ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

おもしろいこと言おうとするとスベって真剣に話すほど笑われる話に近いやつ

おもしろいこと言おうとするとスベって真剣に話すほど笑われることについての話になればいいけど酔ってるのでわからない。

だいたい昔からもう自分のことがおもしろいと思えない、もちろん何の因果かフォロワーだって7000人もいるわけでまったくおもしろくないわけじゃないことは重々承知なのだけど、純粋におもしろさで勝負しようと大喜利できる人とは発想が違う、かなわねえやと思う。

だいたい俺は、自分の経験とか感想もネタにすれば共感してもらえるけど、逆に思ってることをきちんと伝えようとすればするほど、それはおかしいだの付いていけないだの言われてしまって全然納得がいかない。俺はこう、誰よりもおもしろくありたい、パンクに生きたい、わけではなく、ただふつうに生きていたいんだと思ったのはつい最近で小市民だと思う。

ただでも「ふつうに生きたい」って言葉はいま酒が入ってるから書いたけれどしらふだと頭が受け付けない、ウソ、他人事のように思える。「ふつうに生きたい」ってフレーズと俺との間には冷ややかな距離があって、俺はそれを埋められないように感じる。「ふつうに生きたい」なんて言わなくても自分は現に、生きているから、こんなふうに生きたい、あんなふうに生きたいと余分な言葉を発すれば瞬間、自分は自分でないものに衝き動かされて、遠くへ流されてしまう気がする、のかどうか、そもそも距離の比喩で語るのがいいのかどうか、わからないけれど。

「~したい」という文法は頭のなかでとりあえず成立して、成立した言葉は自分と結びつかなくて、言葉が言葉のまま、意味もなく宙を漂っている。「俺」と「ふつうに生きたい」がまったく異質な、マヨネーズと水みたいに溶け合わない存在に思えて、自分の頭から出てきたように感じられなくて、どうしようもないから笑ってしまう。言葉に食われないように笑うんだと思う。俺にとってお笑いってのはそういうので、道を極めるとかそういうのじゃなく、格闘技で言えばK-1とかプライドじゃなく護身術とかプロレスの類なんだと思う。K-1ってもう古いのか…?

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話を戻して「~したい」という文法はそもそもどこから出てきたのか。

言語がまだ存在しなかったころ、身振り手振りで意志を伝えていたころ「~したい」なんて表現はなかったはずで、生きていれば食べるし寝るときは寝る。寝たい、食べたいなんて動物は言わない。

英語の「want」の語源は古代ノルマン語の「欠けている」らしい。世界中の多数の神話は「欠如からの回復」を原型としているなんて話を聞くと、人間は言葉を手にしてはじめて自らの欠損に気がついてしまった、だからどの社会にも欠損を埋めるための神話は存在するのだ、ってこの話はわかりにくいから飛ばす。でもいい話だと思う。

手話で「~したい」は「好き」で表すらしい。「あなたに会いたい」は「あなた」「会う」「好き」と順にジェスチャーを並べる。あっいいな、と思う。これだったら俺の近くに来てくれる気がする。

「あなたに会うのが好き」と「あなたに会いたい」は日本語にするとやっぱり違って、「あなたに会うのが好き」と手振りで伝えられた側は、「そうですか」と同意するだけでもいいし「私も会いたいです」と答えれば両思いだとわかる。「あなたに会いたい」と自分の意志を押し付けることなく、解釈を委ねて応答を待つ。

言葉って共同作業で、受け手と送り手が協力しあってはじめて意味をもつ。当たり前のことだけどそれ自体で完結した言葉なり文章はなくて、相手の存在なしには言葉は存在しない。

「ふつうに生きたい」って文法は自己完結していて、俺の入り込む余地がないんだと思う。フレーズは俺を拒んでいて、俺もそうだから他人のように思える。そのくせ言葉を発したのは自分で、全部間違ってるから笑ってしまう。

俺がやたら言葉がどうとか言い出すのは、良い文章が書きたいとかそういうことじゃなくて、ただその距離、断絶をどうにかしたい、これ全然まとまんねえな。まともに言葉が使えないという劣等感しか無いんだ俺はここで基本的なことを確認すると。

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文章なんて書きたくない、と思うことはほとんどで、いつも嫌気がする。一番嫌いなのが文章かもしれない。ただ酒を飲んで好き勝手書いてるとき、笑ってもらえたとき、それから言葉が、ほんの少しだけでも、俺に近づいてくれたときは、やっぱり好きだったりする。俺もしゃべっていいのかもしれない、世界に触れてもいいのかもしれないと思う。その瞬間だけだ。

そうじゃなかったらへらへら笑ってるだけで、俺は誰からも嫌われたくないし、他人と関わるのは怖いし、信号はちゃんと守る。ただ生きるだけでいい、俺は、そう思って、そう思えるために、言葉との、他人との距離をなんとか埋めたい。生きるのはそういうことで、その距離をもう一度埋めるために言葉は存在してほしいと思うけど何の話だ?

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お笑いできる人はすごい、って話だったか。あんまり書かないけどお笑いや大喜利のライブなんかは割とよく行く(このまえのカス動画祭もよかった)。ツイッターでもお笑いにストイックな人たちが多数いるのだけど、本当にすごいと思う。俺はやっぱりヘラヘラ笑うようになってから生きやすくなったせいか、笑いってのはその人、その場所、その状況と調和するためにあって、だから自分で何かおもしろいこと言おうとしても、無難なことばかり言ってしまう。かあるいは自分のことを相手が知ってる前提で、悪ノリ・キャラ芸・内輪ネタばかりやってしまう。それはそれで楽しいし、いいんだけど、純粋におもしろさで勝負しようとする人たちみたいな真似ができないから、やっぱり憧れる。

でも影響されて自分もそういうのやろうとすると絶対スベるからなマジで、なにがアルファツイッタラーだよクソ、俺なんてまったくおもしろくない、舞台に上がる資格はないから犬小屋でひっそり死のう、みたいな気持ちに最悪なる。ダメだもう酔いが冷めてきてるな…。

だからあれだ、ちゃんとおもしろいことができる人を尊敬してる話に戻します。「尊敬」って言葉は俺はまったくピンと来てなかったけどでも、おもしろい人は本当に「尊敬」って言葉が出てくるから、尊敬してるんだと思う。こうやってひとつずつ自分が使える言葉を覚えていくのが人生なのかもしれない、と半分だけ酔った頭で書いてるとそういう気がしてくるから最高。やっぱり酒飲んで書く文章が最高。

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何が最高だよ、頼むからちゃんとしてくれ←酔いが冷めた直後の未来の俺がタイムスリップして書いたやつです。

で、話は変わって今週の土曜は「大喜利天下一武道会」というイベント行ってきます。

http://www.oogiri-1.com/archives/35682748.html#more

大喜利ではもっとも大規模な大会らしくて、去年はじめて行ったけど人いっぱいいたし意味わからんくらいおもしろかった。暇な方はぜひ。あれだけストイックな感じのする大喜利界隈でも「最近の大喜利界は内輪に向きすぎてるんじゃないか」みたいな声があって、逆に大喜利にまったく触れてこなかった人に見て欲しいなんて聞くんだけど、難しいもんですね…。

直泰さん、まるおさん、ぼく脳さんなどフォローしてる方々も出るので俺は客席で応援してます。投票は純粋におもしろかった人に入れるけども。

あとこの前、直泰さん(盗撮魔)に大喜利やりましょうよって誘われて嬉しかった。俺はどうも発想はぶっ飛んでるらしいけれど、そういうのを人に見せたくない、目立ちたくない一心で生きてきた人間だから向いてねーって思ってんだよな。でもこの前、居酒屋で生大喜利をはじめてやって、全然おもしろい答え出せなかったけどボケを口にする瞬間は存外と楽しくてよかった。機会があったらやってみたいな~、といったところで酔いが冷めて真顔になってきたので終わります(真顔)。