もしもメンヘラがひとつの村だったら…―脱メンヘラの人類学講座―
「メンヘラ」って概念は果たしてどうかと思っていて、「理性はあるけど教養はない不摂生なバカ」って言えばいいのにと思いますね。
世間一般に言うところの「メンヘラ」に足ていないのは「健康」と「教養」なんだけど、そんな身もフタもない事実に向き合いたくないから「メンタルヘルス」なんていう高尚な概念にすり替えやがる、ってだけで、たのむから石を投げないでほしいんですけど、そういう話をします。
【メンヘラはさっさと健康になれ】
まず健康。早寝早起き・腹八分目を心がけてください。暴飲暴食はNG。昼はちゃんと日を浴びること。自分の足で歩くこと。ODしないこと。以上。
以下は教養について話をします。
【教養とはなにか?】
教養とは「理性が依って立つ根拠」です。どういうことか。
「狂人は理性が狂っているのではない。理性以外全部が狂っているのだ」という箴言がありますが全くそのとおりで、ここではメンヘラを「狂人数歩手前の人間」としましょうか。つまりメンヘラは、理性以外全部が今にも狂い出しそうで、理性だけがなんとか機能している。理性だけが働きすぎて、悲鳴を上げている。
これは先に述べたとおりで、メンヘラは理性以外の部分(ざっくり言えば「身体」)がうまく機能していない。だからまず身体をちゃんと機能させねばということで、健康問題が出てくる。健康第一です。
でもう一方には、働きすぎの理性の負担を軽くするために、自分の外側の教養体系を拠り所にして、理性の負荷を分散させようというアイデアが出てくる。なんでも自分で考えるとパンクするので「そんなの常識でしょ」で済ませられるようにさっさと教養を身に付ける。
こっちは少しわかりにくいと思う。ので、ちょっと歴史の話をします。
まず「理性」なんて概念は、昔の人にとって当たり前でもなんでもなかった。「われ思う。ゆえにわれあり」とデカルトが宣言、ヨーロッパで近代合理主義が花開くまで、「自分の頭で考える」なんてことは常識でもなんでもなかった。それどころか自分の頭で考えようとする人間は、共同体の秩序を乱すということでキチガイ認定されたわけです。勝手なこと考えんじゃねえって。
まあ現代だってそうかもしれないですけどね。自分の頭で考えるなんてことはいつの時代だって歓迎されてないわけで、メンヘラ各位が迫害されるのは歴史的に見れば当たり前のことでしかありません。ただ昔はそういうメンヘラを、「神の化身だ」として祭り上げたり、「悪霊が憑いた!」とされてお祓いを受けたり、あるいは世俗の外の仏教が吸収したり(「出家」というやつです)なんてシステムもあったんだけど、今は精神病院が一手に引き受けてるって事情はあります。単に「病気」で片づけられてしまう部分はかわいそうなんだけど、「精神病」なんてのは近代国家がメンヘラを安全に管理するために創作した概念でもあって、そんな場所に自分からハマりに行くところが、あまつさえそこに個性を見出そうとすらしてしまうところが、自称メンヘラはバカなんだって思う理由なんですけど、脱線したな。
話を戻すと理性とはなにか。「意味」を作るところです。
人間はあまりに多くの情報量を受け取ると、処理能力不足でパニックを起こして適切な行動が起こせなくなる。そんなときヘルプになるのが理性です。
たとえば100の情報量を受け取ったとして、それを「100⇒1」までザクザクと情報を削ぎ落とす職人が理性であって、そうして理性によって形作られた「1」が意味になります。考慮に入れるべき情報量が多すぎて判断できない、という事態に直面すると、身体が理性に「助けてください!」とヘルプを出す。すると理性はそれに応答し「これは要するにこういう意味である。安心しなさい」と100の情報を1まで要約して体に戻す。すると身体は「なるほど」と納得して、パニックが収まる。こうして元の状態が保たれる。
理性ってのはだから、身体のホメオスタシス(恒常性)を保つ機能の1つで、免疫と同じなんですね。免疫とは、ウィルスのような異物が侵入してきた際に、その異物を体内に安全に取り込むための手助けをする機能。ここでのポイントは異物を排除するのではなく、いったん取り込む、という点です。理性というのも、そのいったん取り込んだ異物に反応し、安全に飲み込むべく異物に処理を施す。だから理性は、精神版の免疫なんです。
で、ここから話は意味不明になるんですが、その免疫システムたる理性が何に似ているかというと、村の長老に似ている。
唐突ですが以下は村の話をします。
【理性=長老である】
先に対応関係を示しておくと
「人間=村、若者=身体、長老=理性、神話=教養」です。まあ読めばわかる。
まず一つの部族を思い浮かべてください。特に好きな部族がなければ、マサイ族で想像すればよし。
マサイ族の若者がいます。ある日、彼がジャングルを散策していると、今まで見たこともない奇妙なアイテムを発見する。仮にipadとしましょう。米兵が手を滑らせて空中から落としてしまったipadを、
若者は村へ持ち帰ります。これはいったいなんであろうか。村の人々が集まり、ああだこうだ議論するも、正体はわからない。もしかしたら村に災厄をもたらす、呪われたアイテムかもしれない。ipadを「2001年宇宙の旅」のモノリスみたいに誤解した村人たちはあわやパニックを起こしそうになりますが、そこで村の代表の一人が「よし、長老に聞いてみよう」と提案、村はずれのテントの中でひっそりと暮らす長老のもとを訪れる。
「長老、村の人間がこんなものを、こういう経緯で拾いまして、我々はこう思うのですが…」と若者が説明をする。それを聞いて長老は「それはな…」と語りはじめる。曰く、その奇怪な石板は古来の神話によると、石の神がつくりだしたものである。石の神は地上に悪魔が寄り付かないように、ときおり奇妙な石板を作り上げる。それは村で言えば、カラスが寄り付かないよう畑に立てるカカシと同じである。その石板には魔除けの効果があるから、祭壇に飾って崇めるのがよいだろう…。
マサイ族の村にカカシがあるかどうかは置いといて、長老の話になるほど、と納得した彼は、村人たちのもとへと戻り、報告する。長老は心配するなと言っていた、すでに神話で予見されていることだったんだ、これは祭壇に飾ればよいのだ、と報告する。なるほど、と村人たちは納得して、村には平穏が戻る…。
…わかりますか。
わかりにくいと思うので、図で説明します。
※これがいちばんわかりやすい、と本人は思ってます。
まず、それ自体で自己完結した村がある(「Village」の環)。この環は何も事件がなければ恒常性は維持されるのだけど、そこにipadという意味不明(図中の「?」)が侵入してくるんですね。それが(1)。
(1)で入ってきた「?」が村の中で処理できなかった場合、村外れに住む長老(図中「Silver」)のもとへ「?」がパスされる。それが(2)です。で、長老は長老で自己完結しているんだけど、長老自体は決して全知全能ではない。だから自分より環の大きな、壮大な神話体系の中に「?」を投げ込む。それが(3)です。
そうしてまた、神話は神話で自己完結しているんですね。古今東西、どの神話にも必ず一定の物語構造がある、という話は、物語論の本などを各位で参照してください。ともかく、長老が神話というメルティングポットの中へ投げ込んだ謎が、神話の体系を通じて答えが出て戻ってくる。それが(4)(図中の「Ans」)。そうして長老は神話から出た回答を受け取り、それを村人のもとへ戻す。この段階が(5)。そうして「?」は「Ans」という安全なかたち(=意味)に変わり、村人は「なるほど」と意味を理解し、恒常性は維持、村は平和を取り戻す…というシステムです。おわかりだろうか。(説明してるうちにわかってくると思うので、気にしないでください。つまずいたらこの図に戻ってくれれば)
そしてこの図のそれぞれの環を「長老→理性」「村→身体」「神話→教養」と変換すれば、そっくりそのまま現代人の精神構造になります。どういうことか。
まず身体(=村の若者)が外から情報をキャッチする。その情報は身体が自ら判断・処理できるようなものであれば、理性の出番はありません。「ボールが飛んできたらよける」みたいな反射動作はこれですね。何の疑問も抱かず平然と世の中を生きてる人は、動物みたいにほとんど反射神経だけで、体だけで生きてるってことです。もちろん程度問題で、完全に理性ゼロってわけではないけれど、そういう人もいる。
村のモデルで言えば、若者が自分で考えて処理できる情報については、長老のところまで議題に上がってきません。若者で処理できる問題は勝手に若者で処理して、村の秩序は何事もなく保たれる。
しかし問題は、体がすぐに反応できない場合です。
外からの情報に対してどう反応すればいいか体が判断できず、それでも何かしらリアクションをとらなければ村の機能は停止してしまう。そのときに理性が判断を下します。「その情報は要するにこういうことだから、こうやって動きなさい」と。そうして「なるほど」と納得して体が動く。
理性は本来、長老と同じく、緊急事態にのみ働くものでした。しかしそれが常時働いてしまうのが現代人であり、理性をブラック企業のごとく酷使しているのがメンヘラである。ということです。現代社会は人間に理性があることを前提にして設計されてるんだけど、でも「理性を機能させる」を成り立たせるのは、結構難しいことなんですね。
…ひょっとしてこれの理解が難しいのは、現代人とはきわめて理性的な人種だから「理性で考えるのが当たり前じゃないの?」と思うからかもしれない。「頭が認識する→体が動く」という順で我々じゃ考えがちですけど、逆です。「体が反応する→頭が認識する」の方が先に来る。それで反応できないという事態に直面して「頭→体」の順路が現れる。理性が体に動くよう命じる。
つまり必ず順番は「若者→長老」なのであって「長老→若者」ではありません。長老はテントの中に控えてるのが仕事なんだから。長老がでしゃばったら、村は混乱します。
さてこの「村人ー長老モデル」最後まで引っぱります。村モデルで重要なのは以下。
(1)外の世界から情報を受け取るのは若者の仕事である
繰り返しますが未知の情報は若者が持ってくるのであって、長老はテントから出ない。「未知」にダイレクトには触れない。村長は若者の代表が持ってきた情報の一部から答えを導きます。もし長老までテントの外に出てジャングルを探検したら、誰も緊急事態に対応できないし、情報量が多すぎて長老までいっしょに混乱してしまう。だから長老はテントの中で、自分がこれまで身につけてきた知見にもとづいてジャッジを下す。
ということで長老自体は、新しい知見って何も学ばないんです。長老にとって「未知」は存在しない。すべては神話の中で説明がつく。長老は「何でも知っている」とされていることが必要で、そうでなければ若者は長老を頼ることができません。
人間って、理性にしがみついているうちは、新しいことは何も学べないんですね。長老は新しいことを何も学ばないからこそ、動揺しないで仕事ができるのと同じで。本物の狂人が自分のロジックで完全に自己完結して、妄想の世界に閉じこもれるのは、長老がテントに引きこもって自己完結してるのと同じです。そうなれば長老は、若者=身体の意見をまったく聞かないし、命令だけはイップ的に下す。だから狂人はうんこだって平気で食えるんですよ。身体がうんこを拒否しても、理性は平然とGOサインを出して身体を動かしちゃう。それくらい理性は、合理的に間違える。狂人とは暴君が支配する荒廃した独裁国家のようなものです。
余談でした。
長老は若者の代表がテントの中へ持ってきた、情報の断片から「意味」を生み出す。だから若者たちが長老のもとに多すぎる情報を持ち込んだり、とんでもないもの(うんことか)を持ちこんできたら、長老はパニックになります。
長老に上がってくる以前の段階で、危険なものは若者自ら食い止めなければいけない。なんでも長老に頼ってはいけない。若者はうんこを見たら自分の判断で「こんなもの食えない!」と拒絶しなければならないのであって、「これは食べられるものでしょうか?」と長老の前に平気な顔でうんこを差し出してしまうのは、狂人一歩手前なんです。そりゃ長老だって、テントに引きこもりたくなるわって話で。何度も何度も若者がうんこを持ち込んできたら、長老だってそのうち「ひょっとしたら食えるのかもしれない…」って思っちゃいますよ。重要なのは若者にちゃんと仕事させることです。体調を整えろ、健康になれってのはそういうこと。若者の機能しない村が向かう先は、狂気か衰亡のどちらかしかありません。
メンヘラは自分の中の長老になんでもかんでも議題を投げてしまいがちですが、それでは長老が可哀そうである。若者にもちゃんと仕事をさせて、自分の中の長老を大事にしてやってください。大事にするってのは、後生大事に抱えるってことじゃなくて、ちゃんと仕事させるってことですね。理性にちゃんと仕事させるためには、身体にもちゃんと仕事をしてもらう。これが1点。
(2)長老の答えは、村人が納得さえすれば何でもよい
村人が「なるほど」と納得さえしてくれれば、長老の答えがめちゃくちゃなものでもいいわけです。ipadについて「これはその昔、岩を司る神様が……」と非科学的な説明をしたとしても、それで村人が納得して、村に平穏が戻るならばオーケー。理性とは、そして理性によって生み出される「意味」とは、それくらいにいいかげんで、だからこそよくできた、合理的なシステムなんです。だから「本当の意味」なんてものを探りすぎると、気が狂いかねない。意味が生まれるシステムは適当だからこそ、柔軟に機能するんだから。「あなたが出した答えはウソじゃないですか?」なんて若者が長老に向かって何度も疑問をつき返したら、長老は「俺は信頼されていないのか…?」と焦っていきます。自意識をぐるぐる回すほど、焦燥感ばかりが募っていくのはこれですね。
…ところでこのとき、長老が神話を知らなければどうなるか?
神話とは、自分の世界を包み込む大きな論理体系です。これがちゃんと確立していれば「どんなに奇妙なことがあっても神話の世界に位置づけられる」という安心感を前提にして、長老は堂々と若者に講釈を垂れる。どんな驚天動地の出来事が起ころうと、神話にこじつけてしまえばよい。そうすれば若者たちは安心するんです。
この神話がないと、長老は「俺はこう思うけど、根拠がないんだよなー…」って思考の堂々巡りをはじめる。困るのは村人です。長老はつまらない自意識抱えて悩んでいれば済むけれど、そうしている間にも本体の村は大パニック。「早く答えをくれ!」って叫ぶわけですね。だから精神の病ってのは、まず体=若者が悲鳴を上げることで現れる。「メンヘラ」なんて言うのは「メンタルが悪い」のではなく「メンタルとフィジカルが調和してない」のが問題なんです。「メンヘラ」って言うからややこしくなるのであって、ただの「ヘラ」と呼ぶほうが正確でしょう。
【「神話」とはそもそも…?】
「崇高な存在によるドラマ」です、神話を言い換えると。
たとえばギリシア神話には「愛を司る神」という自分たちの上に立つ存在がいて、「愛を司る神であれば、当然この神に対してこう行動するはずである…」といった人々の認識を、ドラマ仕立てにしたのが神話です。だから神話におけるドラマってパターン認識の束でできていて、非常に論理的なんですね。
「○○の象徴と☓☓の象徴が、こういう関係で交わるとこうなるあずである…」という論理が、具体的な形で持って現される。ギリシア神話なら「愛を司る神・アフロディーテ」と抽象概念が擬人化され、「古事記」の日本神話なら「河が海へと流れ入る河口で、海側を守る女性神ハヤアツキヒメの神・河側を守るのが男性神ハヤアツキヒコの神」というような自然の擬人化(しかも男女対になったりする)で、キリスト教の聖書なら「全知全能の神」が一人いるだけである…とこうした神話の構造の違いが、集団の精神構造の違いに反映されるというのは余談です(余談でもないか)。
まとめると「自分の外に崇高なものを見出し、それを言葉(=論理)で具現化したもの」こそが神話である。そして神話の中でも、ある程度広く社会に共有されているものを「大きな物語」、共有されない神話を「小さな物語」と呼びます(社会学用語で)。あんまり学術用語って好きじゃないんですけど、ちょっとの間これ使って説明します。
【「大きな物語」のない時代…】
さて、現代の日本において生存している「大きな物語」は、ほぼ皆無です。「社会に広く共有されている神話的な概念」はほとんど存在しない。「古事記」の世界のような日本神話はもちろんのこと、宗教もいまや力を失っていますし、「八紘一宇」に代表される大和魂もなくなってしまった。
「われ思う、ゆえにわれあり」で各々が自己完結している現代、当たり前のように共有される神話なんて存在しない。学歴神話も、ファミリー幻想も、ペガサス幻想も終わってしまった。しかしそれでも神話が1つあるとすれば「科学」でしょうか。後の『精神医学』の章で詳述しますが、結論から言えばあまりにも発展した科学は「素人にはわかりっこない以上、専門家に任せるしかない」という諦観を、否応なく人々に植え付けてしまう。自分で考えることを最初からあきらめさせてしまう。童貞はソープに行けじゃないけど、メンヘラは精神科行けって話で済ませてしまえば、メンヘラは治療されるべき、正常から逸脱した病人でおしまいですね。あとはお薬パクパクって、養鶏場のブロイラーと同じじゃねえかって思う。
というわけで「大きな物語」無きこの時代、我々はどう生きればいいか。一人ひとりが自分の中に、神話の代替物を持つしかない、「大きな物語」に代わりうる「小さな物語」をたくさん抱えて生きていくしかないとは批評家の大塚英志が口を酸っぱくして言い続けてきたことですが、それしかないだろうと俺も思っていて、そうして思い出すのは宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」の主人公、堀越二郎です。
堀越二郎は、まさに「小さな物語」を生きた、というか生きざるをえなかった人ですね。日本が急速な近代化を進め、お国のためにという「大きな物語」に人々が巻き込まれていく中、二郎はそこにリアリティを見いだせなかった。彼はむしろ「国家」という人工的な概念よりも、「空」や「さばの骨」といった自然の中に自分を超えた崇高なものを見出し、その美しさを設計図の中で具現化しようとする。憧れを論理でつかまえて、それを自分の中に位置づけようとする。彼にとっては美しい飛行機の設計こそ「小さな物語」でした。
彼は半分、神話の世界に生きていて、物語の途中までそのことに無自覚でいるから、とても夢見がちなんですね。でも「自分の頭で考える」という近代をスタートさせるには、そこから出発するしかなかった。自分の神話を抱えてはじめて、自分の頭で考えられるようになる。
二郎を取り巻く「大きな物語」に巻き込まれていった人たちは、結局のところ「日本」を「長老」に置いちゃったんです。何かあったら「お上の言ってることだから正しい」で済ませてしまった。これではいつまでも、自分で考えるということができません。
宮崎駿がいま堀越二郎を描いたのは、「自分の頭で考えるには、夢見がちなところから出発するしかない」という近代のあるべき人間の姿を子どもに伝えたかったからだろうと思うのですが、風立ちぬに深入りするとめちゃくちゃ長くなるので切り上げます。本当にいい映画でした。
…というわけで、二郎のように「小さな物語」を、自分を成り立たせるための神話を作るのに必要なものは何か。といえば「教養」ですね。二郎だってちゃんとした教養があってはじめて、社会の中で生きていかれたわけで、ボーッと空に憧れてるだけでは野垂れ死んでしまいます。困った事態に直面したとき「こんなとき昔の人はどう考えただろう…?」「昔読んだ漫画でこんなシチュエーションあったぞ…」という教養体系があれば、それだけで理性を導く手がかりとなります。ぼんやりとした思考を「意味」という形に具現化するためには、教養が必要なんですね。
で、この神話のもととなる教養づくりをサボれば、自分の頭の中で緊急事態を処理するしかなくなる。そうすればゆくゆくは自意識に押しつぶされるか、あるいは自分の外に神を見出すしかなくなってしまう。自分の外に神を見い出せば、宗教にハマったりとか、恋人を神に仕立てあげたりとか、オーケンを追っかけたりとか、まあそういう道もありますが、それはしかし長老の責任放棄じゃねえかと思います。別に宗教にハマってもいいけど、現に生まれてしまった長老がかわいそうじゃねえの、それっていつかしっぺ返しが来るよ、と思う。長老を一時的に無視することはできても、完全に殺すことはできないし、いつか長老が目を醒ましてしまう日は来る。一生オーケンを追い続けるわけにはいかない。だったら長老の口を無理やりふさぐんじゃなく、長老を村の中に位置づけて、ちゃんと村全体を機能させる、という方向で頑張ったほうが健全だと思います。が、もしかして俺は相当難しいことを言ってるんじゃないか…?
【メンヘラとはなにか?】
なにやらとんでもないことを言ってる気がしてきたけど、まあいいや。メンヘラとはなにか。いったんまとめます。
「狂人は理性だけが機能している」と最初に述べましたが、これは村で言えば「長老が若者を無視して独裁を振るっている」という状態です。そしてメンヘラが狂人の何歩か手前だとするならば「若者が長老に議題をどんどん投げる」という長老に過剰な負荷をかけ続けている状態、理性を酷使している状態。これがメンヘラ的な思考形態であります。このときメンヘラの中の長老は独裁者ではなく、仕事を押し付けられた可哀そうな被害者ですね。
さて、山積みになっていく議題を前に、メンヘラ村の長老はどうするか。「若者は頼りにならんから、ワシが全部命令を振るってやる!」と張り切れば、意味を過剰に生み出す精神状態、「目に映るすべてのことはメッセージ」的な統合過剰の躁状態になる。「どうすればいいかわからない…」と議題を未解決のまま溜めて意味付けをサボれば、自分に起きてることの意味がわからない、生きていても意味がないと絶望する、統合失調の鬱状態になる。
いずれにせよ「長老のまえに議題は山積み」という状況は躁鬱ともに共通していて、それにどう対応するかでどっちにも転びうるわけです。
…まあ便宜上「メンヘラ」という言葉を使ってますが、理性を持った現代人はみんなこうなりうるわけで、メンヘラだけが特別なわけではありません。普通の人だって鬱にも躁にもなるんだから。メンヘラは長老に議題を溜めてしまいやすいパーソナリティである、というだけで。俺に言わせりゃ現代はメンヘラじゃない人間のほうがおかしいですね。理性を前提とした現代の日本は1億総メンヘラ社会なのだから、自分だけがおかしいなんてことはないです。世の中全部がおかしいんだ。
…ということで前半終了。後半はこの村モデルを応用して、下記のメンヘラ用語を解説します。
1,リストカット
2,承認欲求
3,OD(オーバードーズ)
4,多重人格
5,精神医学
7,お笑い
もういちど確認すると「人間=村、若者=身体、長老=理性、神話=教養」。脳内物質とかなんとか難しい用語抜き。この対応関係で全部を説明します。やるぞ!
【補講:なぜ人間は頭の中に村をつくったのか?】
ところでこの村モデルは、あながちこじつけでもない。というのは、人間社会の進歩と歩みを同じくしているから。
まず原始、小さな集団で生活を営んでいた人間たちが、集団は大きい方が有利だということで固まり、より大きな部族社会が発生する。彼らの関係が安定し、定住をはじめれば、そこには上下関係のヒエラルキーと、それに伴ってその土地固有の信仰が生まれる。信仰がないと、集団を一つにまとめられませんから。この段階が先ほどから述べている村のモデルで、「長老」という役職もここではじめて生まれます。
「その土地固有の宗教」とは、「豊作を祈るために土地の神様を祝福する宗教」ですが、この土着の宗教は歴史が進むと「個人の内面に訴えかける宗教」に取って代わる。「仏教・キリスト教・イスラム教」の世界三大宗教はこれですね。歴史の発展段階では徐々にこうなっていく。土地に根付いた宗教は土地を離れられないがゆえに、たとえばキリスト教のように「世界中に信者が19億人!」というわけにはいかない。キリスト教はローカルな土地ではなく、個人の内面という「土地」に根付くことを選択できたため、今日まで拡大しました。
さて、この内面に訴える宗教は、人間と神(仏)が1対1で向き合うことになる。たとえばキリスト教世界。そこには教会なり修道院を中心とした信者のコミュニティがあって、そこに教会をまとめあげる神父でもいれば、彼が長老の代わりになります。個人は直接神とは向き合えないから、代表者たる神父を通じて神と向き合う。
が、そこから歴史はプロテスタントという、聖書至上主義の派閥を生みました。プロテスタントは教会を挟まず、個人と神が聖書を挟んでダイレクトに1対1で向き合います。ということは、長老の役割を果たしていた教会の神父様は抹消され、自分が「神父=長老」の役割を兼ねるしかない。そうして「自分=長老」が頼るべき神話とは、ここでは聖書です。ただひたすら聖書を信仰するピュアな人々だから「ピューリタン」とも呼ばれたんですね。
そして最後に「われ思う、ゆえにわれあり」という、人間が人間として自足する近代合理主義が西欧ではじまって、「神は死んだ」で神が内面から追放される。神はいなくなるけど、「長老=自分」は変わらず、長老は神に頼れなくなり孤独である。だからヨーロッパのこの時代、人々は目に見えるものにすがりつく。人々が私的な日記をつけはじめるのも、商人が富の貯蓄をはじめるのも、画家や詩人がリアリズムに固執しはじめるのも、すべてこの時代です。
目に見えるものに人々が必死でしがみつかざるをえなかった西欧の近代は、かなりしんどく、寂しい時代だったはずですが、それが何を間違ったか、産業革命と二度の世界大戦を通じて、世界中を覆い尽くす当たり前の思想となってしまった。そうした狂おしいほど寂しい近代の延長線上に、現代のわれわれがいるんです。思えば近代とは、神を世界から追放してしまった寂しさを埋めるために、他人を支配せざるをえなかったメンヘラの時代だったのかもしれません。
「そりゃ神話が必要だわ…」と思っていただけたかどうかわかりませんが、とにかく人類は、村から長老を追放し、自分の頭のなかに長老を置くことを選択してしまった。だから自分の中には村があるのである。これは抑えておいてください。
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以上は同人誌「メンヘラリティスカイ」に寄稿した俺の原稿、前半部です。11月4日(月・祝)に開催される第17回文学フリマにて頒布。詳しくはこちら。
「第17回 文学フリマ参戦のお知らせ」
http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/173722
執筆者は個性的な顔ぶれですし、俺のページ以外は見どころ満載だと思います。ぜひぜひ。
しかし前半部だけで10,000字超えるとは…。ノリノリで書いたのでとんでもないことを書いてる気がしますが、ご容赦ください。後半部はさらにとんでもない。
でも書いてることは冗談でもなんでもなく、本気で思っていて、メンタルは変えられない、薬に任せるしかないと思ってたら、本当に絶望しかないですよ。
どうか言葉をあきらめないでほしい。そういう願いを込めたかどうか、今となってはわかりませんが、文フリ当日は会場ぶらぶらしてます。くれぐれも背後から刺さないよう、よろしくお願いピース。
※追記
電子書籍版のDL販売はじまりました。詳しくはこちら。
http://hallucinyan.hatenablog.com/entry/2013/10/26/093925
※補足
「精神病は脳の機能障害だ」という意見、やっぱりいただきましたが、本当にそうでしょうか。たとえば特定の脳内伝達物質が出にくい人がいるとして、その人は「脳に障害があるから、認知がおかしくなる」のではなくその逆で「認知パターンがおかしい結果、脳の作用に偏りが出てしまう」かもしれない。どちらの場合でも観察されるのは「脳内伝達物質が出てない」です。
まあ正解はどちらか一方ではなく、その相互作用なのでしょうが、だとすれば認知パターンを修正していくことで、脳の作用もまた変わっていく可能性は十分あるんじゃないですか。今の医学はそこまで解明できていないはずで。
「精神病」という概念が発明されたのはここ100年くらいのことで、それ以前だって人類は、今だったら精神病と言われる類の症状に対処してきた。なのにそれまでの知恵を一切捨てて近代医学だけを正しいと思い込む、というのは危険だと俺は思います。一般論として「精神病」はあっていいけど、自分が生きていくうえで、それを鵜呑みにして落ち込む必要はない。別の解釈モデルを持って、自分の人生に役立てたっていい。一般論と各論は別にあっていいという、そういう話です。