには詳しくないけど、フリーゲームはやりまくってたからな。

あとは「坊主めくりって完全にクソゲーですよね」「俳句はバカゲーだよなぁ」みたいな与太話でのあさんとはよく盛り上がるので、そういった珍説・奇説も同サイトに書くかもしれません。よろしくどうぞ。

***

もう一つ。以前から邪魔している短歌結社、稀風社にも寄稿しました。

歌集「海岸幼稚園」を出します

こっちは「キリトリ線のあとの世界」と題して短歌の解説を書いてます。

すずちう氏曰く「今までで関係各位の気合いが一番入った本です」ということで、二人の短歌が異様にキレてるのはもちろんのこと、俺の解説もなかなかのボリュームと明快さを誇っておりまして、江戸の美人画論とプレート・テクトニクス論の融合という文理の枠を超えた立場から短歌について縦横無尽に語るオーソドックスな内容となっているため、全体として「短歌」という概念を知らない方でも楽しめるユニバーサル・コンテンツになったかなと思います。何を言っているのか。

今回は短歌、つまり「詩の解説」なるものを俺はやったわけですが、詩にあれこれと理屈でもって説明つけるなんてどう考えても「野暮の極み」じゃないですか。「下衆の勘繰り」じゃないですか。何書くんだよ、というところで迷い迷い、どうせゲスになるならプレイボーイみたく袋とじにしてくれ、読みたい人だけ読めるようにしてくれ、と思ったんだけども、製本費用が万単位で変わるらしいので断念しました。「キリトリ線のあとの世界」というポエムじみたタイトルの背景にはそうした袋とじの名残りがあるとかないとか。

まあ俺も「稀風社の汚れ役」らしく役割をまっとうできたかなと思ってます。僕がフォローしている中で5月5日の文フリに来られないよ〜という方は本記事にコメントするか、Twitterで@やDM等いただければ助かります。僕の方で取り置きして、直接渡しますので。

本当によい歌集やと思います。ぜひぜひよろしく。

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そして話は飛びますが、今回の「海外幼稚園」に推薦文を寄せてくださった宮内悠介さんのデビュー小説「盤上の夜」が先日文庫化されました。下記はAmazonリンク。
盤上の夜 (創元SF文庫) 宮内 悠介

これ本当にいいのでぜひ。間違いなく現代で小説をやるうえでの正解の1つだと思う。レビュー書こうと思いつつ、難解になりそうで頓挫してるんですけど。

…ものすごく簡単にまとめれば哲学者ニーチェが海の向こうで神の死を宣告、世界が「神ゲー」から「クソゲー」へと堕したことが明白になって以降、ゲームの可能性はもはや2つしかなくなってしまった。さてその2つとは何か?

1つは死んだ神の代わりに新たな神を見出そうとする「新・神ゲー」路線であり、もう1つは神が死んだ世界を引き受けながら全力で遊ぶ「バカゲー」路線である。で、バカゲー路線の一つの回答が、今回紹介した「プロフェッショナル警察」および小生じょーねつが2年前(もう2年経つのか)に書いた「オナホ男」であるとすれば、「盤上の夜」はまさしくもう一つの路線、「新・神ゲー」の極である、という。だからこそ俺が書かねばと思ったんですが、これは難しい話ですね。それはともかくとして。

そんな宮内さんが本誌「海岸幼稚園」に寄せてくださった推薦文が「酸欠世界の新たな処方箋」。これ、僕の解説のテーマとずばりシンクロしていまして、さすが宮内、おたがい違う形で神亡き世界を言葉一本で戦ってきた戦士である、と感じた次第であります。何言ってるんでしょうね。全体的に何を言ってるんでしょう。

***

…というわけで以上、もぐらゲームス、稀風社、プロフェッショナル警察、盤上の夜、それから地味に読者数が増えてる当ブログ、全部よろしくお願いします。

こんな並びは一見バラバラに見えるけれども、本当のところ世の中は全部つながっているので、これがバラバラに見えるとしたら、本当はバラバラなのではなく、世界のいたるところにキリトリ線が引かれているから、バラバラに見えてるだけなのかもしれない、というようなことを書いた気がします。よろしく全部。

noteはじめました

さっそく悪ふざけしました。

「情田熱彦の命(射精管理権)を売ります」

https://note.mu/johnetsu/n/nf371c94e2179

※元ネタ「佐々木あららの命を売ります」

https://note.mu/sasakiarara/n/n689ed9798226

 

ゲラゲラ笑いながら改変してたんですけど、やってることが完全にオナホ男ですね。ネットの残念な部分を蹴飛ばしてくっていう。

思えば中学のとき、ちょうど携帯電話が普及しはじめたころだったんですが、学校中でチェーンメール(懐かしいな)が流行りまして、俺は来たチェーンメールを改変して流す「チェーンメール改変職人」としてアンダーグラウンドな活躍を続けてきた経歴があるんですね。「呪いのメールが…」みたいな文面を、学校の先生の名前に変えたりして、それが先生の目に入り、学校中で問題になってしまった。「このメールの元ネタつくったやつは誰だ!」って。幸いにもチェーンメールは発信元が特定しにくいので、俺のしわざだってバレなかったんですけども。懐かしい。

まあ2chでコピペ改変して遊んでた頃もそうだったし、ツイッターでRTされるネタツイートを必死で考えてたのもそうなのだろうし、オナホ男も、今回のこれも、似たようなことばっかやってますね。学級新聞的なノリが好きなんだろうな。

 

そういえばインターネットはお祭りだったはずだよな、とか思ったりします。ハンマー祭りとかやってた頃のニコニコ動画とか、ふぁぼったーでわいわいやってた頃のツイッターとか。最近はお祭りの場所があんまりなくてしんどい。こういうとこで悪ふざけすると、なんか初心に帰った感じがしますね。やってることは最悪なんですけども。

 

ちなみにnoteですが、あんまり使わないと思います。しかしさっそく100円寄付してくださった方がいるので(何を考えてるんだ)「俺がプリンを食すことのできる未来」が一歩近づきました。インターネットは最高。noteは最高。

短歌の要領で大喜利をやってみた

大喜利をやらせるとパッとしないことに定評のある情熱氏、なんでこうもパッとしないんだろうな。と考えて、もしかしてウケを狙って色気出すからダメで、短歌つくるつもりでやったらいいのかも、という思いつきに至りました。やってみたらなかなか楽しかった。

お題はこちら(http://juntoufu.jugem.jp/?eid=25)から拝借。直泰さん、レグルスさん、ダ・ヴィンチ・恐山などが挑戦しているのは以前から知ってて、やりたいとは毎年のように思ってたんですけど、大喜利は本当に苦手だからな。

途中から少しずつ感覚がつかめてきた気がするため、後半(55~108問目)だけを貼ります。一つでもいいものがあれば幸い。

 

 

[55] 8時間サイレンが鳴りっぱなしの村ではこんなエピソードがある

 

虹色のキツツキが上空から強大な権力を振るっている

 

 

 

[56] 集団面接で隣のやつを「こいつは絶対合格だろうな…」と思った理由

 

柿の木に振り回されて弱音を言わなかったらしい

  

 

 

[57] マスオさんが会社に行かずに公園で時間を潰している場面」がある回の『サザエさん』のタイトルを教えてください

 

「マスオ 砂を漢方薬に見立てる」

 

 

 

[58] 「それは先に言ってくれよ!」何を言われた?

 

「実る前に刈るなよ」

 

 

 

[59] 冬の間、押入れの中で扇風機はこんなことを考えている

 

いっそ殺してくれ

 

 

 

[60] カルタお題(1):この絵札に対する読み札の内容を教えてください

 

チャバネゴキブリの形態模写をするため日本中で嫌われている

 

 

 

[61] TV番組「ダウンタウンDX」でボツになった北島三郎の目撃情報を教えてください

 

スイカ大の球を入れたコインロッカーから異臭が立ち込めだした

 

 

 

[62] RPGゲームのステータス異常「どく」「まひ」「ねむり」より厄介なものを考えてください

 

偏食

 

 

 

[63] 「鏡にルージュで『さようなら』」よりも意味深なメッセージ

 

アリの巣に水を注いで「いつかお前もこうなる」

 

 

 

[64] 緊張のあまり「娘さんを僕にください」をめちゃめちゃ噛んでしまいました。何と言った?

 

「うずらを三面のボスにしなさい」

 

 

 

[65] 家庭的なラブホテル「実家」について知ってることを教えてください

 

避妊に失敗した場合、東京行きの切符を渡される

 

 

 

[66] 豪華客船による世界一周の船旅、出航直後の船長のアナウンスで乗客のテンションが急降下。 何を言われた?

 

「人間は火に負けますが、小さな火には勝つことができます。みなさんは小さな火です」

 

 

 

[67] 「名前を書くだけで入れる高校」みたいな言葉を教えてください

 

パイの実だけでつくられる猛毒

 

 

 

[68] 穴埋めお題(セリフ)「二度も○○○、親父にも○○○!」

 

「二度も連れてくんだったら、親父にも年間パス買ってやればいいのに!」

 

 

 

[69] 姥捨て山に捨ててあった姥以外のもの

 

内田樹の新書

 

 

 

[70] カルタお題(2):この絵札に対する読み札の内容を教えてください

 

 

ゆうすけは意識不明の重体となり二ヶ月後死亡

 

 

 

[71] 手抜きで作ったニセタイタニックはこんなことでも沈む

 

羊を10数えたあたりからじわじわ

 

 

 

[72] 「バレエシューズに画鋲」だったらわかるけどそれはライバルの仕業じゃないんちゃう!?バレリーナの靴に入れられていたものとは

 

草津の湯

 

 

 

[73] 金融RPGゲーム『ファイナンスファンタジー』の内容

 

「ビル風」を象徴として使いすぎる

 

 

 

[74] 「今すぐKiss Me」「抱きしめてTONIGHT」みたいな、時間と行為を組み合わせた歌のタイトル

 

即涅槃

 

 

 

[75] 「妻をこんなに酔わせてどうするの?」どうするの?

 

寝てる間に戸籍を7倍に増やす

 

 

 

[76] 『アメリカン一休さん』はこんなだ

 

黒人奴隷を大切にしている

 

 

 

[77] 迷子になっていた犬が我が家に戻って来たけど何かおかしい、前とどこが変わっていた?

 

こいつだけ時間を遡っている

 

 

 

[78] 世界一作るのが難しい料理に出てくる工程とは?

 

親に感謝せずトラウマを解除する

 

 

 

[79] 大喜利大会にモンスターペアレントが出現!なんて言ってきたの?

 

リーダーが窓を拭く、というのが面白いと思います

 

 

 

[80] カルタお題(3):この絵札に対する読み札の内容を教えてください

 

肛門を破壊されてなおこの表情

 

 

 

 

[81] エジソンが生きていた当時、『エジソンファンクラブ』に入ったらこんな会員特典がついてきた

 

駆動する虫

 

 

 

[82] 300万人超のユーザーが使用している生理日予測アプリ『ルナルナ』を、利用者数ゼロになるネーミングに変えてください

 

メンスでやんす

 

 

 

[83] 「この給食、お母さんが作ったんじゃないか・・・?」なぜそう思った?

 

鶏を絞めた日の母はこれを作る

 

 

 

[84] 人気アイドルの持ち物チェック。かわいらしいポーチの中から出てきたソレにスタジオは騒然。一体何が出てきた?

 

ノコノコの死体

 

 

 

[85] 30,000人連続殺人鬼あるある

 

小さいころ、千葉すずに水泳を教えてもらったことがある

 

 

 

[86] 「そんなことはパソコンのセキュリティ対策になりませんよ!」おじいちゃん何をした?

 

農薬を河川敷に撒いて全てのたんぽぽを枯らした

 

 

 

[87] 滋賀県が「二度と『鳥人間コンテスト』に琵琶湖は使わせない!」と大激怒。一体何があった?

 

目が覚めたら琵琶湖が飛んでた 

 

 

 

[88] 「選手兼監督」よりも格好いい野球のポジション

 

胎児兼ルーキー

 

 

 

[89] 効率を重視した結果、人道から外れてしまったおにぎりの握り方

 

そこに信念があればにぎったとみなす

 

 

 

[90] 画像お題:隠れているところにはどんなセリフが入る?

 

点Aから点Bを一定速度で歩くだけの

 

 

 

[91] 「メリークリスマス」という言葉を使った、至極どうでもいい文章 

 

メリークリスマス、という独言は防空壕に空々しく反響するだけだった

 

 

 

[92] 竹中直人の「笑いながら怒る人」のような、「○○ながら○○する人」

 

罠にひっかかりながら歴史をつくる人

 

 

 

[93] 『ドラえもんのうた』の46番に出てくる、「空を自由にとびたいな」 「ハイ! タケコプター」のような、願望とひみつ道具を組み合わせた歌詞

 

「語り継がれたい、語り継がれたいな~」「ハイ!英雄譚」

 

 

 

[94] 皆が心からの忠誠を誓っている国王が、国民に一つだけついてる嘘を教えてください

 

背中に刺さった矢は勲章の証ではなく、そういう背骨

 

 

 

[95] となりのクラスの高橋さんについたあだ名は「鉄の女」。どんな由来?

 

喪服を着た姿が機関車に似ていたから

 

 

 

[96] 紙相撲の決まり手を教えてください

 

無常

 

 

 

[97] 忘年会で社長に「今夜は無礼講だ!」と言われた時、どこまでは許される?

 

酸素が切れても合図まで引き上げない

 

 

 

[98] 大掃除で出てきた、捨てるに捨てられないものと年を越すことに。いったい何?

 

味をおぼえている刺身

 

 

 

[99] 「なんでも友達にあわせる女子」はここまでする

 

オーバーヘッドのタイミング

 

 

 

[100] 画像お題:これはあるお宅の間取り図です。(a)(b)にはそれぞれ何が入る?

 

(a) 敷地を宇宙、邸宅を世界に見立てたときの全貌

 

(b) 真理(コスモ)

 

 

 

[101] 『二歩』よりも恥ずかしい将棋の負け方

 

テールランプに吸い寄せられ闇夜に消える

 

 

 

[102] 「大人の階段」の隣にある設備

 

よそよそしいプッチンプリン

 

 

 

[103] 「卒業証書が私だけみんなと少し違う・・・」その内容とは?

 

「汝、豚を侮るなかれ」というウソのコーランが印刷されている

 

 

 

[104] 「あつかましいにも程があるわ!」とツッコませて下さい

 

虎を街中に放してくれ

 

 

 

[105] 殺人犯がカラオケボックスを犯行現場に選んだ理由

 

アメリカに迷惑をかけたくなかった

 

 

 

[106] 「ワンワン!ニャーニャー!ヒヒーン!ピーピー!」何が起きてる?

 

動物のエロゲーを多重起動した

 

 

 

[107] アホアホ偽札犯が作った一万円札、ものすごーく精巧に出来てるんだけど一発でニセモノだとバレバレ。なんでバレちゃう?

 

「偽札見分け唄」の歌詞どおりに作ってしまった

 

 

 

[108] ボジョレー・ヌーヴォーの過去5年の評価は以下の通りです。では2014年の評価はどうなる?

 

 2009年「50年に1度の出来栄え」

 2010年「2009年と同等の出来」

 2011年「2009年より果実味に富んだリッチなワイン 

 2012年「ボジョレー史上最悪の不作」

 2013年「みずみずしさが感じられる素晴らしい品質」

 2014年「くっさ~い古米、一ノ蔵買ってはいけない

 

***

以上です。

短歌の(特に題詠の)方法論の応用、かなり理詰めで考えたつもりで、そういうのが楽しかったです。脳がちがう働き方する。

もともと短歌だって、俺には絶対向いてねえと思っていて、それでも短歌っぽいもの作れるとしたら……という地点からスタート方法を模索していた。ので、感覚的にはそれに近いかもしれない。個人的には最初の

 

[55] 8時間サイレンが鳴りっぱなしの村ではこんなエピソードがある

 

虹色のキツツキが上空から強大な権力を振るっている

 

これがけっこう好きで、短歌っぽくないですか。大喜利とは違うかもしれないけど。

とはいえ大喜利の文法がつかめるまで、もうちょっと続けてみようかなと思います。ひとつでもおもしろいものがあれば幸い。短歌もそうだけど、何がいいかって自分では結構わからないんだよな。

 

※過去につくった短歌はこちら

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2012/07/16/085646

人間とコンピューターはどう違うのか

 「人間とコンピューターの知能はどうちがうんだろう」みたいなツイートを見かけたので、考えたこと書きます。

人間とコンピューターはどう違うのか

一言で言えば「アナロジーを理解できるかどうか」だと思う。コンピューターはアナロジー(類推・比喩)を理解できるのかどうか。

そもそもアナロジーの語源は「ana(反・類)+log(ロゴス=言葉・論理)」で要するに論理でないもの、論理に似たもの、ということになる。「アナログ世界の概念を、デジタル世界の申し子ことコンピュータが理解できるのか」という疑問を軸に以下考えます。

たとえば「初音ミクが歌う」という命題。

言うまでもなく初音ミクが発する音は(藤田咲さんの声を元にしてはいるものの)人工的に調整された電子音であって、その機械音のつながりを「歌う」という動詞で表現するのは、機械の動作を人間の行為に読み替えたもの、一種のアナロジーである。

現象だけ見れば、カエルや鳥の鳴き声のほうが、発声の仕組みだって人間に似ているのだから「歌う」に近いような気がする。もちろん「かえるの歌」を例に出すまでもなく、鳴き声には「歌う」という言葉も当てられるけれど、基本的には「鳴く」を使うだろうし、逆に「初音ミクが鳴く」「初音ミクが鳴る」とはあんまり言わないはずだ。

初音ミクに「歌う」という動詞を使うのは、単なる電子音に人間の歌声を見出しているから、初音ミクを人間のアナロジーで理解しているからであって、予備知識もないアフリカかどっかの未開の部族に初音ミクの楽曲を聞かせたら、これは歌だとは思わないだろう。

 

「いや『歌う』ってのは言葉に聞こえるかどうかじゃないの?」というのは間違いではないけれど、不正確だと思う。

たとえばどうぶつの森に登場する「とたけけ」という犬のキャラクターは、メッセージ送りに使われる合成音でメロディーを作って歌うのだけれど、言葉には聞こえない。にもかかわらず、合成音の連続を聞いて「とたけけが歌っている」と考えてわれわれは何の不思議もない。

(参考:けけラバーズ http://www.nicovideo.jp/watch/sm18689932)

これはもちろん「とたけけというキャラクター(人間を模したもの)が音を出している」とわれわれが考えるからですね。その予備知識がなければ、これを歌とは考えないと思う。音とキャラクターが結びつくから「歌」と言えるわけです。

「歌う」という言葉が採用される基準は、音の内部にあるのではない。音の内部に基準があるのならば、音を細かく分析して、分類することで「ここまでは歌で、ここからは歌じゃない」と区別できるけれど、そうじゃない。

問題はむしろ音の外側、「受け手が人間のアナロジーでその音を捉えるかどうか?」という音の外側の文脈にある。まあボーカロイドだって「Vocal+oid(~っぽい、~状の)」が語源なわけで、もろにアナロジーですね。

当たり前のことばっか書いてしまった気がする。けどまあ、それは気にしないとして、コンピューターにこういう課題を与えたとしよう。

 

「ある音を再生して、歌であるかどうかをコンピューターに判断させる」

 

これがナンセンスであることは、なんとなくわかると思う。上で見たように、音の内部には「歌」と判定する手がかりはない。「歌といえるかどうか」は人間の側が判定することだから。もう一歩踏み込めば「ある人間が、その音に人間の姿を見出してはじめて『歌』と呼ぶことができる」から。

かえるの鳴き声だって、聞いた人間がその音に人間の姿を見出せば「かえるの歌」になる。しかし「まったく同じ音なのに、あるときは鳴き声に、あるときは歌になる」というあいまいさをコンピューターは理解しない。ここが人間とコンピューターの違いだろう。

そもそもコンピューターは「歌う」という概念を使えない以前に、使う必要がまったくない。ある現象に人間を投影する動機が、アナロジーを用いる理由が何もないからだ。

古来、人間はアナロジーを用いて現象を理解してきた。自然現象を人や動物の形をした神様にたとえ、神様の機嫌をとることで自然と調和しようとした。そうすることで、世界を自分と結びつけ、理解していた。

トーテミズムのような原始宗教からキリスト教までその構造は変わらなくて、宗教を理解するには、その宗教がどういうアナロジーを採用してるのか、という面に着目すればわかりやすいです、というのは完全に余談。

 

で、かたやコンピューター。

コンピューターが最高のパフォーマンスを発揮するためには、アナロジーはむしろ邪魔である。「初音ミクの音は機械音であり同時に歌声である」=「Aは同時にBである」というロジックはややこしいだけで、AはつねにAとして解釈される方がシステムにとっては都合がいい。

まあアナロジーってのは言うまでもなく詩でありユーモアの源泉ですね。「~のようだ」という形式で、まったく違うものを結びつけてしまう。それができないのがコンピューターで、非人間的って思われるのはこういうことでもあるんだけど。

で、アナロジーと言えば偉大なる知の巨人、グレゴリー・ベイトソンなんですよ。ベイトソンの草の三段論法の話をします。

草の三段論法

これも突っ込むとめちゃくちゃ長くなるので簡単に。

ふつう三段論法というと、以下のものを連想すると思う。

 

・人間は死ぬ

ソクラテスは人間である

ソクラテスは死ぬ

 

これがアリストテレスの唱えた有名な三段論法。「命題論理」と呼ばれるロジックですが対して「草の三段論法」とはどういうものか。

 

・人は死ぬ

・草は死ぬ

→人は草である

 

これです。こういう論理もある。

「人は草のようである」と書けば、これはわかりやすく比喩(メタファー)ですね。修辞技法であるけど、論理とは呼べない。ところがベイトソンによると、動物のコミュニケーションとはすべてメタファー(身振りでメッセージを伝える)であり、人間のコミュニケーションだってそもそもはメタファーから生まれたものである。詳しくは著作を読んでほしいのですが、なんとなく理解できるのではないでしょうか。生物のコミュニケーションはそもそも、草の三段論法の応用から発展してきたものである。言語自体が現実のメタファーじゃん、って話もあるんですけど、それ言い出すとまたややこしくなりますね。ここではあんまり考えないでください。

 

で、そして、(西欧由来の)学問の歴史とは、ざっくり言えば「草の三段論法がソクラテスの三段論法に潰されるまでの歴史」です。

そもそも三段論法の祖となったアリストテレスだって、草の三段論法を排除したわけではなかった。それどころか彼の有名な「目的論的世界観」とは「石には石の生きる目的があり、馬には馬の生きる目的がある」という世界観、人間のあるべき姿をあらゆるものに投影した世界観にほかなりません(雑なまとめ許してくれ)。

アリストテレスはこの世界観を下敷きに、論理的な思考を積み上げることによって真理に到達しなくちゃらない、と言った人ですね。彼には「弁論術(Rhetoric)」という著作もあるように、アナロジーなりレトリックの力をかなり重視していた。

 

で、彼の生きた古代ギリシア時代、修辞学を教える教師は、一般の教師の約6倍の給料をもらっていたそうです。アナロジー的な思考はそれくらい重要に見られていた。

これが大きく変わるのは「近代哲学の祖」ことデカルトの時代。デカルトの登場によって、大学ではデカルト思想が空前のブームとなる。修辞学の教師は、哲学の教師のなんと6分の1の給料しかもらえなかったそうです。それくらい地位が落ちてきた。

当時痛烈なデカルト批判を展開したヴィーコという学者がいるんですが、この人は貧しい家に生まれ育った修辞学の教員で、彼の論文は当時ほとんど無視された。彼が大学に雇用されたのも「難解なデカルト思想を理解できる貴重な人材だったから」というのは皮肉ですね。

ヴィーコは近年、サイードなんかが取り上げたことで発見された人ですが、結構おもしろいことを言ってる。歴史学をやりたかった人みたいで、これからの時代の新しい学問として歴史学の重要性を提唱したのですが、科学的合理性が熱狂的に迎えられた当時では注目されるはずがなかった。歴史なんて過去の出来事だし、現在とはまったく違う。過去を現在にあてはめるな、そんなのくだらぬレトリックである、と。数値で表現された、客観的なデータのほうが遥かに正しいと信じられ出す時代だったんですね。

ヴィーコは最初から最後まで不遇の人でした。誰にも理解されないまま死んでいったとか。

 

それはともかく、いま修辞学はどうなってるか。死にました。

学問分野のどこにも存在しない。「修辞学部」なんてのは存在しないですね。

文学部のなかに飲み込まれてしまったようだけれど、結局のところ文学部も他のアカデミズムと同じ、近代科学的な方法論(客観的なデータ主義)に依拠せざるをえない事情もあって、修辞学はもはやその存在すら忘れられてしまった。修辞は「学」ではなくなったのです。

こうしてソクラテスの三段論法は、草の三段論法を学問の世界からみごと駆逐した。その延長線上に、アナロジーを排したプログラミングの思想がある、と考えると整理しやすいかなと思います。

このへんはもっと字数かけてやると面白いんだけども、非常に面倒くさい。学問の歴史ってのは、アナロジーの歴史なんですよ。これどうして誰もこう整理してくれないのかな、って疑問なんですけど、まあいいや。

 

最後に参考文献を上げます。これ読んでくれりゃ俺も言うことない。

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 ベイトソン入門としてはこれが一番いい、というか著作が三冊しかないんだけど。

草の三段論法が収録されてるのは遺作となった「天使のおそれ」ですが、これ絶版なんですよ。なんたることか。

アナロジーを学問の領域に取り込んでる学者って本当に少ないんですけど(ロジックが破綻してしまうから)この人は法外にロジカルです。海外の学者の本ってだいたい頭に入ってこないんだけど、ベイトソンはすげえおもしろかった。文章も上手いしサービス精神も満載で読んでて楽しい。

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

 

 本稿のテーマドンピシャで、ベイトソンに至るまでの認識論の歴史(哲学から科学まで全部!)をザザーッとまとめた本。めちゃくちゃおもしろいのに絶版。なんとかしてくれ。

訳はなんと柴田元幸で、さすがに読みやすいです。

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

 

 西欧近代の学問史をフロイトを軸にばっさり切ったのか何なのか、一言で内容をまとめられない奇書。初期の橋本治はめちゃくちゃ前衛ですね。本書は文体論であり、近代知識人批判であり、根本的にはホモ論であるという。

これも絶版ってどういうことだよ。Amazonで古書は残ってるので今のうちにぜひ。

***

【追記1】

アナロジーって近代思想の盲点なので、Googleの検索システムが進化してもそういうアナロジー的な知のネットワークはむしろ失われる一方では?みたいな発想に発展するんですけど、全然書ける気がしないのでよろしくお願いします(Google関係者各位)

【追記2】

草の三段論法を連発するのが「狂人」と呼ばれるとベイトソンは説明しています。狂人とはアナロジーの基盤が安定しない人、あるいはアナロジーが狂ったまま固定されてる人で、前者は話し方が分裂気味になるし、後者はあらゆることを毒電波で説明しようとしたりする。これも面白くて、狂人ってのは本当に相対的な問題でしかないです。発達障害とかメンヘラだとか、そういうのは全部アナロジー強者の側の言葉だ(良い悪いは別にして)。

おもしろいこと言おうとするとスベって真剣に話すほど笑われる話に近いやつ

おもしろいこと言おうとするとスベって真剣に話すほど笑われることについての話になればいいけど酔ってるのでわからない。

だいたい昔からもう自分のことがおもしろいと思えない、もちろん何の因果かフォロワーだって7000人もいるわけでまったくおもしろくないわけじゃないことは重々承知なのだけど、純粋におもしろさで勝負しようと大喜利できる人とは発想が違う、かなわねえやと思う。

だいたい俺は、自分の経験とか感想もネタにすれば共感してもらえるけど、逆に思ってることをきちんと伝えようとすればするほど、それはおかしいだの付いていけないだの言われてしまって全然納得がいかない。俺はこう、誰よりもおもしろくありたい、パンクに生きたい、わけではなく、ただふつうに生きていたいんだと思ったのはつい最近で小市民だと思う。

ただでも「ふつうに生きたい」って言葉はいま酒が入ってるから書いたけれどしらふだと頭が受け付けない、ウソ、他人事のように思える。「ふつうに生きたい」ってフレーズと俺との間には冷ややかな距離があって、俺はそれを埋められないように感じる。「ふつうに生きたい」なんて言わなくても自分は現に、生きているから、こんなふうに生きたい、あんなふうに生きたいと余分な言葉を発すれば瞬間、自分は自分でないものに衝き動かされて、遠くへ流されてしまう気がする、のかどうか、そもそも距離の比喩で語るのがいいのかどうか、わからないけれど。

「~したい」という文法は頭のなかでとりあえず成立して、成立した言葉は自分と結びつかなくて、言葉が言葉のまま、意味もなく宙を漂っている。「俺」と「ふつうに生きたい」がまったく異質な、マヨネーズと水みたいに溶け合わない存在に思えて、自分の頭から出てきたように感じられなくて、どうしようもないから笑ってしまう。言葉に食われないように笑うんだと思う。俺にとってお笑いってのはそういうので、道を極めるとかそういうのじゃなく、格闘技で言えばK-1とかプライドじゃなく護身術とかプロレスの類なんだと思う。K-1ってもう古いのか…?

***

話を戻して「~したい」という文法はそもそもどこから出てきたのか。

言語がまだ存在しなかったころ、身振り手振りで意志を伝えていたころ「~したい」なんて表現はなかったはずで、生きていれば食べるし寝るときは寝る。寝たい、食べたいなんて動物は言わない。

英語の「want」の語源は古代ノルマン語の「欠けている」らしい。世界中の多数の神話は「欠如からの回復」を原型としているなんて話を聞くと、人間は言葉を手にしてはじめて自らの欠損に気がついてしまった、だからどの社会にも欠損を埋めるための神話は存在するのだ、ってこの話はわかりにくいから飛ばす。でもいい話だと思う。

手話で「~したい」は「好き」で表すらしい。「あなたに会いたい」は「あなた」「会う」「好き」と順にジェスチャーを並べる。あっいいな、と思う。これだったら俺の近くに来てくれる気がする。

「あなたに会うのが好き」と「あなたに会いたい」は日本語にするとやっぱり違って、「あなたに会うのが好き」と手振りで伝えられた側は、「そうですか」と同意するだけでもいいし「私も会いたいです」と答えれば両思いだとわかる。「あなたに会いたい」と自分の意志を押し付けることなく、解釈を委ねて応答を待つ。

言葉って共同作業で、受け手と送り手が協力しあってはじめて意味をもつ。当たり前のことだけどそれ自体で完結した言葉なり文章はなくて、相手の存在なしには言葉は存在しない。

「ふつうに生きたい」って文法は自己完結していて、俺の入り込む余地がないんだと思う。フレーズは俺を拒んでいて、俺もそうだから他人のように思える。そのくせ言葉を発したのは自分で、全部間違ってるから笑ってしまう。

俺がやたら言葉がどうとか言い出すのは、良い文章が書きたいとかそういうことじゃなくて、ただその距離、断絶をどうにかしたい、これ全然まとまんねえな。まともに言葉が使えないという劣等感しか無いんだ俺はここで基本的なことを確認すると。

***

文章なんて書きたくない、と思うことはほとんどで、いつも嫌気がする。一番嫌いなのが文章かもしれない。ただ酒を飲んで好き勝手書いてるとき、笑ってもらえたとき、それから言葉が、ほんの少しだけでも、俺に近づいてくれたときは、やっぱり好きだったりする。俺もしゃべっていいのかもしれない、世界に触れてもいいのかもしれないと思う。その瞬間だけだ。

そうじゃなかったらへらへら笑ってるだけで、俺は誰からも嫌われたくないし、他人と関わるのは怖いし、信号はちゃんと守る。ただ生きるだけでいい、俺は、そう思って、そう思えるために、言葉との、他人との距離をなんとか埋めたい。生きるのはそういうことで、その距離をもう一度埋めるために言葉は存在してほしいと思うけど何の話だ?

***

お笑いできる人はすごい、って話だったか。あんまり書かないけどお笑いや大喜利のライブなんかは割とよく行く(このまえのカス動画祭もよかった)。ツイッターでもお笑いにストイックな人たちが多数いるのだけど、本当にすごいと思う。俺はやっぱりヘラヘラ笑うようになってから生きやすくなったせいか、笑いってのはその人、その場所、その状況と調和するためにあって、だから自分で何かおもしろいこと言おうとしても、無難なことばかり言ってしまう。かあるいは自分のことを相手が知ってる前提で、悪ノリ・キャラ芸・内輪ネタばかりやってしまう。それはそれで楽しいし、いいんだけど、純粋におもしろさで勝負しようとする人たちみたいな真似ができないから、やっぱり憧れる。

でも影響されて自分もそういうのやろうとすると絶対スベるからなマジで、なにがアルファツイッタラーだよクソ、俺なんてまったくおもしろくない、舞台に上がる資格はないから犬小屋でひっそり死のう、みたいな気持ちに最悪なる。ダメだもう酔いが冷めてきてるな…。

だからあれだ、ちゃんとおもしろいことができる人を尊敬してる話に戻します。「尊敬」って言葉は俺はまったくピンと来てなかったけどでも、おもしろい人は本当に「尊敬」って言葉が出てくるから、尊敬してるんだと思う。こうやってひとつずつ自分が使える言葉を覚えていくのが人生なのかもしれない、と半分だけ酔った頭で書いてるとそういう気がしてくるから最高。やっぱり酒飲んで書く文章が最高。

***

何が最高だよ、頼むからちゃんとしてくれ←酔いが冷めた直後の未来の俺がタイムスリップして書いたやつです。

で、話は変わって今週の土曜は「大喜利天下一武道会」というイベント行ってきます。

http://www.oogiri-1.com/archives/35682748.html#more

大喜利ではもっとも大規模な大会らしくて、去年はじめて行ったけど人いっぱいいたし意味わからんくらいおもしろかった。暇な方はぜひ。あれだけストイックな感じのする大喜利界隈でも「最近の大喜利界は内輪に向きすぎてるんじゃないか」みたいな声があって、逆に大喜利にまったく触れてこなかった人に見て欲しいなんて聞くんだけど、難しいもんですね…。

直泰さん、まるおさん、ぼく脳さんなどフォローしてる方々も出るので俺は客席で応援してます。投票は純粋におもしろかった人に入れるけども。

あとこの前、直泰さん(盗撮魔)に大喜利やりましょうよって誘われて嬉しかった。俺はどうも発想はぶっ飛んでるらしいけれど、そういうのを人に見せたくない、目立ちたくない一心で生きてきた人間だから向いてねーって思ってんだよな。でもこの前、居酒屋で生大喜利をはじめてやって、全然おもしろい答え出せなかったけどボケを口にする瞬間は存外と楽しくてよかった。機会があったらやってみたいな~、といったところで酔いが冷めて真顔になってきたので終わります(真顔)。

地元に帰ったよ日記

正月は地元に帰った。

家にいてもすることがなく、昔通った小学校の通学路を歩いた。

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 昔通っていた小学校は「集団登校」なる制度を実施していて、近所の子どもたち10名ほどが男女別の通学班でかたまって登校した。朝の7時半に集合する場所は雑草が伸び放題の空地の前で、今も何に使われているのか知らない。色褪せて自立能力を失ったカラーコーンが鉄柱に刺さっていた。

通学班の同学年の男子三人はみんな悪ガキだったけれど、後に暴走族に加入し、深夜マフラー音を響かせた先輩たちほどではなかった。俺のほかは先輩たちの子分のような扱いで、俺はそうなれなかった。歩くのが遅かったから、後ろからランドセルを押されたり、後ろに置いていかれたりした。朝飯がおいしかった記憶が無い。

下校のときは自分の歩く速度で歩ける、というだけでほっとした。知り合いと顔を合わせないよう、少しタイミングをずらして帰った。

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よく落ちているものを拾ってきた。かぼちゃに顔が描かれた割れたマグカップ、小さなスーパーボール、難しい漢字が書いてある上級生のテスト。下ばっか見て歩いてんじゃないの、と母に言われて、自分がとてつもなくいけないことをしているように感じた記憶がある。

昔はところどころの側溝にふたがなくて、俺はしばしば突っ込んで足をすりむいた。下ばかり見ていたのは俺なりの用心だったのかもしれない。ちょろちょろ流れる側溝の汚水を目で追いかけながらよく家まで帰った。

そういえばよく小石を蹴りながら家まで帰った。石をどぶに蹴落とさないよう気をつけるうちに、足下ばかり気にするようになったのかもしれない。

「まわりが見えてない」と上司に言われるくらいだから、今でも変わってないのだろう。

通学路には何ヶ所も足を踏み外す箇所、石を落とす場所があったはずだけれど、今はそのほとんどにコンクリートでふたがされている。道を踏みはずす心配はない。俺がいまから小学生をやり直すなら下を向いて歩かないかもしれない。どこを見て歩くんだろうか。前を見て歩くだろうか。

当時の俺はうつむいて歩いていて、きっとそれなりに楽しかったのだ。

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 生徒には学校と自宅を結ぶ通学路がそれぞれ割り当てられ、決められた通学路を外れることは許されない、という学校の規則は、学校側が想定した以上に生徒たちに重く響いた。

自分の通学路から外れた道を通行することは「ツーハン(通反)」と呼ばれ、わが小学校において犯すべからざる罪だった。ツーハンはいけないんだ、先生に言ってやる、と言われたら顔が蒼ざめるような気がするものだったが、そこまでまじめに考えていたのは俺くらいかもしれない。

当時いじめっ子の行動に「通学路を外れた道へ無理やり引きずり込む」というのがあった。一歩でも違う道へ踏み出せばそれは即ツーハンで、分岐路へ来ると、こっちへ来いと引きずり込まれる。俺以外の子供も本気で嫌がっていたと思う。

いったん帰宅すれば通学路を離れてよそへ遊びに行ってもいい。ただ帰宅するまでは通学路を守れ。これが学校が決めたルールだった。

帰宅後も外へ出て遊ぶことはほとんどなかった。

通学路ではない、知らない道を歩くことが怖かった。俺の頭のなかの地図は家と学校を結ぶ一本の道だけでその外は真っ暗な森が広がっているようなイメージがあった。

毎日同じ道を歩いて、その外へ出ることは考えもしなかった。

生きることはノルマが毎日与えられるようなもので、それはそういうものだと思っていた。

不登園児だった保育園時代とはちがって小学校はほとんど皆勤賞だった。俺の反抗期は保育園で終わっていた。

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 「バトルえんぴつ」という遊びが学校で流行った。六角えんぴつを転がして出た目で友だちと勝負する遊びで、ドラゴンクエストポケモンのキャラクターがモチーフに採用されていた。全校でバトエンが持ち込み禁止になったのは俺のせいだ。

2年生のある時期にクラスの、というか学年の問題児だったSくんとよく下校した。いっしょに帰ろうと毎日のように誘ってきた子はSくんがはじめてだったかもしれない。それまで俺はいつも一人で帰っていた。 

Sくんはゴリラと岩を足して2で割ったような顔で、歯並びが悪かった。

車の排気ガスのにおいが好きなんだ、と帰り道で彼はよく言った。俺は好きでも嫌いでもなかったからよくわからなかった。でも雨上がりの埃っぽいにおいや、水たまりにできたガソリンの虹は好きだった。

あるとき通学路からはみ出した路地の方に誘われて、バトエンを交換する話になった(人に誘われたときに限って、少しだけ通学路をはみ出すことはあった)。彼のバトエンは弱くてボロボロで(今も覚えているけど、ビッグアイのちびた鉛筆)俺のまだ鉛筆削りにも突っ込んでいない「あばれうしどり」を交換しようと持ちかけられた。「あばれうしどり」は俺のエースだったから、交換するわけにはいかなかった。

いやこのビッグアイはけっこう強いんだ、だってこの目が3回出ればね、とSくんは説明をはじめるも納得するはずがない。小学生でもその格差は一目瞭然だった。

わかった、じゃあちょっとだけ貸してくれ、あとで返すから。俺はあいつに勝ちたいんだ。そう言われると断る理由もないので俺も折れて、交換した。

後日、そろそろ返してくれないかと聞くと、何のことかわからないととぼけられた。まんまと彼にはめられたことに気づき、涙があふれてきた(当時俺が泣くとしたらこんな感じだった)。わかった、返すから泣くのをやめてくれとSくんは慌てるのだけど、そう言われるとますます涙が溢れてきて、そのうち放課終わりのチャイムが鳴って、運悪く担任が教室に入ってきた。

この一件から教員の間でバトエンが問題視され、やがて全校で禁止される。それから生徒たちの間では、自作のバトエンを作るのがブームになった。

他愛もない思い出だけど、学年が上がると俺は「バトエンを学園から消した男」として自ら吹聴するようになった。終わってしまえばなんでも笑い話になった。

後日Sくんは母親と、俺の家まで来て謝った。俺は自分のせいでこんな大事になってしまったのが恥ずかしくて仕方なかった。彼のことを憎いとは思っていなかった。

 

Sくんは学年が上がるにつれ、周囲から疎まれるようになった。集団行動は苦手だったらしい。「ウザい」「キモい」といった言葉が子供たちの間でも流行した時期で、彼もまた、そういう便利な言葉でカテゴライズされるようになった。

4年生のとき彼は、当時猛威を振るったギャング集団(「たけし軍団」みたいにリーダーを務めた悪ガキの名前が付けられていた)からターゲットにされ、時々学校を休むようになった。

俺もまあたいがいで、髪の毛を引っ張られながら、うちの軍団に入らないとこれを突き刺すぞとコンパスの針を突きつけられるような割とハードな局面こそあったものの、のらりくらりやり過ごした。少しずつ生きるのが上手くなって、Sくんはあまり変わらなかった。

いまSくんは地元の工場で作業員として働いている。3年前、たまたま駅で会った彼はまったく変わっていなくて、ダボダボな服を着て、金色の派手なネックレスを下げていた。彼女がかわいいんだと携帯を開け写真を見せてくれた。キャバ嬢みたいでかわいかった。

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 かつては鉄柵がなかったこの砂利道をななめに突っ切って行くのが俺は好きだった。

帰り道、俺が通学路を外れるとしたら唯一このルートで、私有地だから通ってはいけないと集会で通達があったにもかかわらず俺は無視して通った。いちいち遠回りするのがめんどくさかったのだろう。中にあるのは小さな観音様のお堂で、少しだけ罪悪感もあった。

砂利を歩く音も好きだった。わざと足を深く突っ込み砂利道をじゃりじゃり荒らして歩くのが好きで、そんなガキがいるから柵が立つんだろうな。通学路はくまなくアスファルトで舗装され、砂利道もなくなった。

久しぶりに石を蹴りながら歩きたいな、と思ったら、東京には手頃な石がまったく落ちていないことを思い出した。通勤経路には石が落ちていない。なんだか友達がいなくなってしまったようで急に寂しさを感じた。ずっと忘れていたくせに。

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 打ちっぱなしのコンクリートだった場所はきれいに舗装され、柵も設置され、きれいな遊歩道になっていた。もっとも当時、ここを通行する人はほとんどいなかったはずで、放課後の子どもたちの遊び場と化していた。

柵を挟んだ側の道路は坂道になっていて、遊歩道とは段差がある。

昔はこの段差を利用して鬼ごっこやケイドロをした。走ってる間にどのタイミングで下へ飛び降りるか、とか、それくらいのことだけど、それだけで十分遊びになったのだ当時は。もっとも、そういうことをするから車の前に子どもが飛び出してきて危ない、と問題になったことがある。柵が作られたのはそういうわけだろう。

「遊歩道」という名目にはなったけれど、いまの子どもはここで遊ぶのだろうか。あんまりわくわくしないな、と俺は思う。遊び場として与えられた場所で遊ぶんじゃなくて、普段はなんでもない歩道が遊び場に変わる、ということがおもしろかった気がする。俺は公園で遊ぶのは嫌いだったけれど、歩道で遊ぶのは好きだった。

町は区切られていく。

人間の意図で埋め尽くされていく。

ところで右手中ほどに見えるのはソーラーパネルで、申し訳程度の間隔でぽつぽつ並んでいて邪魔くさい。あんまり子どもを遊ばせたくないのか、と思うけど、この周囲には他にも意図がよくわからない公共事業の産物があって、何を考えているのかわからない。現代アートなのかもしれない。

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田んぼが焼かれていた。ここはよく生ごみが捨ててあった。子どもの俺はそれが肥料だとわからなかったので、変なの、と思っていた。昔はここでおたまじゃくしが干上がっていたり、すぐ近くの用水路に蚊柱が立っていたことが印象に残っている。稲がなっている様子は不思議と記憶にない。

となりの区画は駐車場になっているが、かつては2階建ての木造のボロアパートがあって、俺が隠れ家に使っていた。

小学校では4年生になると強制的にどこかの部活へ加入させられた。文化部に入るのは本当にわずかで、運動部でないやつは軟弱だ、という空気があった。俺は球技が嫌いだったから、泳ぎが下手にもかかわらず水泳部に入って、早々に部活へ通わなくなった。サボった。

「水泳部が君たちを選んだんじゃない。君たちが水泳部を選んだんだ」が当時の顧問の口癖で、そういうのも苦手だった。

ただ帰りが早いと部活をサボったんじゃないかと親に心配されるから、どこかで時間を潰さないといけない。そんなときここのアパートのガスボンベ置き場の奥に隠れ、ランドセルを机代わりにして、宿題プリントを埋めたり教科書の先を読んだりして時間を潰した。

学校のプールで泳いできたはずなのに水着が濡れていないと怪しく思われるから、どこかで水着を濡らす必要があった。その点もここは便利で、アパートの共用蛇口があった。100mも歩けば公園があって水場も使えるのだけど、通学路を外れてしまうから行かなかった。ルールを守ろうというわけではなく、誰かに見られている気がしていたのだと思う。親父の書棚からこっそりエロ本を読むときも、監視カメラが仕掛けてあるんじゃないかと気が気でなかったし、読み終わったら指紋を拭いた。某少年探偵漫画に影響されての行動だった。

余談だが、この手前の側溝も昔はふたがなかった。そんなことばかり覚えている。

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分かれ道に並んだ柿の木はなぜか印象に残っている。

誰のものでもなさそうに平然と並んでいるのがおもしろかったのだろうか。自販機と同じような顔をして並んでいる。多くの実は鳥についばまれてぐずぐずになっていた。すずめが数羽、枝に止まっていて、東京じゃあまり見ないよなと思って近づくといっせいに逃げ出した。

そういえば小学生の時分は、この実を柿だと思った記憶がない。スーパーに並ぶつやつやした柿とこの実はまったく別物だという認識で、これはただ「いろんなところに生えてるまずそうな実」としか思っていなかった。

「誰のものかわからない、正体もわからない実が、よくわからない場所に生えて、よくわからないまま鳥に食われている」というのはなかなかシュールで、そのアナーキーな感じに憧れていたのかもしれない。何の意図も主張せずただそこに立っていてくれる柿の木は、おじいちゃんみたいで素敵だと思う。俺が生まれた時にはおじいちゃんは死んでたけど。f:id:johnetsu-k:20140110202309p:plain

あまり葬儀場には見えないきな臭い建物は、不良のたまり場と噂されたゲームセンターだった。事実、警察が定期的に入った。

俺の母校は荒れていたらしい。俺が中学に進学したときには生活指導に燃える教員が各学年で活躍していて、まったく荒れていると思えなかったが、20年前には廊下をバイクが走っていたそうだ。

小中学生はゲーセンへの出入りを禁止されていたが、4つ上の班長は小学生のときから出入りして問題になったらしい。ソフトボール部の教師がよくここを監視にやってきて、全校集会でこのゲーセンを悪玉のように名指しした。

駐輪場にはいつも大きなバイクが並んでいて、ここを歩くときは中を見ないよううつむいて、足早に通りすぎた。でも一回くらい入ってみたいよね、という話題はおとなしいグループではよく上がった。平凡な道の途中にぽっかり穴を開けた、異世界への扉のような扱いだったと思う。

はじめて中に入ったのは俺が高校を卒業してからだった。

そのころ経営状態は末期で、ゲーム機は敷地の3分の1ほどしか設置されず、そのほとんどはネット麻雀の筐体だった。臭い立ちそうな服を着た男性が数人、煙草をふかしながら張り付いていた。置かれていない側は照明が消えてうす暗く、トイレの前だけぽつんと明かりがついていた。

 ここが衰退したのは結局、大手資本のゲームセンターが相次いで近くにできたこと、不良の供給が絶えたこと、単純に経営努力が足りなさそうだったこと、その全部だろう。

ゲームセンターは学校の外れ者がたまる場所でも、異世界への扉でもなくなった。新しいゲームセンターは安全で、誰でも入れるような場所になった。

だけど誰でも入れるような場所に入れるのは、誰でも入れるような場所に入れる人だけなんだ、と思う。地球はひとつになったけど、はずれものは出てくる。

かつてここに集まっていたような人たちは今どこへ行くのだろう。少し歩いて、俺はTくんのことを思い出した。

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 実家の裏の畑をはさんで向かい側にTくんの家はあった。Tくんは俺が5年生のとき入学してきた1年生で、中学2年のとき河川敷でホームレスを殺した。

Tくんはどぶ板に浮かぶ長屋、といった風情の昔ながらのアパートにおばあちゃんと二人で暮らしていた。中に入ったことはないけれど、建屋全体からは猫のトイレの臭いがした。

Tくんは学校に行くのが好きではないらしく、いつも朝の集合時間に遅れた。歩くのも遅く、よくおいてけぼりにされた。 

6年生になって、俺は通学班の副班長を務めた。副班長は班の最後尾をみはり、だれも遅れないよう進捗を管理する。悪ガキのリーダー格だった班長は、子分を連れて勝手に先へ行ってしまうため、尻拭いは俺に任された。

俺は、彼と、よく笑う太った2年生の子と3人で、毎朝始業のチャイムが鳴り終わるギリギリのタイミングで滑りこむように登校した。

通学路になっているアスファルトの道から用水路を挟んで向こう側、舗装されていない土の道が俺たちの登校ルートで、甘い蜜を吸える小さな花がぽつぽつ咲いていた。こちらにはガードレールがないため、用水路に落ちてしまわないようゆっくり歩いた(そういえばこのガードレールの下も昔はコンクリートで固められていなかった。ここは向かい側と同じように草むらになっていて、落ちていたタバコの燃え殻を吸った記憶がある)

Tくんはそら豆に手足をつけたような子で、ほとんど喋らなかったし、あまり表情を変えなかった。彼の笑顔はちょっと記憶にない。無愛想というよりどう反応していいかわからない、戸惑ったような顔をいつもしていて、写真に残る子ども時代の俺とちょっと似ていた。

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途中の歩道橋は難所のひとつだった。

小学校に入ったばかりのころ、俺は階段を昇降するたびいちいち両足を揃えるクセがあって、どんなに急いでも人の1.5倍は時間がかかった。

当初は俺が降りてくるまで、班のメンバーは俺を待っていてくれたが、そのうち置いていかれるようになった。2年生になっても事情は変わらず、下級生においていかれたのはさすがに恥ずかしかった。交互に足を出せるようになったのは3年生からだったろうか。慣れると階段を一段飛ばしに昇ることもできて、そんなことでうれしかった。

Tくんは俺よりは階段を昇るセンスがあったけれど、そもそも歩くのが苦手なのでやっぱり遅い。歩道橋に着くころには大概始業ギリギリで、俺が一段とばしで先に上へ登って早く、早くとせかした。昔は俺が置いていかれる側だったのに。

歩道橋を渡ると、俺は彼ともう1人の2年生、2人分のランドセルを抱えて、下駄箱まで競争した。毎度、遅刻ギリギリではあったけど、実際に遅刻したことはなかったと思う。

Tくんがいい子だった、という記憶は特にないけれど彼と登校する時間はたのしかった。6年生のころには俺はもうへらへら笑える人間になっていて、Tくんもそうなる道はあったんじゃないか、といまでも思う。

Tくんと関わったのはその2年間だけで、数年後、ホームレス殺害で話題になるまで彼のことは忘れていた。

ローカルニュースで話題になったその事件は犯人グループが逮捕されると2ちゃんねるにもスレッドが立ち、当日のうちに加害者の3人組の本名も割れていた。書き込みのなかに彼の名前を見つけた。

主犯格の男は20代後半だった。当時14歳のTくんとはかなり年齢差があって、報道では、命令されてやったのか、どこまで主体的に関わったのか、少年に殺意はあったのか、ということが問題になっていた。真相は彼らにしかわからない。「殺すつもりはなかった」というフレーズがちょうど流行していた時期だと思う。

彼がこの事件の犯人だと知って、あまりショックではなかった。納得に近かったかもしれない。

俺が小学生の頃は神戸で起きた酒鬼薔薇聖斗事件(これも14歳の犯行だった)あたりから「キレる少年」が話題になり「おとなしい子ほどキレると怖い」とテレビが騒ぎ立て、「自分も絶対こうなるんだ」と思って、怖かった。当時の俺が憧れたのは、何かの間違いで人を殺してしまうとかつまらない罪で、全国で指名手配されて、暗い屋根裏にかくれ誰とも交友関係をもたず、コンビニ弁当を食べて一生を過ごすことだった。テレビでそんなドキュメンタリー番組がやっていて、絶対にそっちの道へ転がり落ちるような気がして怖かった。

だからなのか、Tくんの件を聞いたときも「やっぱり…」と思った。俺もああなっていたかもしれないし、たぶん俺と似ていた彼は、あちら側へ足を踏み外してしまった。それはおかしなことではないと思う。凶悪な人だけが凶悪な犯罪をするなら話は簡単で、彼はふつうの子どもだった。

彼と自分の何が違ったのか、よくわからない。俺はたまたまホームレスを殺さずにここまで生きてきて、Sくんはそうじゃなかった。それだけのことで、ただ俺の方が少しだけ用心深かったとか、少しだけ勉強ができたとか、付き合う人間に恵まれたとか、彼の頃には少しだけ町が変わってしまったとか、たぶんその程度のことだ。 

俺は運が良かったんだ。

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通学路を少し離れるとどぶにゴミが浮いていて、不思議とほっとした。

なぜ落ち着くのかよくわからない。ただ俺が小学生だった頃、どんなに決められた道の中でも、どこかに必ず足を踏み外していい場所、逃げ場所があった。そういう場所で息継ぎをして生きていたのは俺だけじゃないと思う。 

どぶには知らん顔をしてゴミが浮いてる。

街は整備され、きれいになった。側溝にふたができて、危ない道には柵もできて、彼らは知らん顔をしてくれない。ここを踏み出すな、越えたらお前の責任だ。訳知り顔で諭しておきながら、遊んではくれない。人間は顔を見せず、コンクリートの下から言葉もなく命令する。

街は命令形で埋まっている。たぶん俺が育ったときから、それはそうだったのだ。

俺がいま小学生をやり直したら、まともに育ってないかもしれない。どこかで道を外れているかもしれないし、外れることにすら失敗して、窒息しているかもしれない。

最近自殺した友人は息苦しいどころか、本当に過呼吸症候群だったけど、彼女が横になりながらビニール袋を口に当て懸命に呼吸している姿を渋谷駅の改札前で見ながら、なんだか俺は安心した。ちゃんと息を吸おうとしているんだから立派なもんじゃないか、と思ったのかもしれない。普段の彼女よりちゃんと生きているように思えた。

道を少し離れれば、汚いどぶにゴミがぷかぷか浮いてる。こういう場所が残っていて、ほおっておかれるのは悪いことじゃないように思う。俺みたいなゴミでも生きてていいかもしれない、なんて安直に結びつけるつもりはないけれど。

*** 

歩いていると鼻唄が出てきた。実家では鼻唄がよく出て、楽しそうだねえと母に言われる。

本当に楽しいのが半分、もう半分はきっと、からっぽを埋めるためなのだと思う。自分と街、あるいは自分と家族との間にある、からっぽを埋めるため。きっと俺は鼻唄の分だけ、少しだけ世界から浮いていて、こうして浮いているのが嫌いじゃない。未来からやってきたみんなに人気の猫型ロボットはいつも3mm地面から浮いているのだ、なんて適当なことを言って、また少しだけ息を吸って、俺は育ってきたんだ。

俺はここで育ったのだと思う。間違いなくここで。