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【日記】満員電車でヤクザに絡まれた(2013年 9月28日~10月4日)

日記を書きました。また1万字超えのまとまった論書きたいけど、まとめるのクソ苦手だし、妖精さん手伝ってくれないかな…
 
9月28日(土)
「難民映画祭」なるイベントでシリア難民のドキュメンタリー映画を観るため九段下へ。鑑賞後、怒りが収まらず。シリア難民をここまでの悲惨に追い込む世界の不条理に対して怒ったのではなく、作者の表現する者としての自覚のなさに腹が立って仕方がなかった。難民にカメラを向ける自分は暴力を告発する者である、と無邪気に思い込んで、自分もまた暴力を行使する側に立つとは思ってもいないであろう、だらしのない表現。チープなアニメーション、「これは悲しい音楽です」という顔をした音楽、何度も繰り返し言われる犠牲者の数(悲惨さを数字で表現してしまう映画にあるまじき甘え)、もう諸々すべて記号でしかない。記号に変えて、難民一人ひとりの姿を埋もれさせる。それはどんな表現だって抱え込まざるをえない暴力ではあるけど、そのこと(=自分の暴力)にあまりにも無自覚で腹が立つ。アメリカ映画だそうだけど、アメリカの観客はこんなレベルで騙せるのか、と思ってツイッター検索したら、日本にも感激してる人いましたね。そんなものか。

こんなものをUNHCR(国際難民機構)という緒方貞子がゲストに来るくらいちゃんとしてるはずの機関が垂れ流すってのはまあ役所なんてどこもそんなものかもしれないけど、とにかく全部に腹が立って仕方なかった。こんなもの平気でつくる人間も、これを許す人間も全部クソだと呆れて、しかし前から俺は、こんな怒る人間だったか…?

会場を出た後「三流の難民ポルノだ!」といっしょに来た後輩にあれがいかに許すべからざる表現かわめきたてた。いい迷惑だったと思う。

※今週の日曜にも上映するらしいので、最近イライラが足りてない方は行ってみてはいかがでしょうか。

http://unhcr.refugeefilm.org/2013/title/2013/08/post-52.php 


9月29日(日)
映画『風と共に去りぬ』鑑賞。昨日の口直し。
計4時間の大作のためディスクがPart1、Part2と分かれているのだけど、間違ってPart2を先に見てしまった。「なるほど、昔のハリウッド映画は余分な説明をしないのだなあ…」と、俺の知らないところでストーリーが展開していたらしい超難解なドラマを2時間見ていたら、ヒロインのスカーレット・オハラが涙を流して生きる決意をする。ということは、まさかのエンディングが来てしまったということで、えっ、ちょっと待てよ。狼狽しつつ前半のディスクを後から見たのだけど「おお、ここはこうなっていたのか!」って、ミステリーの謎解き編みたいでやたらおもしろかった。ヒロインの知られざる過去がポンポン出てくる。この鑑賞法はおススメです。
それはともかくすごい映画だった。1939年にアメリカはこれだけの超大作撮ってたって、そりゃ日本は戦争に負けるわなあ…。
 
9月30日(月)
出張。新製品の紹介VTRを撮影するため、お手伝いとして派遣される。
基本的に俺は気が利かないし、気を利かそうとするとまず失敗するため、もう気を利かせることをあきらめた(さすがに営業をやめた人間である)。
撮影中、俺はずっと後ろの方で堂々と突っ立ち、眼前で展開する光景をじーっと眺めていたら、休憩中、お前はすごい、と同期に絶賛される。部長が目の前でせこせこ動き回ってるのに、お前はなんであんなに堂々と立ってられるのか。そう言われても俺には、部長がせこせこ動き回っていた姿を見た記憶がなく、そう言われるとそうかもしれない。部長は気が利く、反射神経のいい人だし、ああいうのが得意なんだと思う。俺は反射神経と引き換えに、堂々と突っ立つことを選んだのだ…。
とはいえ部長からもしばしば注意されるので、そのときはきっぱりと、すいませんと謝ってヘラヘラ笑いながら手伝った。「本当に気が利かなくてすみません!」と酒の席で何度も言ってるので、大丈夫である(と思う)。
作業終了は20時過ぎ。鈍行列車で帰宅し、家に着いたのは23時半ごろ。
 
10月1日(火)
新製品についての会議が長引き、20時過ぎまで残業。お偉い御方々の話を議事録に取るだけなれど、専門用語が飛び交い理解が追いつかない。追いつかないが、大した内容じゃないことだけはわかるので適当に聞き流す。

帰宅後、市川崑監督『細雪』を鑑賞。谷崎潤一郎原作、1983年の映画。
大阪船場の名家に生まれた四姉妹の話で、なるほど前近代を引きずった戦前の「家」とはこんなものだったのかとしみじみ感じ入る。
船場言葉といえば大阪弁の中でも折り目正しい、貴族の言葉らしいのだけど、この名家の女性たちは発声が喉声気味というか、声帯を抑えつけるような話し方になるのだなと思う。貴族特有のエスプリって言うんですか。貴族とはいえさすがに日本で、ヨーロッパのそれとは違ってずいぶんと湿っぽいエスプリだけど。
本作、長女と次女はいかにもこなれた、含みの多いというか慇懃さも感じる船場言葉なんだけど、いちばん下の四女はさっぱりとした発声で、自分の生きたいように生きたがる近代人という感じ。で、驚くのは間に立つ三女、演じるのは吉永小百合。この人、どこから声出てるのかよくわからない人だ、ってはじめて気づいた。AQUOSのCMだけじゃ気付かなかった。なんというか日本人形の不気味さみたいなものを感じて、これはこの人の本質かもしれないぞと思う。とにかく人間がおもしろいし着物はきれいだし傑作です。特典映像で、監督が着物の美について訥々と語ってるのがよかった。
 
10月2日(水)
仕事を定時で上がり、新橋駅前SL広場の古本まつりへ。特に掘り出し物は見つからない、と言いつつ20冊ほど買う。もっと歴史を知らないとあかんなあ、と痛感している最近なので、まずはおもしろそうな江戸やヨーロッパ中世あたりの本を中心に。文化史から入るのが良さそう。あと絶版になってるベケットの『モロイ』がやたら安かった(420円)ので買ったけど、しばらく読まないだろうなあ…。
古本市の雰囲気が好きで、開催してるとなんとなく行って、読みもしないのに買ってしまう。新橋古本まつりは今週末までやってるので、行ってみたらいいと思います。週末は早稲田の古本市行こうかな。
 
東京古本市予定表
http://tbfs.ninja-web.net/
 
10月3日(木)
朝の通勤電車が人身事故で遅れる。混雑する車内でやたら音漏れが聞こえてくるなと思ったら、近くに立ってるのはオールバックの小柄なヤクザ風のおっさんだった。駅に到着して人が入ってきて、体が押されるたびにややオーバーに顔を歪めるその人の顔がおもしろく、「大音量の音楽で耳をふさいだり、顔をしかめたりして、この人は必至で自分の領域を防衛しようと戦ってるのかなあ…」とぼんやり見つめていたら、おいなにこっち見てんだよ、と絡んできてビビる。あっ、見てないです、混んでるから、と訳のわからないことを言ってやりすごす。結局そのヤクザは、人が入ってくると「痛ってえなぁ!」と声を荒げたり、それでも人がどんどん入ってきて顔がますます歪んで弱っていくのがおもしろく、こう満員電車ではヤクザも形無しなんだろう、と、遠くに流された彼の顔を見ながら思う(離れたので安心して見てる)。
ヤクザが生きづらい世の中ってのは、こういうことなのかもしれない。やたらと様式(スタイル)を気にするヤクザは、そんな細かいこと言ってる場合じゃねえだろって身も蓋もないツッコミを食らった瞬間、様式を守る正当性を失ってなぜ威張ってるのかわからない人、間抜けなお笑いの人になってしまって、顔のないサラリーマンの群れに流されて顔をおもしろく変形させるって、それはそれで悲しいよなあ。

ニコ生で人気のヤクザってのも以前見て寂しいなと思ったけど、その人が威張れる場所って、そこしかなかったのかもしれない。まあロンブーの淳がニコニコに進出してきたのも、そういうことなのかもなあ…。
 
10月4日(金)
通勤時間にコツコツ読んできた大塚英志『「伝統」とは何か(ちくま新書)』読了。
柳田国男の民俗学を追いながら、母性・妖怪・郷土といった「伝統」が近代以降、人為的に作られたものであると、筆者特有のハイスピードな論理で検証していく好著。
大塚英志はサブカルチャー・文学方面の評論でも本当に冴えてるけど、もしかしたら民俗学関連の著作のほうがおもしろさは上かもしれない。
大塚英志は好きなものについて批評することは自制している、と公言してる人だけど、好きなもの語らせると本当にいい文章を書く。ただそれが現に生きてる作者だったりすると、自分の批評が作品に影響を与えてしまうのではないか、と己の暴力性を自覚してあんまり書かない。そのストイックな姿勢こそ俺がリスペクトしてやまない理由だし、だからこそ表現の暴力性に無自覚なシリアの映画に激昂するわけですね、俺は。
大塚英志にとって民俗学は「好きだけど、もう死んでしまったもの」で、だからこそ語りやすいのかなと思う。死んでしまったものは生き返らせるしかないわけで、方向は決まってるわけだし。
でまあ珍しく好きなものについて語った文章がネットに上がっていて、大槻ケンヂについてなんですね。
『贖いの聖者』という大塚英志原作、白倉由美作画の怪作としか言いようがない少女まんががあるのだけど、そこで主人公の少女の前に現れる救世主のモデルがなんと大槻ケンヂ。というくらい好きで、下記URLはオーケン処女詩集の巻末に載った解説らしいんだけど、文庫化の際に削除してしまったらしい。おそらくは大塚英志本人が消させたんじゃないかなあ、と勝手に思ってるんだけど、どうなんだろ。
とはいえ下記は名文で、この人が悪文としばしば揶揄されるのは文章が批評の文法から逸脱しているからであって、実はめちゃくちゃ文章が上手い。
 
大槻ケンヂ論 笛吹き男のいいわけについて - 大塚英志
http://bit.ly/155Ci8Y
 
需要があるか知らないけど、大塚英志の文体論書きたいなあ…。俺がいちばん影響受けたのは大塚英志の文体だと思う。一言で言えば「『ゲタを履いて理性的に歩くのが大人である』という世の中に物申すべく、本当は自由に走り回りたいはずの子どもが、仕方ないからゲタ履いて鼻緒に足ひっかけて全力で駆け回ってる」ような文体です(特に近著は走りまくってる)。大塚英志の文章が一見、どこに向かっているのかよくわからない、でも見えない何かと戦ってる気がするってのはそれなんだけど、しかしこの説明もわけわかんないだろうな。ゲタを履いて必死の形相で走り回ってる人見たら「いったいこの人は何と戦ってるんだろう…?」と面食らうのは必至で、彼の論述のわかりにくさはそこにあるんだけど、何と戦ってるのか段々わかってくると、こんな魅力的な文章はない。ないんです。そのうちなんか書きます。

 

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…ということで、1週間終わり。土日は某氏の無職祝いをする以外特に予定もないので、昼からビール飲みながら読書したり映画観たりすると思います。風雅だ。