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ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「100→1」の文章術がインターネットをクソにした話(および業務報告)

雑記

文章術の話は後述。

現在の自分は、新入社員として1年間やってきたことの報告レポートを連休明けに提出せよ、と人事部から言われていて、まあ本来は先月末が提出期限だったので、いいかげん書かねばならない。のだけど、書く気、起きなッシングですね。

もう仕事を辞めたい旨はGW中に両親に告げて了承済み、まあ夏のボーナスまでは働いとけ、という話をまあそうだねと受け入れて、まあ夏までは頑張るか、という気になっていたのに、研修レポートの作成がやる気にならない程度で即退職を考えてしまう思考回路、ポンコツのそれだと思う。意味がないと思ったことは本当に手がつかない。昔からそれはそうで、いちいちやることに対して自分なりの理由付け、説明体系を作らないと、めんどくさかったり怖かったりで一歩も踏み出せない、それが俺のクソみたいなまじめさ・ダサさの根本だよなあ、とわかってるところで別にどうしようもない。

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話は飛ぶけど統合失調症関連の本をいくつか読んで、他人事じゃないぞと思ってしまった。

統合失調というのは要するに「現実世界がバラバラで、そのバラバラを理解のできるまとまりにうまく統合できない」事態が根本にあり、その困った事態に対する無意識の対処=防衛機制として人により様々な症状が現れるのだと俺は解したのだけど、その原理で行くと別に妄想・幻聴だけが統合失調の症状ではない。

たとえば夜、べランダでたばこ吸っていると目の前に広がるビルやラブホテルや京浜東北線の列車がただの、本当にただの塊に見えて、自分が世界から浮いてる感じがして「つまんねえなあ…」って口に出たその声が自分から出たものとはとうてい思えなくて、あまりにも信じられなかったから笑ってしまった。そんなことを思い出す。

きっと統合失調の人はそのぽっかり空いた空白が怖くて、妄想や幻聴で埋め合わせてしまうんだと思う。俺はバラバラな現実を前に自前の説明体系をなんとかでっち上げて、それでダメだったら笑って、適当にごまかして、きっと正気でいてんだと思う。今のところ。まあ統合失調も果たして病気と言っていいのか、という議論もあるようだし、人間の精神に正気も狂気もクソも本当はないんですが。統合失調の扉は誰にでも開かれてるそうです。はは。

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話はまた飛んで文章の話。

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい  - デマこいてんじゃねえ!

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130505/1367763730

 

記事の是非はともかく、率直に言えばこの記事が1000ブクマも伸びてる事態が嫌だなと思った。「文章とは100の素材を1に加工することである」という話なんですけど、これインターネットの物書きが目指す方向ではないんじゃないか。

「100→1」の文章術は書き手というより編集のそれだ。素材を加工して、文章を流通できる形に整える作業。ここで「流通させる」とは「消費の文脈に乗せる」ということで、しかし「いい文章」と「消費されうる文章」はまったく異なる。「カネになる文章がいい文章だ」という定義なら一致するけど。

しかし俺はまったくそう思わないし「むしろ市場の文脈には乗らないような文章がそのまま読み手に届いてしまう可能性、それがインターネットがいちばん大事にしなきゃいけない可能性じゃないの?」と思う人間としては、ネットの書き手が市場原理に自発的に服従して、消費されるための文章をシコシコ量産している状況は何だかなと思う。

 

だって「0→1」ができない人間が100の素材を集めて1まで圧縮したところで、それはただ中身がスカスカになった骨抜きの「1」にしかならない。

自分の「0」と向き合おうともしない人間が100を集めたところで、それは自分が「0」と向き合わないで済ませる自己正当化の手段にしかならない。

文章を書くとは本来「0→1」の作業で、たとえば発達心理学の研究なんかを参照すれば、100の素材がなくたって実に多くの4歳児・5歳児たちがびっくりするほど豊かな物語を書いていたりする。*1もちろんそれがそのまま市場に乗ることはありえないけど、ネットにはびこるクソライフハック文章・クソ読書感想文とは比べものにならないほどいい文章だと思う。文章を書くとは、まず自分と現実をつなぐための手段、「0」=バラバラの現実を統合する手段、自分の世界を自分の文脈に編集するための手段であるべきで、それをスルーして自分の外側の100の素材を1まで圧縮したところで、中身が何もない、文章の向こう側に人間が感じられないクソ文章ができあがるだけだ。し、そもそも100の素材を集めてくることだって、本来は自分の中の空白、「0」を埋めるためにやむにやまれず行うことだろう。消費されるための「1」をつくるために「100」を集めるというのは、そもそも出発点として間違っているんじゃないか。いつでも出発は「0」からしかできない。

 

にもかかわらずネットでは最初から消費されることを自己目的化した、スカスカの文章が蔓延して、受け手もたいした期待もせずただ文章を消費して、文章の向こうの人間もただコンテンツとして消費されて、消費されることに耐えられなくなった繊細な人間は消えて、鈍感な書き手が書くクソみたいな文章だけがゴキブリみたいに生き残ってネットを占領する。そういうクソそのもののネット言説をパロディとして描いたのが拙作「オナホ男(http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2012/12/17/221545)」だったわけだけど、そういう批評も誰にもしてもらえなかったのでいま自分で解説しました。む、虚しさ…。

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話をまとめると。

「100→1」は編集の姿勢としては正しいけれど、そもそも「0→1」ができない、書き手になる資格もない人間が「編集者ごっこ」をこぞって始めた結果、ネット言論はクソになっています。だから「100→1」の正否はともかく、その記事に1000ブックマークも付いてしまう状況は象徴的で、俺にはグロテスクに見えた。ということです。これはめちゃくちゃ大事なことなので、いずれ詳しく書こう、と思う。

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…なんて偉そうなことを言いつつ俺は「オナホ男」以来たいしたことは何も書いてない。

いや自分の0とちゃんと向き合うと何も言えない自分こそ正しいんですと正当化して、ゴミみたいな文章すら発信できない俺はもしかするとゴミ以下なんじゃないか。わからないわからないとか、怖い怖いとかほざいて、都合の良い説明体系を勝手にでっち上げて、踏み出さないための言い訳を作って、自分の檻の中でひたすらオナニーしてるのがお似合いなんじゃねえか。発信する資格がないのは俺なんじゃないか。あっ、死にたい…

 

…と当初は考えていたけれど、ひと通り書き進めたら割とすっきりしました。まあこのすっきり感がいつまで持続するかはわからないけど、オナニーは健康にいいですね。最高。はは。

 

さて、すっきりしたところで業務レポート書きます。あれ、なんで書かなくちゃいけないんだ…。

*1:発達心理学の分野では、内田伸子の著作がドチャクソおもしろい。「子どもの文章(東京大学出版会)」なんか文章論にも応用が効くし、文章書きは読んで損はないはず