ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「死にたい」なんて絶対言うんじゃねえぞ

俺はメンヘラに冷たいし脳の良心を司る部位にまったく血が通ってないクソサイコパス野郎だから、インターネットに「死にたい」とか書き込む奴には絶対に同情なんかしない。バカだと思う。

 

人間は、自分が信じてることを言うんじゃない。

人間は、自分が言ったことを信じてしまう。

「死にたい」と言葉を発してはじめて、なるほど、俺は死にたいのだな…と納得する。そうして「俺は確かに死にたいはずだ」と、自分が死にたいと思うに値する、確実と思われる証拠を集めはじめてしまう。私はかくの如き状況下に置かれている。これはとてもつらい。ゆえに死にたくなるのも当然である。あなたもそう思うであろう。そういうふうに、実に論理的に考える。

そうして「死にたい」が自家中毒を起こして、ますます「死にたい」としか思えなくなる。バカだなと思うけど。

 

文章を書くとは、自分の体に毒を回すことでもある。書いた以上は、その書いた文字の表すとおりに自分は信じこまなくてはいけない。そういう強迫観念が書いた文字に従って生まれる。

毒を外に発散させるだけの芸や教養体系も持たない人間が文章を書いたってろくな事にはならないよ、本当に。

「そんなこと言っても、インターネットは『死にたい』と気軽に言ってもかまわない、ガス抜きの場所じゃないのか」と言われるかもしれない。でもそれは間違いだ。「男性は精子が溜まってくるから、定期的に精子を出さなければならない」と同じモデルで考えてるのだろうけど、精神と精子を混同してるんじゃないか。

 

残念ながら、その人間=精子タンクモデルは大きな誤謬を孕んでいる。世界中が産業社会化へ進んでいく最中でフロイトが発明した力動精神医学は、あたかもタービンから飛び出した蒸気が汽車に運動エネルギーを与えるように、頭の中でリビドーが膨張した結果、人間は突き動かされるのだと精神の作用を説明した。フロイトは熱力学と同じモデルを転用して精神を捉えたが、それは本当に正しいのか、という話をしようと思ったけど、膨大だからやめる。

 

でも、そういうザーメンタンクモデルは近代化以降、物理学と同じように精神のはたらきを説明できる便利な説明原理として登場しただけだ。

有名なストレス説だってそう。ストレス(Stress=応力)は物理学用語からの転用だけど、しかしストレスは1つの説明原理にすぎず、証明されているわけではない。「ストレスがたまる」という話法は便利で「じゃあストレスを解消するにはどうすればいいのか?」というわかりやすい話になる。「ストレスを解消するにはこの商品を!」ということでそこには産業の、カネの匂いがするけれど、しかしこれが本当の解決策なのかはわからない。

少なくとも、それを信じたら幸せになれるのかどうかくらい疑ってみてもいい、と俺は思う。「ストレス」なるものは仮説にすぎず、違うと思えば別のロジックを組み立てたっていい。

(適当に言ってるわけじゃなくて、説明しようと思ったら膨大なんです。G・ベイトソン『精神と自然』ではこれが論理的な誤りを犯していると明確なロジックで説明してるんだけど、めちゃくちゃおもしろい) 

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脱線した。 

とにかく「死にたい」と直接俺に言うならまだいい。そうしたら俺もちゃんと聞いて、ふーん、くらいのことは言って、その「死にたい」はその場でおしまいになる。タバコの煙が空へ消えてくみたいに、発したことばはその場で消えていく。

でも「死にたい」とインターネットに書いたら、それはバカだ。書き込むにあたって「本当の死にたさ」を伝えなければと自分がつらい証拠を捜しはじめるし、書き込んだ後も自分の「死にたい」が十分に伝わってないんじゃないかと絶えず不安になる。インターネットの書き込みなんて、伝わったかどうかわかるわけがない。おまけに自分の書いた「死にたい」は、そこにずっと残る。「お前が書いたこの『死にたい』はウソなのか?」と言葉が問いかけてくる。

こんなのはタバコの煙をガンガン吸い込んでるのと同じだ。「死にたい」は決して発散に向かわず、体内に凝縮される。「愚痴を吐き出す」というモデルで考えないほうがいい。余計にためこんでるんだから。

 

第一「死にたい」をわかるとはどういうことか。

「俺も死にたいよ」という形でしかわからない。そうやって自殺サークルみたいになるんだろうけど、「死にたい」を本当にわかったら俺は死にたくなってしまうし、そんなバカなことをする趣味はない。

わかるとすれば、自分とは切り離した他人事としてその人の「死にたい」を理解するだけだし、理解したら「バカなことを言ってる」にしかならない。

 

「死にたい」はどうやって生まれるか。

「ここにいたら危険だ」とまず脳に信号が送られる。これは動物と同じで、しかし人間には「大丈夫、ここから逃げなくていい」と判断を下す理性もある。それが一時的なものであれば、理性の言うとおりじっと我慢して嵐が通り過ぎるのを待てばいい。それでなんとかなる場合もあるだろう。

しかしそれがずっと続くと「ここにいたら危険なのに、私はここから逃げないでいる」というおかしな状況が生まれる。理性はこの状況を合理的に解釈する。解釈は2つある。

1つは「そうか、私は死ぬかもしれないのにここにいるということは、私は死にたいのだな」と理性が合理的な答えを導く。こうして「死にたい」が生まれる。

もう1つは「私はここにいるべきだし、決して危険ではない」と理性が危険信号を無視する。徹底的に合理化する。ブラック企業に従順になってしまう人はこれだろう。

「狂人は理性が狂っているのではない。理性以外のすべてが狂っているのだ」という箴言があるけれど、理性だけが主導権を握るとこうなる。発狂だ。

 

「死にたい」を連呼していて、かつその事態を合理的に解釈しようとし続ける限り、人間は死ぬか発狂するかしかない。どうしてそうなるか。「死にたい」が間違いだからだ。間違いに向かって突き進む限り、その先は破滅しか待っていない。

 

「死にたい」と言う人ほど死なないという誤解はさっきのストレス学説と同じで、「死にたい」と口にすることは死にたみの発散になって良いという解釈モデルから生まれたものだろうけど、残念ながらそんなことはない。「死にたい」と口にするほど、人はますます加速度的に死にたくなる。

 

自分の状況を「死にたい」で済ますのは、自分と異質なものを「ウザい」「キモい」で済ます中学生と同じだ、と性格の悪い俺は思う。自分を語る言葉を持ってないから、そういうことになる。身も蓋もない言い方をすれば、頭が悪い。

でも、頭が悪いというのは一つの救いであって、頭が悪いなら頭が良くなればいい。バカは罪でもなんでもない。バカであることを素直に認めて、自分を語る言葉を自分で組み立てはじめればいい。

「死にたい」と思ったということは、今まで自分を構成していた言葉であり世界が信じられなくなった、ということで、それはまた、一から自分の言葉を組み立てるためのチャンスでもある。それは決して楽な道ではないだろうけど、でもきっとそうするしかない。少なくとも「メンタルを鍛える」なんてエセ科学じみた発想より何倍もマシだ。

死にたいと思った人間だけが賢くなれるんだ、と俺は思う。こんな社会、死にたいと思ったことのない人間のほうが異常なんだから。

 

「死にたい」なんて言っても「間違ったことを言うのはバカだ」にしかならないし、誰も本気で同情なんかしてくれない。「メンタルヘルス」なんて御大層な問題じゃなくて、頭が悪いだけだ。あるいは危険信号に反応できないほど、体が鈍らされているだけ。メンヘラは玄米食って日本史でも勉強してろ、って俺が言うのはそういうことで、メンヘラはメンタルが悪いんじゃない。メンタル以外のすべてが悪い。メンタル以外を何とかするんだ。

 

俺は冷たいから絶対に同情しない。死にたいなんて言うんじゃねえぞ。