ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

人生はスーパーマリオである

呼吸が浅い。

卒論を出し終わって以降くらいからか、空気を深く吸い込めていない気がする。
「呼吸が浅いと考えも浅くなる」といった比喩が俺は大嫌いなのだけど、それでも要はそういうことで、いま考えの浅い人間になると先が真っ暗になる。ので、呼吸に気を付けたいと思います。今後は。
 
話は戻って「呼吸が浅いと考えも浅くなる」という比喩がなぜ嫌いかというと、理由は単純で、呼吸の「浅さ」と考えの「浅さ」は根本的に違うからである。根本的に違うものを無理くりひっつけたところで何も言っていないに等しい。何も言っていないに等しいから嫌なのではなくて、何も言ってないくせに、何か言ってる風を装っているのが嫌なのである。嘘のくせに嘘だと自覚してないところが嫌なのである。何かを言うならもっとこうまじめに、真剣になるべきで、何も言わないなら徹底的に何も言わないでいるべきではないのか。と、こういうことを考え出すと、しまいにはもはや何も言えなくなる。私は貝になりたい。
 
「考えが浅い」という表現は単体でも俺はあまり使いたくない。「浅い」なんてものは計量可能なものに対してしか使えない言葉で、考えは計量可能なものではないからだ。たとえばそこらへんの原住民に「あなたたちの考えは浅い!」と指摘したら「考えに浅いも深いもあるわけねーじゃねえかwww」とギャグとして受け取られるみたいな事態は容易に想定できるし、それは原住民のほうが圧倒的に正しい。ただ、正しいこと自体には何の価値もない。そして「価値がある」ということは「価値がある」ということしか意味しないし、この論理は正しいが価値はない。だから「正しい」と「価値がある」は永遠に交わらないはずで、それがどこかで交わっているのはペテンのしわざだとでも思ってるから俺は気にくわないのか?しかしこの場合のペテンの犯人とは、人ではなく言語のシステムそのものではないのか?
 
結局のところ俺は、こうして何も言ってないに等しいことをつらつら書き連ねたりへらへら言い散らかすことしかできず、ちくわブロックに乗ったスーパーマリオみたいに足元を崩しては次のブロックに飛び移るみたいなことをただ延々と繰りかえしている。マリオと違ってゴールはない。しかし人生とは、ゴールではなく、ちくわブロックの上を飛び跳ねているその瞬間にしか存在しないのではないか。ゴールにつこうが谷底に落ちようが、電源を切れば同じことだ。
 
ドッスンに押しつぶされて死にたい。