ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「自己責任」という虚構

6月某日。休日。休日を利用して洗濯をした。洗濯機から洗ったズボンを取り出すとポケットのあたりが妙に重く、手をつっこんでみると、しわしわのほぼ日手帳が出てきた。絶望。

まあこんなことは俺の人生今までに何度でもあって、自転車のカギも家のカギも、定期入れも財布だって今まで数えきれないほどなくしてきたし、そういえば就活のときの手帳だって就活真っ最中になくしたのだった。先日、職場に忘れたはずのオナホノートも未だ見つかってない。

そんなわけでこんなことは日常茶飯事、なれっこなのでただ笑っとけばすむし、幸い手帳に記したメモ書きは読み取れる状態だったので、これを新しい手帳に書き写してそっちを使おう、と思っていたら、翌朝、メモを書き写す前に、俺はしわしわのほぼ日手帳を見るなりゴミ袋に放り込みゴミ置き場に捨てて出勤してしまった。絶望。俺のほぼ日手帳は燃えました。

ところで、こういうことを指して「自己責任」だという社会はどうなんだろう。

どうなんだろう、って、これ以上ないほど自己責任で処理されるべきっぽい物件を持ってきて「どうなんだろう」ってぬけぬけと書く俺の方が一般的にはどうなんだろうけど、そうではなくて、たとえば江戸時代。あるいは縄文時代。「責任」という概念が存在しなかった時代に、こういう事態はどうやって処理されたのだろう。

俺は歴史に明るくないからわからないけど、どの時代の人間であっても「ほぼ日手帳を捨ててしまった俺が悪い」という結論に達するのだろうか。そんなことはない気がする。自分は間違う存在である、と人間が認識するようになったのは、つい最近のことで、それは普遍的でもなんでもないのではないか。たぶんそんな気がするんですけどね。俺もここまで阿呆なことをやっておいて、自分が悪いと思ってないし。じゃあ何が悪いというわけでもないのだけど、そもそもどこかに原因を求めてしまう、なにか悪いもののせいで悪いことが起きてしまう、という考え方自体がつい最近のもので、だからものがなくなるときはなくなるという、それだけですね。すごくシンプル。

そういうわけで、今までの仕事のメモとか、今後の予定とかちょっとご破算になってしまったんですけど、職場の各位にはひとつ、こういうことも世の中にはあるのだと人類学的な見地から今回の件は大目に見ていただければと思います。こんなところで言うのもなんですけれども(笑)