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人間とコンピューターはどう違うのか

 「人間とコンピューターの知能はどうちがうんだろう」みたいなツイートを見かけたので、考えたこと書きます。

人間とコンピューターはどう違うのか

一言で言えば「アナロジーを理解できるかどうか」だと思う。コンピューターはアナロジー(類推・比喩)を理解できるのかどうか。

そもそもアナロジーの語源は「ana(反・類)+log(ロゴス=言葉・論理)」で要するに論理でないもの、論理に似たもの、ということになる。「アナログ世界の概念を、デジタル世界の申し子ことコンピュータが理解できるのか」という疑問を軸に以下考えます。

たとえば「初音ミクが歌う」という命題。

言うまでもなく初音ミクが発する音は(藤田咲さんの声を元にしてはいるものの)人工的に調整された電子音であって、その機械音のつながりを「歌う」という動詞で表現するのは、機械の動作を人間の行為に読み替えたもの、一種のアナロジーである。

現象だけ見れば、カエルや鳥の鳴き声のほうが、発声の仕組みだって人間に似ているのだから「歌う」に近いような気がする。もちろん「かえるの歌」を例に出すまでもなく、鳴き声には「歌う」という言葉も当てられるけれど、基本的には「鳴く」を使うだろうし、逆に「初音ミクが鳴く」「初音ミクが鳴る」とはあんまり言わないはずだ。

初音ミクに「歌う」という動詞を使うのは、単なる電子音に人間の歌声を見出しているから、初音ミクを人間のアナロジーで理解しているからであって、予備知識もないアフリカかどっかの未開の部族に初音ミクの楽曲を聞かせたら、これは歌だとは思わないだろう。

 

「いや『歌う』ってのは言葉に聞こえるかどうかじゃないの?」というのは間違いではないけれど、不正確だと思う。

たとえばどうぶつの森に登場する「とたけけ」という犬のキャラクターは、メッセージ送りに使われる合成音でメロディーを作って歌うのだけれど、言葉には聞こえない。にもかかわらず、合成音の連続を聞いて「とたけけが歌っている」と考えてわれわれは何の不思議もない。

(参考:けけラバーズ http://www.nicovideo.jp/watch/sm18689932)

これはもちろん「とたけけというキャラクター(人間を模したもの)が音を出している」とわれわれが考えるからですね。その予備知識がなければ、これを歌とは考えないと思う。音とキャラクターが結びつくから「歌」と言えるわけです。

「歌う」という言葉が採用される基準は、音の内部にあるのではない。音の内部に基準があるのならば、音を細かく分析して、分類することで「ここまでは歌で、ここからは歌じゃない」と区別できるけれど、そうじゃない。

問題はむしろ音の外側、「受け手が人間のアナロジーでその音を捉えるかどうか?」という音の外側の文脈にある。まあボーカロイドだって「Vocal+oid(~っぽい、~状の)」が語源なわけで、もろにアナロジーですね。

当たり前のことばっか書いてしまった気がする。けどまあ、それは気にしないとして、コンピューターにこういう課題を与えたとしよう。

 

「ある音を再生して、歌であるかどうかをコンピューターに判断させる」

 

これがナンセンスであることは、なんとなくわかると思う。上で見たように、音の内部には「歌」と判定する手がかりはない。「歌といえるかどうか」は人間の側が判定することだから。もう一歩踏み込めば「ある人間が、その音に人間の姿を見出してはじめて『歌』と呼ぶことができる」から。

かえるの鳴き声だって、聞いた人間がその音に人間の姿を見出せば「かえるの歌」になる。しかし「まったく同じ音なのに、あるときは鳴き声に、あるときは歌になる」というあいまいさをコンピューターは理解しない。ここが人間とコンピューターの違いだろう。

そもそもコンピューターは「歌う」という概念を使えない以前に、使う必要がまったくない。ある現象に人間を投影する動機が、アナロジーを用いる理由が何もないからだ。

古来、人間はアナロジーを用いて現象を理解してきた。自然現象を人や動物の形をした神様にたとえ、神様の機嫌をとることで自然と調和しようとした。そうすることで、世界を自分と結びつけ、理解していた。

トーテミズムのような原始宗教からキリスト教までその構造は変わらなくて、宗教を理解するには、その宗教がどういうアナロジーを採用してるのか、という面に着目すればわかりやすいです、というのは完全に余談。

 

で、かたやコンピューター。

コンピューターが最高のパフォーマンスを発揮するためには、アナロジーはむしろ邪魔である。「初音ミクの音は機械音であり同時に歌声である」=「Aは同時にBである」というロジックはややこしいだけで、AはつねにAとして解釈される方がシステムにとっては都合がいい。

まあアナロジーってのは言うまでもなく詩でありユーモアの源泉ですね。「~のようだ」という形式で、まったく違うものを結びつけてしまう。それができないのがコンピューターで、非人間的って思われるのはこういうことでもあるんだけど。

で、アナロジーと言えば偉大なる知の巨人、グレゴリー・ベイトソンなんですよ。ベイトソンの草の三段論法の話をします。

草の三段論法

これも突っ込むとめちゃくちゃ長くなるので簡単に。

ふつう三段論法というと、以下のものを連想すると思う。

 

・人間は死ぬ

ソクラテスは人間である

ソクラテスは死ぬ

 

これがアリストテレスの唱えた有名な三段論法。「命題論理」と呼ばれるロジックですが対して「草の三段論法」とはどういうものか。

 

・人は死ぬ

・草は死ぬ

→人は草である

 

これです。こういう論理もある。

「人は草のようである」と書けば、これはわかりやすく比喩(メタファー)ですね。修辞技法であるけど、論理とは呼べない。ところがベイトソンによると、動物のコミュニケーションとはすべてメタファー(身振りでメッセージを伝える)であり、人間のコミュニケーションだってそもそもはメタファーから生まれたものである。詳しくは著作を読んでほしいのですが、なんとなく理解できるのではないでしょうか。生物のコミュニケーションはそもそも、草の三段論法の応用から発展してきたものである。言語自体が現実のメタファーじゃん、って話もあるんですけど、それ言い出すとまたややこしくなりますね。ここではあんまり考えないでください。

 

で、そして、(西欧由来の)学問の歴史とは、ざっくり言えば「草の三段論法がソクラテスの三段論法に潰されるまでの歴史」です。

そもそも三段論法の祖となったアリストテレスだって、草の三段論法を排除したわけではなかった。それどころか彼の有名な「目的論的世界観」とは「石には石の生きる目的があり、馬には馬の生きる目的がある」という世界観、人間のあるべき姿をあらゆるものに投影した世界観にほかなりません(雑なまとめ許してくれ)。

アリストテレスはこの世界観を下敷きに、論理的な思考を積み上げることによって真理に到達しなくちゃらない、と言った人ですね。彼には「弁論術(Rhetoric)」という著作もあるように、アナロジーなりレトリックの力をかなり重視していた。

 

で、彼の生きた古代ギリシア時代、修辞学を教える教師は、一般の教師の約6倍の給料をもらっていたそうです。アナロジー的な思考はそれくらい重要に見られていた。

これが大きく変わるのは「近代哲学の祖」ことデカルトの時代。デカルトの登場によって、大学ではデカルト思想が空前のブームとなる。修辞学の教師は、哲学の教師のなんと6分の1の給料しかもらえなかったそうです。それくらい地位が落ちてきた。

当時痛烈なデカルト批判を展開したヴィーコという学者がいるんですが、この人は貧しい家に生まれ育った修辞学の教員で、彼の論文は当時ほとんど無視された。彼が大学に雇用されたのも「難解なデカルト思想を理解できる貴重な人材だったから」というのは皮肉ですね。

ヴィーコは近年、サイードなんかが取り上げたことで発見された人ですが、結構おもしろいことを言ってる。歴史学をやりたかった人みたいで、これからの時代の新しい学問として歴史学の重要性を提唱したのですが、科学的合理性が熱狂的に迎えられた当時では注目されるはずがなかった。歴史なんて過去の出来事だし、現在とはまったく違う。過去を現在にあてはめるな、そんなのくだらぬレトリックである、と。数値で表現された、客観的なデータのほうが遥かに正しいと信じられ出す時代だったんですね。

ヴィーコは最初から最後まで不遇の人でした。誰にも理解されないまま死んでいったとか。

 

それはともかく、いま修辞学はどうなってるか。死にました。

学問分野のどこにも存在しない。「修辞学部」なんてのは存在しないですね。

文学部のなかに飲み込まれてしまったようだけれど、結局のところ文学部も他のアカデミズムと同じ、近代科学的な方法論(客観的なデータ主義)に依拠せざるをえない事情もあって、修辞学はもはやその存在すら忘れられてしまった。修辞は「学」ではなくなったのです。

こうしてソクラテスの三段論法は、草の三段論法を学問の世界からみごと駆逐した。その延長線上に、アナロジーを排したプログラミングの思想がある、と考えると整理しやすいかなと思います。

このへんはもっと字数かけてやると面白いんだけども、非常に面倒くさい。学問の歴史ってのは、アナロジーの歴史なんですよ。これどうして誰もこう整理してくれないのかな、って疑問なんですけど、まあいいや。

 

最後に参考文献を上げます。これ読んでくれりゃ俺も言うことない。

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 ベイトソン入門としてはこれが一番いい、というか著作が三冊しかないんだけど。

草の三段論法が収録されてるのは遺作となった「天使のおそれ」ですが、これ絶版なんですよ。なんたることか。

アナロジーを学問の領域に取り込んでる学者って本当に少ないんですけど(ロジックが破綻してしまうから)この人は法外にロジカルです。海外の学者の本ってだいたい頭に入ってこないんだけど、ベイトソンはすげえおもしろかった。文章も上手いしサービス精神も満載で読んでて楽しい。

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

 

 本稿のテーマドンピシャで、ベイトソンに至るまでの認識論の歴史(哲学から科学まで全部!)をザザーッとまとめた本。めちゃくちゃおもしろいのに絶版。なんとかしてくれ。

訳はなんと柴田元幸で、さすがに読みやすいです。

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

蓮と刀―どうして男は“男”をこわがるのか? (河出文庫)

 

 西欧近代の学問史をフロイトを軸にばっさり切ったのか何なのか、一言で内容をまとめられない奇書。初期の橋本治はめちゃくちゃ前衛ですね。本書は文体論であり、近代知識人批判であり、根本的にはホモ論であるという。

これも絶版ってどういうことだよ。Amazonで古書は残ってるので今のうちにぜひ。

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【追記1】

アナロジーって近代思想の盲点なので、Googleの検索システムが進化してもそういうアナロジー的な知のネットワークはむしろ失われる一方では?みたいな発想に発展するんですけど、全然書ける気がしないのでよろしくお願いします(Google関係者各位)

【追記2】

草の三段論法を連発するのが「狂人」と呼ばれるとベイトソンは説明しています。狂人とはアナロジーの基盤が安定しない人、あるいはアナロジーが狂ったまま固定されてる人で、前者は話し方が分裂気味になるし、後者はあらゆることを毒電波で説明しようとしたりする。これも面白くて、狂人ってのは本当に相対的な問題でしかないです。発達障害とかメンヘラだとか、そういうのは全部アナロジー強者の側の言葉だ(良い悪いは別にして)。