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ブコウスキー「死をポケットに入れて」読感

チャールズ・ブコウスキーの「死をポケットに入れて(http://goo.gl/1ktw8」を読んでいる。彼が72歳のときの日記で、毎日競馬場に行ったり行かなかったりした日々を書いたものなのだけど、これがおもしろい。随所に登場する文章論もいい。たとえばこんなの。
新しい一行はそのどれもが始まりであって、その前に書かれたどの行ともまったく関係がない。毎回新たに始めるのだ。
ものを書く時は、すらすらと書かなければならない。稚拙でとりとめのない文章になってしまうかもしれないが、言葉がすらすらと流れ出ているのであれば、書く喜びから生まれる勢いがすべてを輝かせてくれる。慎重に書かれた文章は死んだ文章だ。
ロック。ロックじゃないですか。
ブコウスキー自身はロックは苦手でクラシックばかり聞いていたそうだけど、これはもうロックである。
いや、ロックじゃない。これはただの文章論であって、どこまで行ってもロックではないし、もちろん人生論でもない。そんなものはただの錯覚だし、これがロックだとか言うやつはバカだし頭が足りてない。
 
ところで世に言う「硬質な文章」という概念、俺はいまいちピンときてなかったんだけど、もしかしたらそれは漢字が多いとか言い回しが難しいとかいうことではなくて、「これはただの文章論であってそれ以上でも以下でもロックでもない」というような身も蓋もない文章の在り方、それが「硬質な文章」なのではないか。なのではないか、つっても俺がそう思っただけで、共感を求めてるわけではないのだけど。しかしその定義で行けば俺だってなかなか硬質な文章の書き手なのではないか。(共感は求めてません)
 
硬質かどうかはともかく、俺の文章って乾いてるよなーというか面白みがないなーとはしょっちゅう思う。たまに褒めていただけることもあるのだけど、自分ではあまり実感がなく、文章が下手クソでイヤになる。イヤになるからこういうブログみたいな長文を書くと、そのイヤな文章を何度も自分で読み返さねばならず(これでも完璧主義者なので自分の文章はめっちゃ推敲します)自分がさっきまで生み出していた文字列のクソさ加減に嫌気がしてせっかく書いた数千字の文章がお蔵入り、ということもしばしばで、その点ツイッターはいいですね。特にお酒入ってるときは、ザッと書いてバッと投稿できる。そういうふうに文章をつづれたらいいなーと思うのだけど。ね、「慎重に書かれた文章は死んだ文章だ」なんて、一度でいいから真顔で言ってみたい。
 
ブコウスキーの文体かっこいいんだよな。彼の世界との向き合い方がそのまま文体に現れている感じ、といったら大げさか。しかし文体と精神は密接につながっていて云々という話もあることだし、彼の精神が文体に現れ、かつ文体によって彼の精神が現れるとき、その循環の中で文章と精神は生の輝きを放ち、新たに生まれ出す。そしてその新たに生まれるプロセスこそが文章を書くということであり、「新しい一行はそのどれもが始まりであって、その前に書かれたどの行ともまったく関係がない。毎回新たに始めるのだ」ということなのではないか…
 
そう、結論なんかどうでもよく、文章を書くプロセス、そして文章を読むプロセスの中で躍動する精神にこそ、なんというか真理があると俺は思う。ので、特に結論も出さないままこれで終わります。気楽だ。