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ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

そばと悟り

最近、というか去年の今頃あたりからずっと昼めしは弊社近くの立ち食いそば屋で済ませていて(「昼めしを済ます」っていかにも流れ作業でサラリーマン感ですね)ボリュームあるごぼう天を乗せても1杯350円で済むし、量を食べるとすぐ眠くなる体質なので、そば一杯で十分。お店のおばちゃんは俺の顔をすっかり覚えてくれて、サービスしてくれるわけでも別にないのだけど、あらお兄ちゃん、いらっしゃいと毎回決まった声を掛けてくれるのでドラクエの村人みたいだと思う。

 

あんまりにも同じものばかり食っているので「お前は食にこだわりがないのか」と同期に指摘され、そう言われるとないですね。毎日同じものを食べていると、日によって味が違うのが分かってきて、あれ、今日は体調がおかしいのかなって、いつもと味覚が違うぞって、わかるしお得。だいたい昔から、同じものばっかり食って飽きたことがないのだけど、ふつうの人は飽きるものなんだろうか。俺は一生そばを食えるぞ。

思えば自分はもう25年も自分やってるわけだけど、しかし自分に飽きるってこと、ないもんな。とすると仮に、そばは自分の中に取り込まれたもの、すなわち「自分=そば」と考えることができたならば、自分自身に飽きがこない以上、そばに飽きる未来も一生来ないのかもしれない。「自分≠そば」と考えれば、いつかはそばに飽きるのかもしれない。おそらくは自分とそばが結びつかなくなったとき、「自分=そば」でありうる可能性がすべて消えてしまったとき、俺はそばに飽きるわけで、ということはつまり、俺がそばに飽きるとき、そばもまた俺に飽きているのだ(!?)。

 

「飽きる」ってのは「自分=A」が「自分≠A」に変わることかもしれない。「自分」ってのは、自殺しない限り嫌でも付き合うしかないわけじゃないですか。そうすると理性は賢いので「お前が生きてるってことは、お前がまだ自分に飽きてない証拠だぞ」って自分が生きてる現状に合理的な解釈を与えて、励ましてくれる。「自分に飽きた」という状態は、「今の自分は自分でない」と感じてしまう状態、自己疎外感マックスの状態かもしれない。つまり「今の自分≠あるべき自分」という状態は、しかしこう書けば当たり前のことで、問題は「あるべき自分」というのが具体的にイメージできるかどうかだと思う。イメージさえできれば、「今の自分=あるべき自分=そば」にもなりうる。

ということは、「自分に飽きる」という状況を解消する方法の一つにはまず「自分はそばだ!」を発見する道がある。その道をガンガン拡張して「今の自分=あるべき自分=そば=カレー=ラーメン…」と無限に代入できるリストを伸ばす(別に好きな食べ物じゃなくていいですけど)。こうすれば飽きませんね。「自分=宇宙」のレベルまで行けば「この世界が滅びないかぎり自分も滅びない」になるし、最強。

もう1つ悩みを解消するためには、単に「あるべき自分」を単純に消せばいい。そうすれば「今の自分」がすべてになって、「あるべき自分」とのギャップに苦しむことはなくなる。がしかし「自分」というのが残っているかぎり、苦は起きるぞというのが仏教の主たる教えで、だから「今の自分」から「自分」という幻想を消して「今」だけになるべきである。ヨガや瞑想の少なくない流派はこの境地を目指してますし、細分化の極地である量子力学もこっちに分類されんじゃないでしょうか。悟り。

前者は「躁(=統合過剰)を突き詰めたら悟りが開ける」というルート、後者は「うつ(=統合失調)を突き詰めたら悟りが開ける」というルートで、違う道をたどりつつ、2つは場所にたどり着くものであると思います。しかしまた一方、二つのルートはたぶん、同じ道の表裏で、我々はそばとの分離、同一化を繰り返しながら、少しずつ悟りへと近づいていくのかもしれません。

「自分=そば」であり、かつ「自分≠そば」である。この「絶対矛盾的自そ同一(自己とそばの同一)」を主体的に引き受けたとき、悟りが開ける。俺も悟りが開けるし、そばも悟りを開く。がんばって悟りを開く。俺が毎日、飽きもせず立ち食いそばと向き合っているのは、そんな悟りの道を探しているからではまったくないです。

…ひっでぇ文章だな。酒のんで書いたってことにしといてください。おわり。