ライフ・イズ・カルアミルク

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社畜日記4〜大阪編〜

昨日から今週末まで出張で大阪。「そうか、俺も出張する人間になったか。そうなってしまったのか。」としみじみ思う。というのも俺の親父が出張を全くしない地元密着型のサラリーマンもとい中卒だったので、俺自身「出張」という概念にまったくなじみがないまま23まですくすくと成長してしまい、そうか、俺もいよいよ出張か、あっ涙が出そう。俺はもう立派なサラリーマンですよお父さん、などと「出張=エリートの証明」みたく幸せな勘違いをしている今日このごろ、みなさんはどうお過ごしでしょうか。

というか俺は大阪に来るのがはじめてだ。出張も大阪もはじめてなので、ダブルでテンション上がっている。大阪もまた、自分の中でなぜかハードルというか期待値がめっちゃ上がっていて「あの有名な大阪に行けるぞ!」と思ってしまう俺は、阿呆なのではないか。ただの田舎者か。

それで昨日なんば周辺をぶらぶらして思ったのは「関西弁を話す女の子がいっぱいいてかわいいなあ」ということで、なんばグランド花月の裏あたりで芸人の出待ちをする女の子は当たり前だがみんな関西弁をしゃべっていて、そら大阪の小学生の7割が芸人になりたがるのもわかるわ、と俺がいま考えた嘘情報にも勝手に納得してしまった。かつては俺もツイッター芸人の名をほしいままにしたものだけれど、出待ちされたことなんて一度もなかったよ、まあ俺が自宅を出たところで知らない女の人が出待ちしてたら慌ててドアを閉めて警察に通報してたけどさ*1

そういえば大阪の市街で見かけた安全標語がおもしろかった。「せやねん。やっぱり、火の用心」って、おい、「火の用心」以上のこと何も言ってねえじゃねえか!とツッコミたくなるけれど、まあこんなものは内容の良し悪しもクソもないので、これでいいのだと思う。

関西弁は良い意味で薄っぺらいところがあっていいですね。よく聞くと何も言ってないけれど伝わるものは伝わるというか、何も言ってないからこそ伝わるというか。お笑いってそういうところがあるわけで*2、さすがはお笑いの国だなと思いました。これは素直にいいなと思う。

で、これは村上春樹(生まれも育ちも関西のくせに、あんな文章を書くことで有名な作家)が「関西弁は小説に向かない」と書いていたことと対になっている気がする。逆にいえば「関西弁を持ち込めない」ことが小説の限界、というとネガティブに聞こえるかもしれないけど、そうではなくて、むしろ限界こそがその表現媒体を真に特徴づけるというところはあって、まあそれはいいや。

…しかし、どんなスポーツでも限界ギリギリに近づけば近づくほど美しい・合理的なフォームになっていくのと同じように、文章や話芸も、限界の線に近づけば近づくほど美しくなる、必然性が生まれてくるのではないかって今思いついたけど割と正しいと気がします。あれ、天才か俺は。

なんというか、必然性というのは美しいもので、逆に必然性の存在しないところに美しさは生まれない。それはほとんど何の信念もこだわりもないペラッペラな俺が持つ数少ない信念のうちの1つなのだけど、よく世で言われる、関西の外から来た人間が関西弁を話すとどうしてもおかしく聞こえてしまうというあの原理も、実はそれに基づいているのではないかと思う。よそ者というのは、必然性の外にいるからよそ者なのだというか。

関西弁を話す女の子がかわいい、何とも言えず愛おしいのは、彼女らの中を必然性の柱がまっすぐに貫いておるからかもしれませんね。もしくは僕が大学で方言学を専攻してしまうほどの方言フェチだからかもしれませんね。ええ、それですね。へっへっへ(笑)

*1:何を言ってるのかわからない

*2:「そういうところ」とは具体的にどういうところか。考えをまとめるのが面倒な筆者の代わりに考えよ