ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

地元に帰ったよ日記

正月は地元に帰った。

家にいてもすることがなく、昔通った小学校の通学路を歩いた。

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 昔通っていた小学校は「集団登校」なる制度を実施していて、近所の子どもたち10名ほどが男女別の通学班でかたまって登校した。朝の7時半に集合する場所は雑草が伸び放題の空地の前で、今も何に使われているのか知らない。色褪せて自立能力を失ったカラーコーンが鉄柱に刺さっていた。

通学班の同学年の男子三人はみんな悪ガキだったけれど、後に暴走族に加入し、深夜マフラー音を響かせた先輩たちほどではなかった。俺のほかは先輩たちの子分のような扱いで、俺はそうなれなかった。歩くのが遅かったから、後ろからランドセルを押されたり、後ろに置いていかれたりした。朝飯がおいしかった記憶が無い。

下校のときは自分の歩く速度で歩ける、というだけでほっとした。知り合いと顔を合わせないよう、少しタイミングをずらして帰った。

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よく落ちているものを拾ってきた。かぼちゃに顔が描かれた割れたマグカップ、小さなスーパーボール、難しい漢字が書いてある上級生のテスト。下ばっか見て歩いてんじゃないの、と母に言われて、自分がとてつもなくいけないことをしているように感じた記憶がある。

昔はところどころの側溝にふたがなくて、俺はしばしば突っ込んで足をすりむいた。下ばかり見ていたのは俺なりの用心だったのかもしれない。ちょろちょろ流れる側溝の汚水を目で追いかけながらよく家まで帰った。

そういえばよく小石を蹴りながら家まで帰った。石をどぶに蹴落とさないよう気をつけるうちに、足下ばかり気にするようになったのかもしれない。

「まわりが見えてない」と上司に言われるくらいだから、今でも変わってないのだろう。

通学路には何ヶ所も足を踏み外す箇所、石を落とす場所があったはずだけれど、今はそのほとんどにコンクリートでふたがされている。道を踏みはずす心配はない。俺がいまから小学生をやり直すなら下を向いて歩かないかもしれない。どこを見て歩くんだろうか。前を見て歩くだろうか。

当時の俺はうつむいて歩いていて、きっとそれなりに楽しかったのだ。

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 生徒には学校と自宅を結ぶ通学路がそれぞれ割り当てられ、決められた通学路を外れることは許されない、という学校の規則は、学校側が想定した以上に生徒たちに重く響いた。

自分の通学路から外れた道を通行することは「ツーハン(通反)」と呼ばれ、わが小学校において犯すべからざる罪だった。ツーハンはいけないんだ、先生に言ってやる、と言われたら顔が蒼ざめるような気がするものだったが、そこまでまじめに考えていたのは俺くらいかもしれない。

当時いじめっ子の行動に「通学路を外れた道へ無理やり引きずり込む」というのがあった。一歩でも違う道へ踏み出せばそれは即ツーハンで、分岐路へ来ると、こっちへ来いと引きずり込まれる。俺以外の子供も本気で嫌がっていたと思う。

いったん帰宅すれば通学路を離れてよそへ遊びに行ってもいい。ただ帰宅するまでは通学路を守れ。これが学校が決めたルールだった。

帰宅後も外へ出て遊ぶことはほとんどなかった。

通学路ではない、知らない道を歩くことが怖かった。俺の頭のなかの地図は家と学校を結ぶ一本の道だけでその外は真っ暗な森が広がっているようなイメージがあった。

毎日同じ道を歩いて、その外へ出ることは考えもしなかった。

生きることはノルマが毎日与えられるようなもので、それはそういうものだと思っていた。

不登園児だった保育園時代とはちがって小学校はほとんど皆勤賞だった。俺の反抗期は保育園で終わっていた。

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 「バトルえんぴつ」という遊びが学校で流行った。六角えんぴつを転がして出た目で友だちと勝負する遊びで、ドラゴンクエストポケモンのキャラクターがモチーフに採用されていた。全校でバトエンが持ち込み禁止になったのは俺のせいだ。

2年生のある時期にクラスの、というか学年の問題児だったSくんとよく下校した。いっしょに帰ろうと毎日のように誘ってきた子はSくんがはじめてだったかもしれない。それまで俺はいつも一人で帰っていた。 

Sくんはゴリラと岩を足して2で割ったような顔で、歯並びが悪かった。

車の排気ガスのにおいが好きなんだ、と帰り道で彼はよく言った。俺は好きでも嫌いでもなかったからよくわからなかった。でも雨上がりの埃っぽいにおいや、水たまりにできたガソリンの虹は好きだった。

あるとき通学路からはみ出した路地の方に誘われて、バトエンを交換する話になった(人に誘われたときに限って、少しだけ通学路をはみ出すことはあった)。彼のバトエンは弱くてボロボロで(今も覚えているけど、ビッグアイのちびた鉛筆)俺のまだ鉛筆削りにも突っ込んでいない「あばれうしどり」を交換しようと持ちかけられた。「あばれうしどり」は俺のエースだったから、交換するわけにはいかなかった。

いやこのビッグアイはけっこう強いんだ、だってこの目が3回出ればね、とSくんは説明をはじめるも納得するはずがない。小学生でもその格差は一目瞭然だった。

わかった、じゃあちょっとだけ貸してくれ、あとで返すから。俺はあいつに勝ちたいんだ。そう言われると断る理由もないので俺も折れて、交換した。

後日、そろそろ返してくれないかと聞くと、何のことかわからないととぼけられた。まんまと彼にはめられたことに気づき、涙があふれてきた(当時俺が泣くとしたらこんな感じだった)。わかった、返すから泣くのをやめてくれとSくんは慌てるのだけど、そう言われるとますます涙が溢れてきて、そのうち放課終わりのチャイムが鳴って、運悪く担任が教室に入ってきた。

この一件から教員の間でバトエンが問題視され、やがて全校で禁止される。それから生徒たちの間では、自作のバトエンを作るのがブームになった。

他愛もない思い出だけど、学年が上がると俺は「バトエンを学園から消した男」として自ら吹聴するようになった。終わってしまえばなんでも笑い話になった。

後日Sくんは母親と、俺の家まで来て謝った。俺は自分のせいでこんな大事になってしまったのが恥ずかしくて仕方なかった。彼のことを憎いとは思っていなかった。

 

Sくんは学年が上がるにつれ、周囲から疎まれるようになった。集団行動は苦手だったらしい。「ウザい」「キモい」といった言葉が子供たちの間でも流行した時期で、彼もまた、そういう便利な言葉でカテゴライズされるようになった。

4年生のとき彼は、当時猛威を振るったギャング集団(「たけし軍団」みたいにリーダーを務めた悪ガキの名前が付けられていた)からターゲットにされ、時々学校を休むようになった。

俺もまあたいがいで、髪の毛を引っ張られながら、うちの軍団に入らないとこれを突き刺すぞとコンパスの針を突きつけられるような割とハードな局面こそあったものの、のらりくらりやり過ごした。少しずつ生きるのが上手くなって、Sくんはあまり変わらなかった。

いまSくんは地元の工場で作業員として働いている。3年前、たまたま駅で会った彼はまったく変わっていなくて、ダボダボな服を着て、金色の派手なネックレスを下げていた。彼女がかわいいんだと携帯を開け写真を見せてくれた。キャバ嬢みたいでかわいかった。

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 かつては鉄柵がなかったこの砂利道をななめに突っ切って行くのが俺は好きだった。

帰り道、俺が通学路を外れるとしたら唯一このルートで、私有地だから通ってはいけないと集会で通達があったにもかかわらず俺は無視して通った。いちいち遠回りするのがめんどくさかったのだろう。中にあるのは小さな観音様のお堂で、少しだけ罪悪感もあった。

砂利を歩く音も好きだった。わざと足を深く突っ込み砂利道をじゃりじゃり荒らして歩くのが好きで、そんなガキがいるから柵が立つんだろうな。通学路はくまなくアスファルトで舗装され、砂利道もなくなった。

久しぶりに石を蹴りながら歩きたいな、と思ったら、東京には手頃な石がまったく落ちていないことを思い出した。通勤経路には石が落ちていない。なんだか友達がいなくなってしまったようで急に寂しさを感じた。ずっと忘れていたくせに。

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 打ちっぱなしのコンクリートだった場所はきれいに舗装され、柵も設置され、きれいな遊歩道になっていた。もっとも当時、ここを通行する人はほとんどいなかったはずで、放課後の子どもたちの遊び場と化していた。

柵を挟んだ側の道路は坂道になっていて、遊歩道とは段差がある。

昔はこの段差を利用して鬼ごっこやケイドロをした。走ってる間にどのタイミングで下へ飛び降りるか、とか、それくらいのことだけど、それだけで十分遊びになったのだ当時は。もっとも、そういうことをするから車の前に子どもが飛び出してきて危ない、と問題になったことがある。柵が作られたのはそういうわけだろう。

「遊歩道」という名目にはなったけれど、いまの子どもはここで遊ぶのだろうか。あんまりわくわくしないな、と俺は思う。遊び場として与えられた場所で遊ぶんじゃなくて、普段はなんでもない歩道が遊び場に変わる、ということがおもしろかった気がする。俺は公園で遊ぶのは嫌いだったけれど、歩道で遊ぶのは好きだった。

町は区切られていく。

人間の意図で埋め尽くされていく。

ところで右手中ほどに見えるのはソーラーパネルで、申し訳程度の間隔でぽつぽつ並んでいて邪魔くさい。あんまり子どもを遊ばせたくないのか、と思うけど、この周囲には他にも意図がよくわからない公共事業の産物があって、何を考えているのかわからない。現代アートなのかもしれない。

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田んぼが焼かれていた。ここはよく生ごみが捨ててあった。子どもの俺はそれが肥料だとわからなかったので、変なの、と思っていた。昔はここでおたまじゃくしが干上がっていたり、すぐ近くの用水路に蚊柱が立っていたことが印象に残っている。稲がなっている様子は不思議と記憶にない。

となりの区画は駐車場になっているが、かつては2階建ての木造のボロアパートがあって、俺が隠れ家に使っていた。

小学校では4年生になると強制的にどこかの部活へ加入させられた。文化部に入るのは本当にわずかで、運動部でないやつは軟弱だ、という空気があった。俺は球技が嫌いだったから、泳ぎが下手にもかかわらず水泳部に入って、早々に部活へ通わなくなった。サボった。

「水泳部が君たちを選んだんじゃない。君たちが水泳部を選んだんだ」が当時の顧問の口癖で、そういうのも苦手だった。

ただ帰りが早いと部活をサボったんじゃないかと親に心配されるから、どこかで時間を潰さないといけない。そんなときここのアパートのガスボンベ置き場の奥に隠れ、ランドセルを机代わりにして、宿題プリントを埋めたり教科書の先を読んだりして時間を潰した。

学校のプールで泳いできたはずなのに水着が濡れていないと怪しく思われるから、どこかで水着を濡らす必要があった。その点もここは便利で、アパートの共用蛇口があった。100mも歩けば公園があって水場も使えるのだけど、通学路を外れてしまうから行かなかった。ルールを守ろうというわけではなく、誰かに見られている気がしていたのだと思う。親父の書棚からこっそりエロ本を読むときも、監視カメラが仕掛けてあるんじゃないかと気が気でなかったし、読み終わったら指紋を拭いた。某少年探偵漫画に影響されての行動だった。

余談だが、この手前の側溝も昔はふたがなかった。そんなことばかり覚えている。

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分かれ道に並んだ柿の木はなぜか印象に残っている。

誰のものでもなさそうに平然と並んでいるのがおもしろかったのだろうか。自販機と同じような顔をして並んでいる。多くの実は鳥についばまれてぐずぐずになっていた。すずめが数羽、枝に止まっていて、東京じゃあまり見ないよなと思って近づくといっせいに逃げ出した。

そういえば小学生の時分は、この実を柿だと思った記憶がない。スーパーに並ぶつやつやした柿とこの実はまったく別物だという認識で、これはただ「いろんなところに生えてるまずそうな実」としか思っていなかった。

「誰のものかわからない、正体もわからない実が、よくわからない場所に生えて、よくわからないまま鳥に食われている」というのはなかなかシュールで、そのアナーキーな感じに憧れていたのかもしれない。何の意図も主張せずただそこに立っていてくれる柿の木は、おじいちゃんみたいで素敵だと思う。俺が生まれた時にはおじいちゃんは死んでたけど。f:id:johnetsu-k:20140110202309p:plain

あまり葬儀場には見えないきな臭い建物は、不良のたまり場と噂されたゲームセンターだった。事実、警察が定期的に入った。

俺の母校は荒れていたらしい。俺が中学に進学したときには生活指導に燃える教員が各学年で活躍していて、まったく荒れていると思えなかったが、20年前には廊下をバイクが走っていたそうだ。

小中学生はゲーセンへの出入りを禁止されていたが、4つ上の班長は小学生のときから出入りして問題になったらしい。ソフトボール部の教師がよくここを監視にやってきて、全校集会でこのゲーセンを悪玉のように名指しした。

駐輪場にはいつも大きなバイクが並んでいて、ここを歩くときは中を見ないよううつむいて、足早に通りすぎた。でも一回くらい入ってみたいよね、という話題はおとなしいグループではよく上がった。平凡な道の途中にぽっかり穴を開けた、異世界への扉のような扱いだったと思う。

はじめて中に入ったのは俺が高校を卒業してからだった。

そのころ経営状態は末期で、ゲーム機は敷地の3分の1ほどしか設置されず、そのほとんどはネット麻雀の筐体だった。臭い立ちそうな服を着た男性が数人、煙草をふかしながら張り付いていた。置かれていない側は照明が消えてうす暗く、トイレの前だけぽつんと明かりがついていた。

 ここが衰退したのは結局、大手資本のゲームセンターが相次いで近くにできたこと、不良の供給が絶えたこと、単純に経営努力が足りなさそうだったこと、その全部だろう。

ゲームセンターは学校の外れ者がたまる場所でも、異世界への扉でもなくなった。新しいゲームセンターは安全で、誰でも入れるような場所になった。

だけど誰でも入れるような場所に入れるのは、誰でも入れるような場所に入れる人だけなんだ、と思う。地球はひとつになったけど、はずれものは出てくる。

かつてここに集まっていたような人たちは今どこへ行くのだろう。少し歩いて、俺はTくんのことを思い出した。

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 実家の裏の畑をはさんで向かい側にTくんの家はあった。Tくんは俺が5年生のとき入学してきた1年生で、中学2年のとき河川敷でホームレスを殺した。

Tくんはどぶ板に浮かぶ長屋、といった風情の昔ながらのアパートにおばあちゃんと二人で暮らしていた。中に入ったことはないけれど、建屋全体からは猫のトイレの臭いがした。

Tくんは学校に行くのが好きではないらしく、いつも朝の集合時間に遅れた。歩くのも遅く、よくおいてけぼりにされた。 

6年生になって、俺は通学班の副班長を務めた。副班長は班の最後尾をみはり、だれも遅れないよう進捗を管理する。悪ガキのリーダー格だった班長は、子分を連れて勝手に先へ行ってしまうため、尻拭いは俺に任された。

俺は、彼と、よく笑う太った2年生の子と3人で、毎朝始業のチャイムが鳴り終わるギリギリのタイミングで滑りこむように登校した。

通学路になっているアスファルトの道から用水路を挟んで向こう側、舗装されていない土の道が俺たちの登校ルートで、甘い蜜を吸える小さな花がぽつぽつ咲いていた。こちらにはガードレールがないため、用水路に落ちてしまわないようゆっくり歩いた(そういえばこのガードレールの下も昔はコンクリートで固められていなかった。ここは向かい側と同じように草むらになっていて、落ちていたタバコの燃え殻を吸った記憶がある)

Tくんはそら豆に手足をつけたような子で、ほとんど喋らなかったし、あまり表情を変えなかった。彼の笑顔はちょっと記憶にない。無愛想というよりどう反応していいかわからない、戸惑ったような顔をいつもしていて、写真に残る子ども時代の俺とちょっと似ていた。

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途中の歩道橋は難所のひとつだった。

小学校に入ったばかりのころ、俺は階段を昇降するたびいちいち両足を揃えるクセがあって、どんなに急いでも人の1.5倍は時間がかかった。

当初は俺が降りてくるまで、班のメンバーは俺を待っていてくれたが、そのうち置いていかれるようになった。2年生になっても事情は変わらず、下級生においていかれたのはさすがに恥ずかしかった。交互に足を出せるようになったのは3年生からだったろうか。慣れると階段を一段飛ばしに昇ることもできて、そんなことでうれしかった。

Tくんは俺よりは階段を昇るセンスがあったけれど、そもそも歩くのが苦手なのでやっぱり遅い。歩道橋に着くころには大概始業ギリギリで、俺が一段とばしで先に上へ登って早く、早くとせかした。昔は俺が置いていかれる側だったのに。

歩道橋を渡ると、俺は彼ともう1人の2年生、2人分のランドセルを抱えて、下駄箱まで競争した。毎度、遅刻ギリギリではあったけど、実際に遅刻したことはなかったと思う。

Tくんがいい子だった、という記憶は特にないけれど彼と登校する時間はたのしかった。6年生のころには俺はもうへらへら笑える人間になっていて、Tくんもそうなる道はあったんじゃないか、といまでも思う。

Tくんと関わったのはその2年間だけで、数年後、ホームレス殺害で話題になるまで彼のことは忘れていた。

ローカルニュースで話題になったその事件は犯人グループが逮捕されると2ちゃんねるにもスレッドが立ち、当日のうちに加害者の3人組の本名も割れていた。書き込みのなかに彼の名前を見つけた。

主犯格の男は20代後半だった。当時14歳のTくんとはかなり年齢差があって、報道では、命令されてやったのか、どこまで主体的に関わったのか、少年に殺意はあったのか、ということが問題になっていた。真相は彼らにしかわからない。「殺すつもりはなかった」というフレーズがちょうど流行していた時期だと思う。

彼がこの事件の犯人だと知って、あまりショックではなかった。納得に近かったかもしれない。

俺が小学生の頃は神戸で起きた酒鬼薔薇聖斗事件(これも14歳の犯行だった)あたりから「キレる少年」が話題になり「おとなしい子ほどキレると怖い」とテレビが騒ぎ立て、「自分も絶対こうなるんだ」と思って、怖かった。当時の俺が憧れたのは、何かの間違いで人を殺してしまうとかつまらない罪で、全国で指名手配されて、暗い屋根裏にかくれ誰とも交友関係をもたず、コンビニ弁当を食べて一生を過ごすことだった。テレビでそんなドキュメンタリー番組がやっていて、絶対にそっちの道へ転がり落ちるような気がして怖かった。

だからなのか、Tくんの件を聞いたときも「やっぱり…」と思った。俺もああなっていたかもしれないし、たぶん俺と似ていた彼は、あちら側へ足を踏み外してしまった。それはおかしなことではないと思う。凶悪な人だけが凶悪な犯罪をするなら話は簡単で、彼はふつうの子どもだった。

彼と自分の何が違ったのか、よくわからない。俺はたまたまホームレスを殺さずにここまで生きてきて、Sくんはそうじゃなかった。それだけのことで、ただ俺の方が少しだけ用心深かったとか、少しだけ勉強ができたとか、付き合う人間に恵まれたとか、彼の頃には少しだけ町が変わってしまったとか、たぶんその程度のことだ。 

俺は運が良かったんだ。

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通学路を少し離れるとどぶにゴミが浮いていて、不思議とほっとした。

なぜ落ち着くのかよくわからない。ただ俺が小学生だった頃、どんなに決められた道の中でも、どこかに必ず足を踏み外していい場所、逃げ場所があった。そういう場所で息継ぎをして生きていたのは俺だけじゃないと思う。 

どぶには知らん顔をしてゴミが浮いてる。

街は整備され、きれいになった。側溝にふたができて、危ない道には柵もできて、彼らは知らん顔をしてくれない。ここを踏み出すな、越えたらお前の責任だ。訳知り顔で諭しておきながら、遊んではくれない。人間は顔を見せず、コンクリートの下から言葉もなく命令する。

街は命令形で埋まっている。たぶん俺が育ったときから、それはそうだったのだ。

俺がいま小学生をやり直したら、まともに育ってないかもしれない。どこかで道を外れているかもしれないし、外れることにすら失敗して、窒息しているかもしれない。

最近自殺した友人は息苦しいどころか、本当に過呼吸症候群だったけど、彼女が横になりながらビニール袋を口に当て懸命に呼吸している姿を渋谷駅の改札前で見ながら、なんだか俺は安心した。ちゃんと息を吸おうとしているんだから立派なもんじゃないか、と思ったのかもしれない。普段の彼女よりちゃんと生きているように思えた。

道を少し離れれば、汚いどぶにゴミがぷかぷか浮いてる。こういう場所が残っていて、ほおっておかれるのは悪いことじゃないように思う。俺みたいなゴミでも生きてていいかもしれない、なんて安直に結びつけるつもりはないけれど。

*** 

歩いていると鼻唄が出てきた。実家では鼻唄がよく出て、楽しそうだねえと母に言われる。

本当に楽しいのが半分、もう半分はきっと、からっぽを埋めるためなのだと思う。自分と街、あるいは自分と家族との間にある、からっぽを埋めるため。きっと俺は鼻唄の分だけ、少しだけ世界から浮いていて、こうして浮いているのが嫌いじゃない。未来からやってきたみんなに人気の猫型ロボットはいつも3mm地面から浮いているのだ、なんて適当なことを言って、また少しだけ息を吸って、俺は育ってきたんだ。

俺はここで育ったのだと思う。間違いなくここで。