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ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「情熱」の哲学史―内なる炎はどこから来たか?

ask.fmの回答を書いてたらやたら長くなった。ので、こっちに上げます。

質問:「情熱の最初の炎を作るには?」

回答:「情熱の炎」は定義の問題でしかありません。考えるだけ無駄ですから、クソして寝たほうがいい。というのはうそで、大問題です。定義の問題だからこそ大問題であって、クソを我慢してでも考えた方がいい。

「情熱の炎」にあたるものを、かつて西洋世界の哲人たちは「コナトゥス」と呼びました。

 Wikipedia-コナトゥス

この項かなり面白いんですが、さしあたり重要なのは以下。

コナトゥス(羅:Conatus 原義は努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力)はかつて心の哲学形而上学で使われた術語で、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。ここで「事物」とは心的実体、物理的実体、あるいはその両者の混合物を指す。数千年にわたって、多くの異なる定義や論じ方が哲学者によって定式化されてきた。

(中略)

今日では、「コナトゥス」は専門的な意味ではめったに使われない、というのは近代物理学ではコナトゥスに取って代わった慣性や運動量保存則といった概念が使われるからである。

…つまり、心やものを動かすものは古来より「コナトゥス」とひとくくりに呼ばれていた。それが今日では、物理学の概念に変わっている。

数千年続いてきたもののルールが、いつのまにか変わってるんです!!!

まあ本当に数千年の歴史があるのかは怪しいですが、ともかく古代ギリシア以降、2000年は続いたコナトゥスの歴史は、近代物理学にとって変わられた。これはどう考えても哲学史上の大事件です。以下説明。 

【コナトゥスとは?】 

原義のとおり、衝動(衝き動かすもの)等々をあらわす言葉でした。たとえばりんごが木から落ちるとき「りんごにコナトゥスが働いた」と言えば、これは人間の行動原理をリンゴに投影した一種のメタファーです。昔のヨーロッパではこういう言い方で議論がされていた。

ところが近代に入ると事情が変わる。たとえばニュートンは、このりんごの落下をコナトゥスで説明せず「引力」だと説明しました。人間の手を離れた、無色に近い表現を使った。「人間はコナトゥスによって恋愛へ導かれる」と言うことはできますが、「万有引力によって恋愛へ導かれる」と言うことはありません(ニュートンはそういうプロポーズをしたかもしれませんが)。

こうして西欧の近代物理学は幕を開けるわけで、見てきたように科学とはメタファー選択の問題、文体の問題でもあるのですが、それは置いといて。

【 現代において「衝動」はどう説明されるか】

「この世界に存在する神が、あなたをつき動かしているのだ」という説明、みなさん納得するでしょうか。あんまりしないと思います。「神は死んだ!」なんてニーチェに言われるまでもなく、われわれ現代人は、神を持ちだされてもピンとこない。がしかし。

「自分の内側にある何らかの力が、自分を衝き動かしているのだ」という説明。こっちの説明は違和感なく飲み込めるのではないでしょうか。

これ、近代物理学のメタファーでロジックが構成されているんですね。ちょうど蒸気機関車が内燃機関からエネルギーをもらって、タービンを回すのと同じ。人間というのは内側から湧き上がるエネルギーにつき動かされる。そういう説明なんです。

無意識から供給されるリビドー(性的エネルギー)を人間の行動原理に置いたフロイトの学説は「力動精神医学」と呼ばれますが、これは力動という名前からして、近代物理学のモデルをなぞっています。Wikiに記述してあった「コナトゥスが近代物理学の概念と置き換えられてしまった」とは、そういうことなんです。大事件だぞ。

【機械の逆襲】

 驚くべきことに近代物理学の隆盛以降、われわれは機械のモデルを人間に当てはめるようになった(デカルト以降、猛威を振るった「人間機械論」ですね)。「引力」「重力」「応力」と物理学の領域で使われていた力学モデルが今日、「コミュ力」「人間力」と人間の側に平然と侵入してきた。「応力」なんて英語では「Stress=ストレス」ですから、これも物理学の応用です。いたるところに物理学のメタファーは侵入している。

数千年もの間、人間様の原理を世界に当てはめて議論していた哲学の歴史が、ここにきて一気にひっくり返った。むしろ我々が機械のメタファーに合わせるようになって、しかもそのことをあまり自覚していない。これが大事件じゃなくて何なのでしょう。

人間が先か、機械が先か。問題は「どちらが正しいか」ということではありません。 

「今日の我々は機械モデルの説明に説得力を感じているし、世間もそのメタファーを当たり前に採用している」。それが問題なんです(で、気づけば俺も「説得力」なんて言葉を使ってますし)。

最初の質問へ戻ります。

質問:情熱の最初の炎を作るには?

「情熱の炎」という表現は、近代物理学のモデルそのものではないでしょうか。

「情(なさけ)」は「熱」によって動かされるものであり、その供給源は「炎」である。「情」を「タービン」に置き変えれば、これはそのまま熱力学の世界ですね。

炎とは人間を人間たらしめる発明であり、古今東西、どの社会でも神聖なものでありました。が、それは同時に人間のコントロールを超えた、畏怖すべき対象でもあった。炎とはたとえば王様が放つ威光のようなもので、背後にあって我々を輝かせてくれるようなものであっても、自分の中に取り込んでしまいたくなる、そういうものではなかったはずです。

それが変わったのは民主主義が定着していく近代以降。国民の一人ひとりが自らの主権者=王様とされるこの時代以降、「内なる炎」という類のメタファーが普及するようになった。

…まあすべての文化を見てきたわけではないので大胆には言えませんが、「内なる炎」のような表現はかなり近代的なものではないかと思います。

【そもそも「情熱」ってなんだ】

そもそも「情熱」というのはpassionの訳語。もともと日本語になかったことは言うまでもなく、明治以降、近代化を進める中で新たに発明された言葉です。日本では古来、人間が衝動に動かされるとすれば「あやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)」の世界でした。情熱どころか、物の怪が出てきます。

だいたい封建社会において、民衆に情熱なんて持たれたら領主はたまったもんじゃありません。物の怪か何かのせいにして、情熱は遠ざけておいたほうが都合がよかった。決しておおっぴらにされていいものではなかったはずです。

 

 「情熱の歌人」とも呼ばれた近代歌人、」与謝野晶子は「柔肌の熱き血汐に触れもみで…」と歌って、当時センセーションを巻き起こしました。内側に流れる熱いものこそが人間を衝き動かすのだ、という近代的なモデルを、彼女は言葉にして提示してみせた。それが当時の人々に衝撃を与えたのは、「情熱」を口にしていいなんてことを誰も考えてもいなかったことの現れでしょう。

(もっとも近代以前、江戸時代にはすでに近代の芽がぽつぽつ出ていました。徳兵衛とはつの心中(衝動の悲劇!)を美しくも悲惨に描いた近松門左衛門浄瑠璃なんて十分に近代的です。が、当時は前衛的すぎてあまりウケなかったらしい。近代とは、ようやく観客が追い付いてきた時代と言えるかもしれません)

 

 さて与謝野晶子が情熱を歌った20世紀前半、ヨーロッパでは医学の世界でも熱力学のモデルが応用されます。先ほども述べた、フロイト考案の「力動精神医学」ですね。自分の内側にある、えたいの知れない無意識、そこから生まれた性的エネルギーが人間をつき動かす。だからこそ我々は理性(超自我)によって、内なる衝動を押さえなければならない。蒸気機関の暴走を抑えるのと同じメタファーですね。 

20世紀とは大量生産の時代、大衆への普及が一気にはじまった時代で、それは何も工業や商業に限った話ではありません。一部の知識階級に独占されていた近代という思想も、蒸気機関車や紡績工場、学校や精神病棟に乗って大衆に届きました。そして現代という時代は、まさにその延長線上にあるのだ……ということは、頭の片隅に置いといて損はないと思います。

【コナトゥスに戻ります】

話は戻ってスピノザの話。

汎神論(神は世界に遍在する)を説いたオランダの哲学者スピノザは、理性について現代人とは違うイメージを持っていた。彼は言います。「人間は理性によって自然=神と調和しなければならない」。理性で考えれば神なんて存在しないんじゃないのか?と考えるのは近代人で、彼の論理はちょっと違う。 

これは衝動、コナトゥスが自分の外にあると考えるとわかりやすいんです。世界に存在する万物にはすべて、コナトゥスが宿っている。そして自分の意志も、コナトゥスの一部である。彼は自由意志の存在を否定しましたが、それはコナトゥスによって動かされるからですね。こうしてすべてのものを動かしているコナトゥスはもはや、<神>と呼ぶほかないであろう……

 

こうして汎神論が生まれるわけですが、わかんないかもしれません。俺の理解したスピノザはこういう人だけど。

とにかく彼は、「理性によって内なる衝動を抑え込む」ではなく「理性によって衝動を、外の世界へ無限に拡散させる」という逆の方向へ向かったわけです。発想の逆転とはまさにこのことでしょう。

***

古代ギリシアには「ストア派」という哲学一派がいました。ストイックの語源にもなった彼らストア派は「理性によって感情を抑えなければならない」と説きました。が、これも近代物理学のメタファーで捉えようとすると失敗します。彼らは歯を食いしばって感情を押し殺し、内なる衝動を抑えこむ苦行に耐えたストイシストではなかった。穏やかに、幸福に生きることを志向した人たちでした。彼らにとって、自分を衝き動かすものはスピノザと同じく外側にあった。

 

ストア派は「ロゴス(Logos)」という概念を重要視しました。これは「ロジック(Logic)」の語源であり、ロゴス自体が現代で言えば「理性・論理・言語」を含めた広い概念、「神が定めた世界の神的な論理」なるものを表したそうです。動きのないコナトゥスのようなものでしょうか。ストア派はコナトゥスも重要視していたそうですが、このロゴスとコナトゥスを「神」のもとに統合したのがスピノザの哲学かなあ、と思ってますが、どうなんでしょう。詳しい人教えてくれ。

 

まあ古代の人たちの言語体系を、現代日本語のそれに置き換えようという試み自体、メタファーからメタファーへの大ジャンプなので、明らかな間違いはともかく、あんまり正確な定義を求めても意味はないと思います。言語ってのは近代以降、語彙が爆発的に増えて、やたらと細かくなってしまった。かつては「ロゴス」と一言で呼んでいたものが、「理性」「論理」「言語」とバラバラなものになってしまった。そうじゃなくてロゴスはロゴスだし、そこにメス入れて分解しても意味ないんじゃねえかと思うけど、こんなこと言うから哲学ができないんでしょうね。

(しかしこうやって説明してみると、「コナトゥス」という単語がいかに使いやすいかわかりますね。現代の言語体系からコナトゥスを分析すると意味がわからなくなるけど、彼らのメタファーの内側に入って、コナトゥスを文章に組み入れようとすると、すごくしっくりくる)

【衝動は内にあるか、外にあるか】

 さて、衝動(コナトゥス)の起源は自分の外側、世界にあると考えることは、はたして非合理的でしょうか。

フロイトの学説によれば、衝動は自分の内側からやってくる、得体の知れないものである。その得体の知れないものを、理性で抑え込まねばならない。これは当たり前のように我々は考えますが、実は自分の本質を物の怪にしてしまうのと同じ、相当にしんどいことではないでしょうか。

 

一方で衝動の起源=コナトゥスはいつも目の前にある、世界に偏在するんだとする、スピノザーストア派の立場をとる場合。

これは目に見えるんだから、少なくとも得体が知れないことはない。理性は目に見えるもの、実体のあるもの、論理的なものを頼りにして安心したがります。だからこそ「自分もまたコナトゥスの一部であり、論理を踏み外していない」と理性で感じられるとすれば、これほど安心できることはないのではないでしょうか。

世界に神は偏在する。そして外から訪れる衝動とは、畏怖すべき物の怪ではなく、歓迎すべき神である。そう考える彼らの思考は、ものすごく合理的かもしれません。

 

だいたい情熱の訳語「passion」だって「受難」の意味があるし「passive」と言えば「受動的・消極的」の意です。Passionには「外から訪れられるもの」というイメージがあって、コナトゥスだってそうなんだけど、対して「情熱」って攻め一辺倒じゃないですか。受動的な要素がまるでない。

 近代以降の日本社会が、戦前から高度経済成長を経てブラック企業全盛の現代まで、攻め一辺倒という感じになってしまうのは、こういうことでもあると思うんですけど、どうなんですかね。外から訪れるものは神ではなく、物の怪でしかなかったことの弊害が出ちゃってるんじゃねえかと思うんだけど。

 【おわり】

…まあこの問題は書けばきりがないですが、Wikiのコナトゥスの項目を見てもわかるように、デカルトライプニッツスピノザヴィーコと、哲学の中でも相当のクセモノたちがこの問題にこだわってるんですね。クセモノというのは、哲学のルール自体を疑った人たちということ。哲学界のアウトサイダーなんです。

「哲学のルールがここで変わった!」と指摘したように、デカルトの登場以降は、哲学のルールが大きく揺らいでいる時代です。その時代に、どういうルールが提唱されたのか。これは面白いです。ヴィーコなんてあんまり知名度高くないけど、すごく面白いこと言ってる。

 この人たちがどう考えているのか。近代物理学のメタファー以外にも、選択肢が他にあるんじゃないかと、考えたい人は考えてみてください。コナトゥスまわりの人たちは本当におもしろいと思う。オートポイエーシスのシステム理論にもつながってるし。ということで回答。

質問:情熱の最初の炎をつくるには?

答え:「情熱の最初の炎」は現在、すでに人間の内側にあるようです(あるとすれば)。それを「神」とも「コナトゥス」とも呼ばないのは、今がそういう時代だからでしょうね。

 

【おまけ】 

ところで俺のハンドルネーム「じょーねつ」は、高度に近代的な概念である「情熱」をひらがなで表記することによって脱構築する戦略的な意図を持ったものでは全然なく、下記のとおりです。

「なんでじょーねつっていう名前なのかさっぱりなんですけど」

http://ask.fm/johnetsu592/answer/105181246675

ask.fmの質問、長くなるやつは今後もブログに持ってくる予定なので、適当に質問してもらうと何か書くかもしれません。基本的にリクエストがないと何も書きたがらない人間なので、質問来るとめっちゃ喜びます。よろしくどうぞ。