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ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「風立ちぬ」で宮崎駿は大人になった

コラム 雑記

宮崎駿、引退ということで。

「この世は生きるに値するんだ」宮崎駿監督、引退会見全文
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1309/06/news133.html

 

「風立ちぬ」は巷の評、特に評論家のそれを読むと「『美しいものを表現したい!』という芸術家としての宮崎駿の業」あたりの結論が多いのかなと思います。それを前提にして「こんなもの監督のオナニーじゃねえか!」って怒ってる派と「いや、自分の信じた美を描くことこそ芸術家の使命なのだ」派に分かれてる印象なんだけど、これ、どっちも浅いと思いますね。たしかに一面の真実を指摘してはいるとは思う。思うけれど、どちらも一面でしかない。「宮崎駿はロリコン」くらい、一面でしかない解釈だと思う。

「美しいものを表現する」は宮崎駿が生涯に渡ってずっと追い続けてきたテーマであって、別に本作にはじまった話ではありません。

なぜ彼が美しいものに固執するかといえば、「この世界が生きるに値するとすれば、『世界は美しい』ということを証明してみせるしかない」という人だからでしょう。「美しくない世界は滅びるしかない」くらいの絶望が、大げさでなく宮崎駿にはある。

これは誤解されがちだけれど、彼は何かを描きたい欲望の人というよりはむしろ、絶望の人です。「美しいものを描きたい」ではなく「美しいものを描かねばならない」という過剰なまでの義務感・使命感を背負っている。だからこそ本作のテーマは「生きねば」になるし、「生きよ、そなたは美しい」にもなる。「この世界は生きるに値するのか?」をクソ真面目に問い続けてきたクソ真面目な人なんですよ。

こんなツイートがありました。

さすがに俺は鋭いこと言うわけですが、ツイートのとおり、宮崎駿は美しいものを描くうえで「大人を美しく表現する」ということに欺瞞を感じてしまった人なんですね。大人が大人の姿を美しく描くなんて醜い、オナニーじゃねえか、って。

だから彼の作品では、大人の対極としての少女が、大人がつくりあげた文明に対してファンタジーの自然が、美しく描かれる。72年放映のカリオストロの城パンダコパンダ以来、一貫しています。

宮崎駿は「己の欲望の赴くがままに少女を美しく描く変態ペドおやじ」ではなく「大人も美しく描きたいけど、美しく描いたらウソになる…」という困難をバカ正直に抱えてしまった人でした。ウソがつけない真面目な人だから大人を描けず、それでも自分に代わるような存在が他に誰もいない以上、新しいものを作り続けなければならない。

だから彼は美しい・愛らしい少女を何度でも描かざるをえないし、その方向で限界まで行けば、ポニョのような「幼児性バンザーイ!」みたいなエクストリームな方向にもぶち当たるわけです。そうしてポニョで限界まで進んで壁にぶつかったからこそ「もう大人を描くしか残されていない…」という瀬戸際まで追い詰められ、そうして逆に吹っ切れて「風立ちぬ」へ出発した、という流れは宮崎駿のなかに間違いなくあった、と思います。

【 「風立ちぬ」は「火垂るの墓」へのアンサーである】

本作について宮崎監督に負けず劣らずストイックな物書き、大塚英志はこうコメントしています。*1「風立ちぬは火垂るの墓を作った高畑勲への回答である」。俺もまったく同意なのですが、どういうことか。

 

大塚は昨年出版された『物語消費論 改』で以下の趣旨を述べます。

火垂るの墓」は1988年当時(俺の生年です)「となりのトトロ」を後追いする形で制作され、両作品は併映する形で同時公開されたものだった。上映順は「となりのトトロ火垂るの墓」であった。そこで高畑は「となりのトトロ」への批評として、「火垂るの墓」を制作していたのだ、と。

当時は「となりのトトロを観たあと、火垂るの墓にショックを受けて劇場を飛び出した観客も少なくなかった」なんて話を聞くと、それはそうかもなと思います。

詳細は同書にあたっていただきたいのですが、「火垂るの墓」は、物語の構造から、舞台背景、人物、描写、絵コンテといったミクロなレベルまで、トトロのそれを意識的に反転させている。そうまでした高畑の意図とはなんだったのか?

高畑の問いかけはおそらくこうでした。

「あなたは無垢な少女のファンタジーばかり描いているが、どうして大人を、大人が作り上げてきた歴史を描かないのか。それは逃げじゃないのか」

なぜこの問いがクリティカルに刺さるかといえば、彼らのつくるものが「アニメーション」という近代以降を生きる「大人」が生み出した商品だからですが、このあたりの論理はわかりにくいかもしれない。

 

古今東西、芸術とは必ず、人間の上に立つ崇高な存在に捧げられるものでした。それはその土地の神様に豊作を祈願する踊りだったり、民衆が拝み倒すための仏像だったり、時の権力を讃える壁画だったりした。だから当然、「自己表現」といったものはただの余分でしかありませんでした。神を表現するので精一杯なんだから。

変化が訪れるのは西欧の近代以降。「われ思う。ゆえにわれあり」とあの有名なフレーズをデカルトが宣言、人間が人間として自足するようになった近代以降です。芸術はパトロンをはじめとする上流階級の人間に捧げるものとなり、今日の消費社会では消費者という、世界中に点在する顔の見えないパトロンたちに捧げるものとなりました。そうしてしかし、消費者とは信仰に値する、崇高な存在でしょうか。「お客さまは神様」なのでしょうか。

「消費者を讃えるもの」とは、ほとんどポルノと同義かもしれません。「ipadをこするのは自慰と同じ」とかつて宮崎駿は発言しましたが、消費者の欲望に忠実たる商品は、彼にとってほとんどポルノグラフィー同然であり、それを嬉々として使う消費者はオナニーにふける猿と同然に見えた。

だからこそ宮崎駿は、消費社会から目を背け、自然あふれる美しいファンタジーを描くわけですが、そうは言ってもお前がつくってるのは消費社会の最前線で消費されるアニメじゃねえか。どれだけ消費をオナニーだと目を背けても、お前のアニメはナウシカのエロ同人を生むんだぞ。高畑勲はおそらくそのように、宮崎駿の矛盾を指摘した。それが「火垂るの墓」でした。

 

【「となりのトトロ」VS「火垂るの墓」】

「大人」が成長するということは、消費社会に組み込まれることである。しかし宮崎は、そんな社会に何の疑問もなく組み込まれていく人間を醜いと思う。だがしかし宮崎は、彼が嫌う消費社会の最前線に立ち、消費者のための商品を作るトップクリエイターであった。

その矛盾を見逃さなかった高畑は「そもそもアニメの使命とは何であるか?」という大問題を、作品を通じて宮崎にストレートに問うたのです。

宮崎駿がアニメというメディアを、すなわち大衆の欲望に奉仕するポルノ性の高いメディアを利用しておきながら、まるで戦争からこっち側の歴史なんて存在しなかったかのように、現実離れしたファンタジーだけを夢いっぱいに描くのは欺瞞ではないか。むしろそうした業を背負ったアニメだからこそ現実を、アニメにしか描けない歴史を描く義務があるのではないか…。

高畑の問いはおそらくこのようなものであったのですが、それにしても宮崎駿がクソ真面目なら高畑勲もクソ真面目。彼らの後継者がジブリに育たないのも才能の問題というより、これほど規格外なクソ真面目さを持った人間が他にいないということなのだろうなと思います。まあ才能とはそういうものかもしませんが…。

こうして制作された火垂るの墓は日本の歴史を舞台とし、「近代化を理念として掲げた国家」と「前近代を平気で続けた社会」に引き裂かれて崩壊していく幼い兄妹を、トトロのようなアニメ的な記号表現ではなく、リアリズムのタッチで描いた作品でした。アニメーションを生んだ「近代」という時代が、かつて見殺しにしてきたものを、高畑は真正面から描きました。それも「となりのトトロ」というアニメ表現のど真ん中を走る作品に、わざわざぶつける形で。

 

…ところで「近代」って意味が広すぎてわかりにくいと思うんですけど、「自分のことは自分で考える」の時代だと思ってください。

「風立ちぬ」では主人公の堀越二郎が、軍は二郎宛の手紙を勝手に検閲するだろうという話を彼の上司から聞いて「近代国家の日本がそんなことをするなんてありえない」と憤り、上司が「おい日本が近代国家だと思ってたのか!」と大笑いする場面が出てきますが、これはまさに、そういう時代なんですね。当時は理念として「近代」が掲げられる一方、現実は平気で前近代の延長戦をやっていた。理念の人である堀越二郎は「近代国家」を信じ、しかし大人は平気で現実を生きている。社会全体がそういう矛盾を抱えながら、悩む人は悩み、悩まない人は悩まず、そうして終わりの見えない現実は続いていく。そういう時代でした。

 

前近代の村社会に居場所をなくしてしまった清太と節子は、これからは二人で暮らそう、自分たちの生活をつくろうと、村を飛び出す。「自分のことは自分で決める近代人」として彼らは出発しようとする。しかし現実はといえば、前近代の村社会が平気で続いている。近代の人間として出発しようとする彼らを受け入れてくれる場所なんてどこにもなかった。頼れる縁もなく、見ず知らずの他者とコミュニケートできるような言葉も持たない清太と節子は、都市にも逃げ込めなかった。

その結果「前近代と近代、両方の無理解によって殺される」という悲劇が待っているわけです。

この構図はちょうど、前近代=田舎のおおらかさの象徴であるトトロに庇護されて幸福な現実へと帰っていく、サツキとメイ姉妹と対照をなしています…って、前近代とかなんとか言いすぎて嫌になってきたな。

 

【ざっくりまとめると…】

田舎の美点に庇護され、通過儀礼を経ていく子どもを描いたのが「となりのトトロ

田舎の暗部に見殺しにされ、通過儀礼に失敗した子どもを描いたのが「火垂るの墓

 

ですが、ざっくりまとめすぎたかな…。

となりのトトロ」では、森のなかに昔から住んでるトトロに出会うという、まさしく「子どものときにだけ訪れる」経験、すなわち通過儀礼を果たして子どもは現実へ戻っていく。一方「火垂るの墓」では、自立して「大人」になろうとする子どもが、その「大人」によって見殺しにされ、現実には帰還できない。

高畑勲は、このように対照的な構図を成立させることで宮崎に批評のまなざしを向けました。そうして宮崎駿は、この批評に答えるのに25年かかった。25年かけてやっと出した答えが「風立ちぬ」です。

「風立ちぬ」の物語はどのようなものか。これは最初から「大人」として生きるよう運命づけられ、そうして田舎から都市へ独りで飛び出した少年が、大人になった後も生き延びる物語ですね。

「風立ちぬ」は「火垂るの墓」へのアンサーであるがゆえに、同じ時代背景を舞台にしながら、やはりいろいろとひっくり返した構成になっています。

たとえば清太と節子は、「前近代=田舎から半ば追い出されるように、しかし自らの意志で近代へと出発した人間」でしたが、堀越二郎はといえば、「生まれたときから近代に出発するよう、それどころか近代化していく日本国をトップに立って牽引していくよう教育されてきたエリート」でした。どちらも孤独ではありますが、かたや下層の子ども、かたやエリートの大人です。そして二郎に寄り添う女性は、「節子のような従順な妹」ではなく、「赤の他人の菜穂子」でした。

言葉も対照的ですね。関西弁というローカルな話法しか使えなかった下層の子どもである清太たちに対し、ローカルな言葉を奪われ、作られてまだ間もない不自然な標準語(=書き言葉)と外国語しか与えられなかったエリートの二郎とが対極に置かれています(余談ですが、堀越二郎が生まれた1903年は「方言を排し、標準語を正式な話し言葉として教育しよう」というコンセプトのもと「国語」という授業が日本全国の学校でスタートした年です)。

清太たちを襲った悲劇が「故郷を追われてしまったものの、逃げ込める場所がなかった」だとしたら、二郎を襲った悲劇は「帰るべき故郷が最初から存在しない」というものでした。

他にもいろんな部分で対比されるところはあって面白くて、たとえば二郎がお菓子屋でシベリアを買って、道端でひもじそうにしてる兄妹たちに差し出すシーンがあるでしょう。あそこで土着のことばしか話せない子どもは口ごもって二郎のことを信用せず、そっぽ向いて立ち去るんだけど、あれ、火垂るの墓の逆やってるんだよね。都会が田舎に無理解であるならば、田舎だって都会に無理解であって、そのようにして人間は分断されて寂しかった、って、どんどん脱線してしまう…。

 

宮崎駿が「この世界」を描くまで】

話を戻します。

前近代的な、自然あふれる田舎の美しさを描いた「となりのトトロ」に高畑勲は「本当にそれでいいのか?」と批評のまなざしを向けた。もちろん、となりのトトロは第一級のエンターテイメント映画として完成されています。しかし日本が誇る天才アニメ監督、宮崎駿が成すべき仕事は本当にそれなのか? もっと果たすべき責任があるんじゃないのか?

高畑勲は、ほかの誰よりも宮崎の才能を高く評価しているからこそ問いました。

宮崎駿はそれから「風立ちぬ」に至るまで25年間、大人を描くことに挫折しつづけます。もし宮崎駿が自分の描きたいものを欲望の赴くままに描く「欲望の人」であれば、大人を甘美に描き、それを作る自分も肯定する映画だっていつでも撮れたはずです。が、それはできなかった。

たとえば「紅の豚」は大人の男を描けたかといえばそうではなく、主人公のマルコはすでに戦争から降り、大人になれない魔法を自分にかけています。「あれは失敗作だ」と宮崎監督が振り返るのもそういうことでしょう。

繰り返しますが、宮崎駿は法外にストイックなんですね。「アニメに存在意義があるとしたら美しいものをそこに描き出すことである。だけども大人を美しく描くことはできない」という矛盾を抱え続け、安易に回答を出さなかった。

しかし実は「風立ちぬ」以前から「大人」を描きだす徴候はたしかにありました。本作以前の作品を公開順に並べると…。

 

崖の上のポニョ → 借りぐらしのアリエッティコクリコ坂から → 風立ちぬ」

 

という順になっている。ここに宮崎駿が「この世界」を描くまでの流れがあります。

まず、ポニョで幼児性の果てまで到達した宮崎駿は、「借りぐらしのアリエッティ」で小人問題を描きます。

アリエッティは原作こそイギリスの児童文学ですが、この物語はアイヌの伝承に登場する小人こと「コロボックル(蕗の葉の下の人)」を想起させるものでした。日本が近代化する中で迫害に遭ってきたアイヌ民族の問題が、ここでは隠喩的にですが、描かれます。

次の作品が「コクリコ坂から」。作中、ヒロインのメル(海)は終盤、父は朝鮮戦争に巻き込まれて死んだと、唐突に告白する。セリフの中ではLSTという日本が物資の輸送に使った商船の名前まで登場し、ノスタルジックなドラマが展開しそうな中で「日本も朝鮮戦争に協力していた」という事実が不意に侵入してくる。ちなみに朝鮮戦争のさなか、LSTの沈没により多数の日本人が死亡したのは実際の史実で、原作にないこの改変を宮崎駿はわざわざ加えました。

 

このようにして宮崎駿は、大人たちが形作ってきたこの国の歴史を描く準備をしていた、とは大塚英志『物語消費論 改』の論稿なので詳細はそちらを。(ところで大塚英志も、サブカルチャーの作り手として消費社会の最前線でストイックに戦ってきた人ですが、同書のあとがきで「みんなに語りかけることからぼくは降りる」と宣言しています。俺としてはこっちの引退宣言がまず衝撃的で、大塚英志が降りるほど消費社会はどん詰まりなんだろうなぁ…)

ともかくも歴史を描くために、まずアリエッティで隠喩的に歴史を描き、コクリコ坂で史実の断片を侵入させた。ホップ、ステップと進んで、とうとう「風立ちぬ」でジャンプして空を飛んだというのは、案外とこじつけでもないように思えませんか。

 

【「風立ちぬ」は宮崎駿のオナニーなのか?】

さて。

宮崎駿は「大人の美しさを描けばオナニーになってしまう」という困難と向き合い続け、ポニョからアリエッティ、コクリコ坂と進むなかで、ようやく光を見出した。大人を描く覚悟ができた。

ここまで「オナニー」という言葉を推してきましたが、考えようではオナニーより悪いかもしれない。アニメを作るとは、下手をすれば爆撃機を作ってしまうことと同じかもしれない。1つの表現が人を殺すかもしれない。宮崎駿はそれくらいに思っていて、だから他人にも容赦がない。一つの表現がその人の人生を奪うかもしれないと、表現がもちうる暴力性について徹底的に自覚的だからこそ、他人にも厳しいんです。

そうして暴力を持たざるものの象徴として、美しい少女を繰り返し描いてきた彼は、とうとう近代を生きた現実の大人、「堀越二郎」に爆撃機を作らせた。

それはアニメを作ってきた自らの責任を、真正面から問うことでもありました。いま「つくる」ということは、果たして肯定できるのか? 肯定できないのか? 自分のつくってきたものに意味はあったのか?

そうであればこれは、「宮崎駿のオナニー」ではなく、むしろ「宮崎駿の作家人生を賭した一世一代の大勝負」でしょう。失敗したら一生のお笑い草になるかもしれない。すでにして偉大な宮崎駿はこんなものに挑戦しないで、おとなしく引退する手だってあったんだから。

宮崎駿の覚悟がはたして実を結んだかどうか、オナニー以上の何かがスクリーンに映されているかどうかは、もちろん観客の判断に委ねられています。芸術家たるもの作品がすべてですし、「風立ちぬ」はやっぱり監督のオナニー映画だと感じる人だっている。それは仕方がない。

ですが、日本の映画界を牽引してきた彼の積年の苦闘をまったく無視して「芸術家としての自分を肯定した、ただのオナニー映画」とは、あまりに残酷な物言いではないでしょうか。作品の出来不出来、好き嫌いは置いておくにしても、今までの作品とはまったく意味の違う、宮崎駿ののっぴきならない覚悟は間違いなく本作にある。これは間違いありません。「がんばってきた自分へのごほうび」とはまったく逆で、一世一代の大勝負ですよ。

否定的な意見も当然あるでしょうが、少なくともこれを、彼の人生の集大成として真剣に受け止めることこそ、消費社会の最前線に立って戦い続けてきた、この偉大な作家に払ってしかるべき敬意ではないでしょうか。と言えば大げさだけど、単に「オナニー映画」で片付けていい作品じゃないですよ、本当に。

 

【「風立ちぬ」は本当に子ども向け映画ではないのか?】 

宮崎駿は「子どものためにアニメをつくる」と言い続けてきた人です。大人向けのアニメは作らない、世界のマーケットも意識しない。ただ日本の子どもに向けて作るんだ、と。ではなぜ今回、大人を、歴史を描いたのか。いま子どもに伝えるべきは、こっちだと思ったからでしょう。つまり今回「『「大人」になってもいいんだよ』という赦し」がはじめて主題になった。

「時代が追い付いた」と公開前のインタビューで発言していましたが、それは宮崎駿の傲慢でもなんでもなく、「大人を描くことこそが、子どもへのメッセージになる」という時代が来たということでしょう。少なくとも宮崎駿はそう思ったから、大人を描いた。

本作、当初はもう1つのエンディング案があったそうです。当初の案では、なんと二郎は菜穂子とともに死んでいる。

「風立ちぬ」もう一つのエンディング

http://comajojo.hatenablog.com/entry/2013/08/18/024840
 

もちろんそれはそれで一つの映画でしょうが、「時代に殺された悲しい男女の物語」ということになってしまえば、それはうまくいって「火垂るの墓の一変奏」で終わっていたと思います。少なくとも明確なアンサーにはなりえなかっただろうし、それで傑作になっていたとしても、宮崎駿はまだ引退できなかったでしょう。「25年かけて高畑勲の後追いをした」では、いくら作品が素晴らしくてもピリオドは打てなかったと思う。

宮崎駿は悩みに悩んだ結果、「二郎を生かす」という選択をした。いま子どもに向けて伝えるならば、そのエンディングを描くべきだと思い、描ききったからこそ引退した。

 俺は思うんですけどね、この人、最後の最後に大ウソついたんだと思う。

「本当のことだけ描きたい!」って美しい少女の世界を描いてきて、それはどれだけ美しく描いてもウソにならなかった。美しいファンタジーの世界は本当のことだけ描いていれば良くて、美しくない「この世界」は無視してかまわなかった。

それが最後、「この世界は生きるに値する」って「この世界」を描いちゃうわけでしょ。俺、こんなの大ウソだと思うんだよね。「どんなにつらくても、最後にワインを持って待っててくれる人がいる」なんて、真っ赤なウソかもしれない。この世界は、それはそれはひっでえもんかもしれない。それでも「この世界は生きるに値するんだ!」って子どもに向かって強弁するのは、体を張って全力で素敵なウソをつくのは、大人が背負ってやるべき使命でしょう。だって「この世界は生きるに値しない」なんて大人が言い出したら、それ聞いた子どもはどうすりゃいいんだよ。

俺、宮崎駿の作品って、子どもの頃からひとつも好きじゃなかったんですけど、「風立ちぬ」はボロボロ泣きましたね。ああ、俺はこれが見たかったのかもしれないって。

宮崎駿は最後、わざわざウソをつきに、芸術家として失格するために戻ってきた。芸術家としては失格かもしれないけど、ひとりの大人として、果たすべき責任を最後に果たした。「この世界で君は生きていてもいいんだ!」って、一世一代の大ウソついて、ウソをついてしまった以上は芸術家失格だ、あとは子どもたちに任せるって、格好よすぎるでしょう。

…すごい走りましたけど、本当にすごい。宮崎駿は大人になれたんだと思った。こんなのやられたらさあ、憧れるしかないんだよなあ…。

【「風立ちぬ」は宮崎駿の最高傑作である】

宮崎駿の最高傑作とは何か。もちろん意見は分かれるでしょう。

ラピュタが最高だ、いやナウシカだ、いやとなりの山田くんだ…等々。

けれども、宮崎駿自身にとっての最高傑作は間違いなく「風立ちぬ」で間違いないと思う。

彼はずっと「風立ちぬ」が描きたかった人であり、でもずっと描けなくて、とうとうそれを達成した。それは消費社会の中でアニメーションを作ってきた自分への赦しであり、これからアニメーションを作っていく次世代の人間たちへの赦しでもあり、これから「大人」へ出発する「子ども」たちへの赦しでもあった。「この世界は生きるに値するんだ!」って捨て身の大博打を仕掛けて、そうしてバトンを渡した。

である以上、我々が宮崎監督に言うべきは「もっとアニメを作り続けてください」ではない。

「あとはこっちでやりますから、任せてください」でしょう。

宮崎駿は最後に、わがままな芸術家としてではなく、子どもに未来を託す大人として果たすべき責任を果たした。だからこそ、今度は我々がその使命を引き継ぐ番である。別にアニメの現場だけじゃない。それぞれが責任を持って、自分の使命を引き受ければいい。今度は俺たちが、子どもに大ウソをつく順番なんだ、って。

 宮崎駿の引退を「引退詐欺」にしないためにも、クソ真面目に生きねばいかんと思います。生きねば。

 

【参考リンク】

大塚英志 『風立ちぬ』は火垂るの墓への回答」

http://dot.asahi.com/wa/2013072500035.html

「風立ちぬ」もう一つのエンディング

http://comajojo.hatenablog.com/entry/2013/08/18/024840

宮崎駿の名言集」

http://matome.naver.jp/odai/2127907003039673401

 

※10,000字超も書いて本編にほとんど踏み込んでない…!

「風立ちぬは宮崎駿の中でどういう位置づけにあるのか」と「俺は風立ちぬが好きだ!」しか語ってないですね、ほとんど。巷の批評家の評は全然しっくり来てないので、また感想書きます。感想書こうとしてもうまくまとまらないような、言葉が下手クソな人のほうがぐっとくる映画だと思うんだよな。

*1:http://dot.asahi.com/wa/2013072500035.html