ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

『ねらわれた学園』を観てきた

ねらわれた学園』いまさら観てきた。ヒロインがめちゃくちゃかわいかった。神。

…昔はもっと、感想を練って練って書きたいと思ってたと思うのだけど、最近はもうなんでもいいや、俺が感想書くことに意味あるんか、と思ってしまって、俺の話はいいからとにかく観てください。上映館もう少ないけどさ。

映画でも音楽でも何でもそうなのだけど、こういうすごい作品、そもそもどうやって作ったんだそれ、みたいな作品にふれるたび、俺がやることねーよなと思う。文学フリマに行ったときは、表現したい人がこんなに世の中にいるなら俺いらねーよな、と思ったし、なんかこう、創作活動もふくめていろんなシステムが俺の知らないところで好き勝手に動いていて、もう勝手にしてくれ、と思う。毎日思ってはないけど。これだけ大量に表現が出回ってる時代だから、すごい作品もあればゴミクズのような作品も世の中にはたくさん存在していて、それが原因かどうかは知らないけど、「もっといい作品にふれたい!」と俺は思うでもなく、なんだかそういうこと、そういう事態の全部にうんざりする。

「生きてればいいことあるよ」と人を励ますのが無力なことと同じで、いいことがあるのも知ってるけど、いいことも悪いことも含めて、その全部がうんざりだ。だれかがそんなふうに言っていたように、どんなにおもしろいものが世の中に存在しても、それが生きる希望になるのかというと、それは全然違う。どんなにおもしろいものでも消費してるだけ、外から観てるだけ、だとしたらおもしろいことに何の意味があるんだろう。おもしろいってなんでしょうね。人と会って酒飲んでりゃおもしろい、すげえ笑える、って、それでいいじゃんと思うし。それでコンテンツ生み出すのって、どういうことなんだ。コンテンツってそこまでして回さなきゃいけないんか。えっ。

芸術って本来はある集団を統合するための機能、歌も踊りも演劇も絵もそもそもは祝祭的な性格、つまりは宴会芸・余興だったのに、もうぜんぜん宴会芸じゃないじゃん、と思う。ハイ・クオリティな映画だってそうだしさ、まったく逆の、完全に自己満足的な同人活動だってそうだよ。いやそういうのが悪いとか存在を赦すなって言いたいわけじゃなくて、どんどんやってくれればいいのだけど、ただ、なんか俺は、そういうのを見ると、俺はそこに関係ないのなと思って、勝手に拗ねてるだけなのかもしれない。最近は同人誌をはじめいろんなとこにちょいちょい寄稿したりしてるけどさ、どれも俺は作家みたいな意識はなくて、宴会芸なんだよな。余興。悪ふざけ。近々配信する『オナホ男』もそうで、やる以上はクソ真面目にやってしまうのは、もうどうしようもない。世の中の全部が悪ふざけであってほしい。生きる即余興。会社は酒を飲むところ。

 

当ブログもまた、宴会芸のようなブログを目指しています。しみったれた宴会芸だな。