立ち飲み記
5月某日。休日。
昼から上野に用事ついでに、朝からふらっとアメ横へ、朝9時過ぎからガード下の立ち飲み屋が開いていたので入る。飲みなれないホッピーを左手にもつ煮、カシラ、ハムカツ、やさい天、厚揚げ焼き、特製ポテトサラダなどを順々に注文。順番がおかしい。一人飲み、および立ち飲みがはじめてとはいえ、シメを特製ポテトサラダ(¥150)*1でシメるなどという失態があっていいのだろうか。
あってはならない。
ので向かいにOPENしていたコロッケ屋でコロッケとメンチカツ、ついでに隣の店でたい焼きとソフトクリームを買って食べシメ直す。気持ち悪い。食い過ぎた。次回ひとりで飲むときはもっとちゃんとシメようとちょっとだけ思ってすぐ忘れ、ほろ酔いに特有のステップでアメ横に特有の雑踏を歩く。
人がいっぱいで幸せである。
みんな楽しそうにしていて、世界はなんと、よいのだろうか。
俺は酒が回ると、「思う」とか「俺は」という言葉が頭からスコーンと抜ける。「俺は人がいっぱい楽しそうにしている光景を見て、幸せだな〜と思う」ではなく、「人がいっぱい即幸せ」というシンプルな回路、まるで光のように、目標まで最短経路を通って結論までたどりつく短い回路だけが頭の中に残る。目の前にある"これ"が即ち幸せなのだ。そういう感じ。自分で書いててクスリでもやってんじゃねえかと思うけど、しかし幸せとは本当は、それくらい単純な構造をしているべきではないか。べきではないか、って、何に対して言ってるのかわからない。
正午を過ぎ、ほろ酔いに特有のステップにて御徒町の某シェアハウス*2へ。中に入ると、まだ布団の上でいい加減な格好で寝ている男がいて、ああダメ人間がいるぞとゲラゲラ笑う。
小説やマンガだらけの本棚からギャグマンガを数冊取り出し読む。ほろ酔いでギャグマンガを読むとはかくも幸せに満ちたものかと思う。
「人生はクロースアップで見れば悲劇、ワイドショットで見れば喜劇」と喜劇王は言ったけれど、それならば無限遠の距離から人の生を眺める神様はいつも爆笑しているのではないか。などと昔の俺はメンヘラじみたことを考えていたが、今の俺はまさしく神。ゴッド。「世界にギャグマンガあれ」と神は言われた。こうして世界はギャグマンガになったのだ。へらへら。すやすや。
…いつの間にか寝てしまって起きて、夜は夜で飲み会に顔を出して飲み、自宅に戻って、ローソンでシュークリームを買って食べて、寝た。幸せであった。ダメといえばダメな一日だが、幸せなのでよかった。ダメなどという概念は唾棄すべきである。俺はダメを生きるのではなく、幸せを生きる。ただ生きることだけが正しいのだ。へらへら。すやすや。