ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

言葉が意味を持ってるって説は

上司と話してるときによく思うのだけど、たとえば言葉に意味がまったく無くなったとする。何を言っても意味がまったく伝わらない。意思疎通ができない。そうなったときに、じゃあ俺と上司はどういうコミュニケーションを取るのか。ってなると答えは単純で、「私はあなたの敵じゃありませんよ」「私はあなたとコミュニケーションを取りたいと思ってますよ」ということを、全身で伝えるしかない。お互いに。

というのがコミュニケーションなるもののすべてだと俺は思っていて、そうなると上下関係というのも壊れていくわけですね。自分も相手も、同じ土俵に立つしかないんだから。

そこまで考えて、なんで言葉に意味なんかあるんだろうなと思う。なんでこんな、面倒くさい回路を、こうして文章書いてるときでもそうだ。なんでそんな、俺は言葉にこだわってるんだろうって。言葉に意味なんかなければないほどいいのに、なんで言葉についてこんないちいち考えなきゃいけないんだろう。

まったく言葉が通じない異国に行ったときだって、きっとそういうコミュニケーションをするわけで、何かを相手に尋ねるにしてもまず「私はあなたの敵じゃないですよ」ということを、どうにかして伝えるしかない。それは言葉の意味内容じゃなくて、声の調子とか、表情とかで伝えるしかない。何を言ったって同じだし、そんなことに執着するのはなんて馬鹿馬鹿しいんだろう。

何書いたって何言ったって、「これは違う!」「俺が言いたいのはこれじゃない!」っていつも思って、それはすごく不快な体験で、じゃあ何で俺は文章なんて書いてるんだろう、全部馬鹿馬鹿しい。だから、こんなこと書いたって結局は馬鹿馬鹿しいということ、「俺がほしいのはこれじゃない!」ということ、「お前らだって本当は『これじゃない!』って思ってんだろ!」ということ、「じゃあ『これじゃない!』って言えよ!」ということ、そんなことを言いたい、そんなことを言うしかないから、こんな文章書いてるわけだけどさ。

要は何を話したっていいわけで、その人の体から、ボディからその言葉が出てきてるのか、というのが本当に大事で、「何を話すか」ではなくて「誰が話すか」「どういうふうに話すか」ということが本当に大事なことだと思う。酒飲んでヘラヘラ笑ってりゃ楽しいし、それがすべてだと思いたい。でも現実はそうじゃない。何で俺は、こんなふうに話さなきゃいけないんだろうってその軋み、言葉と自分の間にある軋みの感覚は、絶対に忘れちゃいけない。軋んでない文章は、言葉はダメなんだ。それはただ、言葉に喋らされてるだけ、書かされてるだけなんだ。

でも言葉の外に出られるのか。ウィトゲンシュタインが言ったように「世界の限界とは言葉の限界である」のかもしれない。けど、その限界に向かって戦いを挑むことが大事で、仮に外側がなかったとしても、戦わなくちゃダメなんだ。戦ってない言葉が死んだ言葉だ。

ドン・キホーテ(ディスカウントストアでない)の解釈で、「ドン・キホーテは2つ読み方がある。ひとつは『風車に挑んでいく愚かな男』という読み方と『相手は風車かもしれないけど、それでも戦わなきゃいけないんだ』という読み方」という話があって、俺はこの後者の解釈が好きだ。はたから見たら滑稽に見えるのかもしれない(この文章だって、ふだん俺が話してることだって)だけど、それでもとにかく、戦わなきゃいけないんだ。それがどんなに愚かでも、相手が風車だとしても。

…なんにも話がまとまってない気がする。けれど、そんなのどうだっていいんだ。とにかく、「これは違う!」と声を上げること。それがまともに意味を成してなくたっていい。世の中はいつだってクソなのかもしれない。でも「いつだって世の中は大変だよ」って、わかったような口を利いてほしくない。頭が悪くてもいい。評論家気取りになったら終わりだ。クソなものにはクソと言うこと。Noを突きつけること。それだけだ。

言いたいこと言ったので寝ます。今日もまた寝てしまうんだ。