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ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

社畜日記その3

今日は東京凱旋後初残業記念ということで、独りで地元の焼き鳥屋に行ってきました。独りで祝うっていうね。いいじゃないですか。

正直、規制かかる前にレバ刺し食えないかなーと期待して行ったんですけど、なんか最近やめちゃったみたいで、おいふざけるなよマスター、俺に焼き鳥の盛り合わせを用意しろ、なにこの名物の味噌だれ?うまそうだからそれな、っておい、うめえじゃねえか!あとじゃがバターください!みたいな感じで、めっさうまかったです。神。焼き鳥屋のマスターは現人神。

俺以外の客はほとんど常連さんみたいで、それもよかったです。なんか傍観者に徹してられたっていうか。俺はお祭りもよく独りで行って、ああ寂しいな、いや、これは本当に「寂しい」という感じなのか?これはちょっと違うんじゃないか?って思いつつ帰るんですけど、それに近いですね、独り焼き鳥は。いいか、俺はまた、そう遠くないうちこの店に来るけど、いいか、マスター。常連になんか絶対なってやらないぞ。俺を常連として扱うのは絶対にやめろ。そのかわり、忘れた頃にそっとじゃがバターのバターをこんもり盛るとか、そういう粋な計らいをしてくれ。って、そういうことを思いました。はっはっは。死のう。

嘘でも言うもんじゃないですよ、死のうとかね。「絶対にキリンのことを思い浮かべないでください」て言われると人はキリンのことを絶対思い浮かべてしまう。ことと同じで、「死のう」と一度言ってしまったら、あとからどれだけ否定しても、それを読んだ人間は「じゃあ死のう…」って否応なく思い浮かべてしまうわけで、あと自分でも「死のう…」って思い浮かべてしまうわけで、世界に不幸が増えます。呪いですね。それはやめたほうがいい。「死のう」とか「死ね」って言わないほうがいいですね。本当に。自分の中にも世界にも不幸を増やしますから。

いやそもそも、幸も不幸も善も悪も、本当はそんなもんないんです。存在しない。そんなのは言葉の問題であって、言葉がなければそんな概念もないです。嘘です。「死のう」の反対は「生きよう」ですか?言葉のうえではそうかもしれないけど、なんか違う気がしませんか?もし違和感を感じるとしたら、やっぱそれは言葉が不完全であることの明白な証左じゃないか。だから、言葉を発する、発語するというのは、一歩一歩自分を死刑台に追いやってることにほかならないのではないか、みたいなことを思います。論理がバーンと飛びましたね。こういうのがよくないんだろうな。

まあそうは言ってもどこへ行ってもコミュニケーションが世にはびはびこるこの時代、私たちは言葉を発さずには生きられないわけで、どこかで言葉の持つ毒?というか呪いというかを、どうにかして解毒・解呪していかないといかんのではないか、と思います。そんなこと考えないでも生きれる人は、そんなこと考えないでも生きれますけど。それが9割か。もっといるか。でもそれはそれで、そういうものだと思います。

…だから話を戻すと、「死のう」の反対は「生きよう」ではなくて、この店のカシラの塩こうじ焼きはめっちゃうまい、とか、でもここのハイボールは救いようがないほど薄い、とか、そういうことだったりするんじゃないかなと思ってます。って、思ってます、とか言ってるのがあれだね、俺のどうしようもない部分なんでしょうね。はっはっは。寝ます。