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いきなりはじめる短歌入門  題詠編

短歌ってどこがいいのか理解できない。何を題材にすればいいかわからない。理由はわからないがとにかくキモい。そう思ってやまない短歌ビギナー各位は「題詠」という遊びからはじめてみるといいかもしれません。 題詠には世界のすべてが詰まっています。

題詠とはなんぞや?

読んで字のごとく、決められたお題を短歌の中に詠み込むのが題詠。

実例を見たほうが早いですから、さっそく紹介していきましょう。

お題は「つるはし」。集まった短歌は以下の4首。 

お題:「つるはし」

 

(1) 柄にプロ野球する人やったじいさんの『8』てほったつるはしもってる

 

(2) ツルハシ魔跋扈(はびこ)る街の夕暮にTVクルーが捜す順光

 

(3) 群れなして鳥と時代は過ぎ行けり鶴嘴島に初雪が降る

 

(4) つるはしが錆びないように人いきれ街、、雨、、全部蒸発

 

引用元:稀風社配信第5回記録

 

以上の4首から1つ、もっとも優れていると思うものを選びます。そのあと選んだ理由等についてみんなでわあわあ論じ合うというのが題詠のざっくりとした流れ。

みなさんも少しだけスクロールする指を止めて、4首の中から1つ、よいと思う歌を選んでみてください。そのさい「なぜ私はその歌を選んだのか?」と他人に説明できるような理由も考えてみましょう。

 

…さて、こう思った方もいるかもしれません。何をもって「良い短歌」というのだ?どういう基準で選べばいいの?理由はわからないがどれもキモい、等々。

そんな貴殿に朗報です。題詠はふつうの短歌と異なり、ちゃんと押さえるべきポイントがあるのです。そのポイントとは…

「お題をうまくいじれているか?」

はい、お題に注目してください(題詠なので)。

今回のお題は「つるはし」です。つるはし。つるはしを知らない人はおそらくあまりいないと思われますが、つるはしを日常的に使っている、毎日のように目にしている人は日本人の1%にも満たないのではないでしょうか。

おじいさん、おばあさん世代ならばともかく、われわれ現代っ子の生活からは遠くはなれてしまった「つるはし」は、言うなればクラスの中で存在を忘れられてしまった影の薄い子。「ああ、クラスにそんなやついたなあ…」という、その程度の存在感です。そんな一見さえないやつだけれど、話してみると実はすごくおもしろい。岩も掘れれば人も殴れる。個性的で魅力のある子である。

 

さて、そんなポテンシャルを秘めた地味っ子をわれわれの手で、どのようにプロデュースするのか。どの部分をいじってやれば、その子の魅力が引き立つのか。31字という厳しい制約のなかで、その子がいちばん輝けるようスポットライトを当てること。それこそが題詠の醍醐味であり、各人が磨きをかけた技を競い合うスリリングな頭脳ゲームたる所以でもあります。

ですから題詠においては、短歌の良し悪しはひとまず置いておいて、「つるはし」がどう活用されているのかにご注目ください。もっとも魅力的なつるはしさばきを見せているのは、はたして誰なのでしょうか…?

 

~鑑賞編~

では実際に、1つずつ見ていきましょう。

 

(1) 柄にプロ野球する人やったじいさんの『8』てほったつるはしもってる

 

「これが短歌…?」と面食らうかもしれません。音を数えると「7・7・5・6・8」。定型を外れているし、「白鳥は悲しからずや…」的な抒情感もなければ、「7月6日はサラダ記念日」的なロマンチックさもない。最後は「つるはしもってる」という「だからどうした」感のあるフレーズで締めくくられています。

しかし思い出してください。今回のお題は「つるはし」です。ポエミーな要素はほとんどない。俵万智は絶対につるはしを持ちませんし、西野カナもつるはしは持たない。ざっくり言ってしまえば、つるはしは「ドカタ」のにおいを濃厚に感じさせる、汗臭いアイテムです。その意味でこの作は、歌全体のぎこちなさを含め、つるはしから放たれるドカタの匂いというか土くささを素直に活かそうとしているような印象を受けますね。

 

ところでこの短歌、小さな子どもが話している姿を思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。おそらくは関西在住の、元気な女の子。そう読み取れるとしたら理由はおそらく、この歌の変わった構成にあります。

「柄にプロ野球する…」という字余りかつヘタクソな語順で切り込む唐突さ、関西弁特有の口語感、「プロ野球する人…」という、いかにも野球に興味のない子供が聞きかじりで野球を語っているような言い回し、「つるはしもってる」というだからどうしたんだよ的な身も蓋もなさ。女の子に思わせるような仕掛けになっています。

 

一読ではつたないようですが、文体の操作だけで女の子の姿を連想させるその手腕はテクニカルで、さすがは東のアルファ短歌ツイッタラーこと俺というところでしょう(残念ながら25歳の会社員男性が詠んだ歌でした…)

 

それはともかく短歌に戻ります。

自分がプロフェッショナルとして活躍してきた証明たるナンバー「8」を、生活の道具であるつるはしに刻み込んでいるおじいさんの誇り(「つるはしを持つプロ野球選手」というのも、世代特有でしょう。「プロ野球選手」ではなく「プロ野球もする人」という感じ)。そしてその孫娘が、野球はよく知らないんだけど、プロ野球選手だったおじいさんをとにかく自慢したいがために、じいちゃんの背番号入りのつるはしをわたしはもってるんだよ!と何ともかわいらしい主張をする。

 

時代から取り残されつつあるアイテムである「つるはし」は、われわれ現代っ子にとっては実感のわきにくいものですが、そこに誇らしいおじいさんの刻印が打たれることにより、今を生きる子どもの世代にもかすかにつながってくる。

その意味で本作は、現代におけるつるはしの立ち位置を素直に受け止めつつ、チャーミングにスポットライトを当てた、イレギュラーな見た目とは裏腹にかなり正統派な一首と言えるのではないでしょうか。

 

(2)ツルハシ魔跋扈(はびこ)る街の夕暮れにTVクルーが捜す順光

 

先ほどの短歌はお題を素直に活かした歌ということで最初に紹介したのですが、本作はがらっと毛色が変わる。つるはしの土臭さはどこへやら、カタカナからアルファベットから難漢字、とスタイリッシュな字面が並び、「無臭」という感じがします。

つるはしは「ツルハシ魔」という造語に使われています。「通り魔」の仲間でしょうか。ともかく「ツルハシ魔」は通り魔と同じように、この歌の世界ではひとつのトピックとして扱われるほど、おなじみの存在となっているようです(俺はちょうど「鉄コン筋クリート」のような、ちびっこギャングが街を攪乱する近未来SF的な世界を思い浮かべました)

 

ここで描かれている「つるはし」は、実物のそれというよりも、ゲームや漫画などフィクションに登場する記号としてのつるはしのイメージに近いですね。風来のシレンminecraftに登場する、フィクション世界における武器としてのつるはし。

が、ここでのツルハシには冒険の道具みたいなウキウキ感はあまり感じられず、むしろ冷たい、暴力の記号化された姿を感じます(ツルハシ魔だから当然だけど)。

 

「ツルハシ魔」たちが人を襲うのにつるはしを使う必然性はありません。手っ取り早く人を襲うならナイフや銃や金属バットでよいわけで、そこでなぜつるはしなのか? 理由はわかりません(書いてないから)。が、このフレーズにはなんとなく説得力を感じる。「ツルハシ魔」なる存在はいてもおかしくない気がする。

ここでのツルハシはどこかファッション感覚があります。匿名の人間たちがノリで暴力を振るっていて、その共通の証としてツルハシを、ファッション的な記号として使っている。

 

つるはしが完全に生活の場面から切り離されたとき、それは単純に、殺傷能力を持った鈍器としての性格しか示さなくなってしまうんですね。その性格を極端に誇張させ、ある種のパロディ世界を作り上げたのが本作ともいえます。

 

またツルハシ魔が蔓延しているというのに危機感もなく事務的に順光をさがしているTVクルーも含め、ここでは冷めた視線が徹底されている。この点、つるはしというガジェットを用いて人のつながりや暖かみを感じさせた1首目と対照的ですね。

 

記号化してしまったつるはしに生活の痕跡を刻むことで息を吹き込んだ前首に対比して、こちらの「ツルハシ」は現に活用されているにもかかわらず、つるはし本来の意義はもはや死んでいる。ただの鈍器としてのツルハシです。

前首が「つるはしのグッドエンド」なら、本作は「つるはしのバッドエンド」でしょうか。題詠だからってつるはし視点になる必要はないんですけども、しかしこれもまた、つるはしにとって一つのありえたリアリティを描いており、面白い一首になっているのではないかと思います。 

 

 (3)群れなして鳥と時代は過ぎ行けり鶴嘴島に初雪が降る

 

つるはしは漢字で書くと「鶴嘴」。ツルのくちばしを模した形からそう呼ばれたんですね。この歌は漢字とひらがなのバランスもよく、語調も整っており、一般的な短歌のイメージにもっとも近いと思います。

さて、この歌でつるはしは生の姿で使われず、「鶴嘴島」という地名の中に組み込まれている。鶴嘴島とは、つるはしの形をした島なのでしょうか。それともかつて数多くのつるはしが運び込まれた、鉱山地帯のような島なのでしょうか。上の句「群れなして鳥と時代は~」からは、かつて鳥群のように多くの人間が密集して生活を営んでいたものの、そのにぎやかな時代も過ぎ去ってしまったという印象を受けます。

 

そして下の句。その寂れた(錆びれた?)鶴嘴島に、今年も初雪が降った。

「初雪」という概念は、人間がいないと成立しないものですね。時間を1年単位で区切って、この雪は今年初めての雪だって騒ぐのは人間しかいない。暦が存在しなければ、初雪もラスト雪もないわけです。いまや人間の姿も消えさびしくなった鶴嘴島にも、天候を観測している人間が残っている。

そのさびしくなった鶴嘴島は、今や人々から遠く離れてしまった古い道具としてのつるはしのイメージとぴったりシンクロしている、と言えるのではないでしょうか。

「鶴嘴島」というオリジナル地名に賭けたのはかなり大胆ですが、結果的に非常にうまい活かし方になっているのではないかと思います。先の二首と比べても独特ですね。

 

先の二首は一見対照的ですけれども、どちらとも形骸化した、記号化したつるはしというアイテムをどのように世界の中へ放り込むか、という点に工夫を凝らしていました。片方は現実の世界、片方は近未来的なフィクション世界という違いはあれ、どちらも「つるはしのある風景」を詠んだ点には変わりがない。

ところが本作、生活から切り離されて記号化した「つるはし」という概念をそっくりそのまま記号として、「鶴嘴島」という地名に組み入れて扱っている。実体としてのつるはしを扱った先の二首とは発想が異なるわけです。このあたりはさすがに短歌のキャリアがもっとも長い、三上さんらしい手腕といったところでしょうか。

ここまで見ても、三者三様のつるはしさばきが見えますね。「題詠ってなかなかおもしろいじゃん」と俺は書きながら思ってしまいました。 

 

(4)つるはしが錆びないように人いきれ街、、雨、、全部蒸発

 

ラスト。問題作かもしれません。

「人いきれ」は人ごみの中で発する蒸気のこと。読点は雨が降っている様子をビジュアルで表現したものでしょうか。同時に読点は休符にもなっています。

 

この歌は最後に「蒸発(しろ)」と補うと、意味が通りやすくなります。つるはしが錆びないように水を含むもの、人いきれ、街、雨、すべて蒸発してしまえ、という祈り。大胆に読み込んでみると、ロストテクノロジーとして錆びゆく運命であるつるはしに、「お前はまだ錆びるな」と呼びかける応援歌なのかもしれません。(なんとなくBUMP OF CHICKENっぽいぞ、と思いました。ショベル、ランプ、車輪のようなバンプ感のあるアイテムとしてのつるはし)

 

前掲の3首は、つるはしがすでに古くなってしまったもの、形骸化したアイテムであることを前提にして扱っています。だからそこに現れるのは、すでに失われたものが放つ、(1)懐かしさだったり、(2)冷たさだったり、(3)寂しさだったりするのです。

しかし本作は、まだつるはしは役目を終えるには、己の身を錆びつかせるのには早いのではないか。記号として実体を失ってはいけないのではないか。そう呼びかけている点で先の3首とは明確に異なり、記号として扱いきっていない点が特徴で、これはかなり「熱い短歌」なのではないでしょうか。「近代的自我の芽生え」をつるはしでやったらどうか?という試みのようにも感じられます。

 

ところで本作、題詠の配信中に4人で感想を言い合ったとき、作者本人以外は意味をとりかねているところがあったんですね。これはどういう意味だろうか、と。確かにこの1首は説明不足で、意味が推測しづらいかもしれない。「つるはしよ、錆びるな!」という呼びかけは、少し唐突で面食らうような感じもします。

だけれども、実はこっちのほうがわかりやすいという人は確実にいると思うんですね。先に述べたように「つるはし」に対峙する姿勢は、前の三者と本作には違いがある。その大前提が異なっているからこそ、我々にとっては「なんだこれは?」となるわけで、本作のようなつるはし観が自然な前提としてある方にとっては、本作のほうがむしろ素直に読める。前の三者が「なんだこれは?」となるかもしれない。

 

題詠の醍醐味はこれなんですね。

「つるはし」という一見、つまらなさそうなアイテムでも、そこに個性を見出そうとすれば、各人の認識の違いが現れてくる。つるはし表現を通して、各人の見ている世界が見えてくる。

こうして人によって異なる視点を味わうことこそ題詠の目的、というかそもそも文芸表現とは、そのような楽しみこそ本領だと僕は思うのですが、その意味で題詠は、まさに文芸の王道だと思うわけです。題詠にすべてが詰まっているというのは、こういうわけです。*1

 

題詠はゲームである

というわけで、四者四様の「つるはし」の料理の仕方、おわかりいただけたでしょうか。こんなにバラエティー豊かな短歌が集まるのは題詠ならではだと思います。

 

ところで短歌と言えば与謝野晶子女史のように、己の体を流れる熱き血潮を情熱的に歌い上げるタイプの「自己表現」を連想される方も多いかもしれません。それも間違いではなくて、近代短歌と言えばそのような面も多分に含んでいます。

しかし、題詠はそれとは逆で、「自己表現をしてはいけない」。自分を殺して、つるはしを輝かせるプロデューサーに徹しなければならない、「つるはし表現」になっていなければならないのです。

 

なにせこれがふつうの短歌だったら、「つるはしカッコいい!」という趣旨の歌を詠んだところで「だからどうしたの?」で終わりかねません。しかし題詠はつるはしを輝かせることが目的ですから、そういうつっこみは野暮というもの。サッカー選手に対して「なぜ手を使わないの?」と聞くようなものですね。ゲームのルールとはそういうもので、だから題詠は最低限のルールさえ守ればだれでも気軽に参加できる、文字通り「ゲーム」なんです。

 

短歌が自己表現のような重苦しいものと結びつけられてしまったのは近代以降。もともと短歌(というより和歌)は貴族たちの仲間うちで披露される楽しいゲームとして親しまれ、平安時代より先では庶民の間に連歌(これも連想ゲームみたいなものです)が大流行し、あるいは百人一首に形を変えるなどして、ずっと日本の娯楽の中核を担ってきました。和歌の世界は誰でもウェルカムな、オープンなものであったわけです。その意味で題詠は、歌の本来の姿により近い。「場」をつくり、楽しむためのものなんですね。

 

そして自己表現になっていないからこそ、読む方も気負わなくて済む。気楽にあれこれと話しあえる。ご家族・ご友人との団欒にもぴったりなんです。で、自分を出していないはずなのに、結果的には各人の個性がよく出てきてしまう、というのが題詠の面白いところなんですね。

 

というわけでこのゴールデン・ウィーク。大切な人との時間を、たのしく題詠しながら過ごしてみるのもいいかもしれませんね(僕には大切な人がいません)。

おまけ ー文学フリマのお知らせ

さて、皆様はこう思われているかもしれません。

「なるほど、題詠のおもしろさはよくわかった。しかし題詠ではない、ふつうの短歌はどう読めばいいんだ。やっぱり短歌はおもしろくないんじゃないか。短歌はキモい」と。

そんな貴殿にぴったりの本がある。ご紹介しましょう。

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 歌集「海岸幼稚園」を出します ー稀風社ブログ

 

5月5日(月・祝)の文学フリマにて頒布されるわれわれ稀風社の新刊こと「海岸幼稚園」。

本誌にはこの題詠に参加した三上春海(鶴嘴島~の作者)、鈴木ちはね(ツルハシ魔~の作者)両名の短歌と、短歌を解説させたら日本で一番うまい、短歌界きってのマイクパフォーマーことわたくし情田熱彦による解説が掲載されています。「お題のない短歌はどう読み解けばいいか?」というテーマでもって本記事以上のボリュームでみっちりかつわかりやすく論じていますので、短歌ビギナーの方にも楽しめる本なのではないかと思います。

 

お値段はワンコイン500円。たくさん刷りすぎたせいで大いに残部が期待できる状況となっておりますので、彼女もいなけりゃ題詠やる相手もいない、ゴールデンウィークは暇をもて余して仕方ない各位は文学フリマ会場へぜひお越しいただければと思います。

当日は私もブースにて座ったり立ったりしていますので、「ブログ見ました!」などと声をかけていただければ動きを止める予定です。よろしく~\(^o^)/

 

関連エントリも見ていってくれ

海岸幼稚園特集第1・5回『短歌というトーテムポール』

こっちのあとがきみたいなもの書きました

短歌の要領で大喜利をやってみた

題詠の方法論でお題にボケたやつです

短歌をつくってみた

題詠じゃないときの俺の短歌は壊滅的になります。まあこれはこれで

手紙魔まみトリビュートアンソロジー「手紙魔まみ 私たちの引越し」

同じく文学フリマにて頒布。穂村弘さんの歌集「手紙魔まみ」をお題にして題詠やってるアンソロジーです。稀風社からは三上が参加、また拙作「オナホ男」のデザインを担当してくれた似子さんもデザインに関わってます。足を運ばれる方はぜひ

*1:僕は題詠と連歌、両方ともゲームだから好きなのですが、各人がバラバラであることを楽しむものが題詠、各人がいっしょであることを楽しむのが連歌、という感じがします。その意味で題詠は確実に近代短歌の文脈にある