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ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

「コミュ力」についてゼロから考えた

コラム

「社会生活を営む上では、コミュ力がもっとも重要である」

…という上記のテーゼは真か偽か。まあ、どちらとも言える。

論理的に言えば、この文章が示しているのは「私は『社会生活を営む上では、コミュ力がもっとも重要である』が真であるような論理的前提に立つことをここに宣言します」でしかない。あなたがそう思うんならそうなんでしょ、あなたの中では、という話で、どんな命題もここへ行きつく。

でこの命題を分解すると、以下のことを前提としている。

 

・「社会生活」という概念が存在している。

・「社会生活」は営めるものである。

・主語が省略されている。いつどこの誰が社会生活を営むのか。

・「コミュ力」という概念も存在する。

・「もっとも重要である」という語は、コミュ力と並置される概念が複数存在することを前提としている(握力とか財力?)。

 

…これだけの文章でも省略された前提ってのは膨大で、全部指摘したら頭がおかしくなるのでやめます。

とにかく隠された前提が多すぎて、問題だらけ。だからいけない、というわけではなく、言葉はこれくらいめちゃくちゃなもので、そのめちゃくちゃさを引き受けるかどうかなんだけど、それはまた後で。

とにかく「社会生活を営む上では、コミュ力がもっとも重要である」という文章を受け入れるということは、それだけで膨大な前提を飲まされるということだ。言葉の怖さはここにある。

この命題の場合、ひとつ大きな問題は何かというと、隠されている前提として、所有のメタファーがあることだ。「社会生活を営む主体は個人であり、コミュニケーション能力は個人に帰属する」ということをこれは暗黙の了解としているからで、先のテーゼはたとえばこう言いかえられる。

 

「人間が『コミュ力』を所有している場合に、その人間はより良い『社会生活』を持つことができる(可能性がもっとも高くなる)」

 

「have a good time」なんて言うように、英語では時間に対しても所有の文法を使うし、才能があるという場合にも「have a talent」になる。ところが日本語は場の論理が中心で、「才能がある・時間がある(There is…)」という言い方をする(月本洋「日本人の脳に主語はいらない」はこのあたりの論ですごくおもしろい)

 

ごく自然な日本語の文体で所有の論理を表そうとすると、多くの場合、所有の論理を裏側に隠すことになる。一見おだやかそうな文章を書いているが実はマッチョ、ってのは学者なんかに多いけれども、それはこういうこと。で、ジョーク以外の文脈で論理を並べるのが怖い人って俺を含めいるんだけど、それは叩かれるのが怖いというだけでなく、このマッチョ思想が裏側で発動してしまうのが怖い、というのがあると思う。所有の欲望は隠されているだけに、ちょうどコートの下でおちんちん出してるようなもので、素っ裸よりグロテスクでもある。

 

「時間を持つ」のように所有の論理は「主体が客体に働きかける」というアナロジーを採用している。ただそこにある、ということはありえない。時間はただそこに流れるものではなく、人間に帰属すべきものであるし、才能だってただ純粋に自分に帰属するものである。

しつこいようだけど、それが正しいか間違いかというのは立場の違いにすぎない。私はそういう論理的前提を採用する、所有の文法が真である世界を生きている、という表明にすぎず、その人はそういう世界観の下で生きているのだなあ、と思うのが論理的に正しい姿勢である。「社会生活を営む上では、コミュ力が重要である」という文章はそれだけでバイアスがかかっていて、うっかりするとだまされやすい(そしてだまされるのがいけない、というわけでもない)。

【でようやく本題に入るけれど…】

「コミュ力」ってなんだろうか。

「コミュ力」なるものが本当に存在するのかどうか、という議論は何度も言うように間違いで、それが存在すると信じる人間にとって「コミュ力」は存在するし、そう思わない人間にとっては存在しない。問題にすべきは「コミュ力」という言葉が成立するためには、それが現実的に有効に機能するためには、どのような論理的前提が必要となるのかを考えなければならない(めんどくさいですね)。

 

「コミュニケーション」と「能力」を悪魔合体させるには何が必要か。

「コミュニケーション」という言葉自体がまず、当たり前だけど日本語には存在しなかった。これと同等に近い言葉が世界中の言語のどれほどにあるのか。人間は当たり前のように話すし、手紙を書くし、セックスもする。それらすべての行為を上空のメタ視点から眺め、「コミュニケーション」というカテゴリで括る。「そう括る必要がある」と思う人間が存在してはじめて、「コミュニケーション」という言葉は生まれる。

 

たとえば鈴虫の鳴き声を聞くのは一般にコミュニケーションと呼ばれているか、と言うとそうではないだろう。

「コミュニケーション」と一般に呼ぶケースと呼べないケースがあって、その線引きによって、人間はコミュニケーションできる相手とそうでない相手を暗黙裡に峻別している。「コミュニケーション」という言葉自体には何の意味もないけど、それによって区切られたあちら側とこちら側の関係には意味がある。

 

で、「混沌から秩序を生むために、人間は言葉で世界を分けたのだ」、というのは不正確で、実際のところ、言葉によって混沌は生まれるし、同時に秩序立てもする。「コミュニケーション」なる概念が登場すれば、じゃあこれはコミュニケーションなのか?そうじゃないのか?という紛糾が生まれる。秩序を生むために作られた国境をめぐって人間が争うように、線引きをしたがる人間の間では必ず争いの種がある。

線を引くのが正しいか否かではなく、線を引くという行為は、良くも悪くもそれ自体が争いの種を生むのだ。

「コミュニケーション」という言葉は、コミュニケーションが成立する関係と、そうでない関係を区別してしまう。農家が畑で立派な作物を育てる能力を「コミュ力」とわれわれは言わない。そしてそのことは不問にされる。くだらないと思われるかもしれないけど、目を逸らさせるのがイデオロギーを通すための常套手段だ。ちょうど、意識もしないふつうの文章の中に所有の論理が隠されてしまうように。

 

「『コミュニケーション』の語義があいまいだからダメなんだ。ちゃんと定義しろ」というのが正論のようで危ういのは、結局これも、言葉と意味が1対1対応させたい、という所有の欲望に基づいているからで、一つのイデオロギーでしかない。百科事典や辞書の編纂自体が、所有の欲望を是とする近代になってはじまったもので、中立的なものではまったくないし、そもそも中立的な言語などというものは存在しない。

「語の定義を始めた時点で近代が要請する文法に基づくしかなくなるんだ」という本当に面倒くさい議論がある。言語はどこまでも流動的なものであって、蝶の死体をピンセットで止めて観察するように、固定された言葉を操作しよう、解明しようとするのは近代特有の欲望である。定義した瞬間、言葉は生命を失っていく。もちろん死体の観察が無益だとは言わないけれど、現実の生物はみな生きて、刻々とその姿を変えているし、原子だって崩壊している。現実をそのまま科学の対象にしようとすれば、変数が多すぎてわけが分からなくなる、少しの入力の差がとんでもない出力の差を生む量子力学の世界になってしまうという話は、膨大すぎるのでやめます。俺はコミュ力の話をしたいんだ。

 

【俺はコミュ力の話をしたいんだ】

「コミュニケーション」の話はしたので、次は「能力」。こっちがまた厄介で、これだけ厄介なものを2つも並べてんだからコミュ力を巡る議論が簡単になるわけがない。

「能力」ってのは「能う(あたう)・力」で、ある課題の達成を可能にする力だ。だからコミュ力は「コミュニケーションを成立させる力」ということだけども、「能力」という熟語自体、標準語が官によって作られていく近代以降に誕生したものだ。それ以前、「力」は単に「力」、相手をねじ伏せるための腕力なり権力という意味しかなかった(と思うけど、少なくとも「能力」というアナロジーは使わなかった)。

 

で世界の様々な現象を表すのに「力」というメタファーを採用した古典力学が西洋で誕生した17世紀、いわゆる「ニュートン力学」だけども、このメタファーは自然科学以外の領域でも広く適用された。有名所で言えば、フロイトの精神医学は「力動精神医学」と称されるように、リビドーという性的エネルギーが人間の動力になるという熱力学と同じメタファーで精神を説明したものだ。近代科学の文法に従って、あらゆる領域が「力」のメタファーのもとに位置づけられる。「力」というメタファーは、数量化して数直線上に並べることが容易で、便利なのだ。「能力」という言葉もだから、近代の産物である。能力、つまり「力がそれを可能にする」という物語は近代科学の文法に他ならない。

原子だの分子だって人間が現象を理解するための一つの説明原理で、量子力学によれば、この宇宙は13次元で、観測不可能なひも状の物体かもしれないのである。「科学は正しいか?間違っているか?」ではなく、科学は一つの解釈体系であって、である以上当然、メタファーを前提にする。科学は一つのメタファーにすぎない、とはアンチサイエンスでもなんでもなく、科学哲学の基本だ。

 

…めちゃくちゃすっ飛ばして書いてますけど、ちゃんと書いたら本当に膨大になる。でも膨大を無視して、論理の前提に無自覚なまま「コミュ力が云々~」と理屈をこねくり回したってろくな論にはならない。「コミュ力」というワーディングを採用すること自体が「弱者とは力を持たざる者のことである」という近代の論理(人間の行動原理を数量化できる力のメタファーで捉え、それを定義によって固定化する)を強化することになりかねない。

「コミュ力」という概念に反発したい人が「非コミュで何が悪い」と開き直るのは実際、筋が悪い。「非コミュ」というワーディングを採用した時点で、人間を数直線上に並べる、世の中にとって好都合なモデルを採用することになるし、不利でしかないポジションに自分を固定してしまうことになる。

近代だなんだって俺が連呼しているのは、現代の基板となっているメタファーは、この近代科学の論理を人間の精神にも応用したものだからで、要するに近代合理主義は今も神様なんだ(アレンジは加わってるけど)。近代は終わった、これからはポストモダンだなんて言われたけど、ポストモダン思想は結局、神様にも神話にもなれなかった。近代はまだ続いている。

*** 

人間社会の歴史とは、メタファーの覇権をめぐる争いの歴史にほかならない。先日の記事(http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/205745)「ただのたとえ話じゃないか」と評されて、それはそのとおりだけど、歴史とは有効なたとえ話の覇権をめぐる戦いのことなんだからたとえ話をバカにしてはいけない。

科学も宗教もイデオロギーも、すべては「どのようなメタファーを採用しているか?」に議論は集約される。その社会では、どのようなメタファーが是とされ、どのようなメタファーが非とされるのか。どのようなメタファーに説得されるのか。人間社会の歴史とは、言語とパワーバランスを巡る系譜だ。すべてをメタファーで捉える視点を得なければ、自分の足場なんてわからないのだし、自分の頭で考えるなんてことはできない。自分の足場をいったんは相対化しない限り、自分で考えているつもりが、まんまと支配的な文法に考えさせられているだけ、という悲劇が待ち構える。言葉で世界に対峙するには、それだけの地力が必要なんだ。

【アウトサイダーの論理】

…まあすべてをメタファーで語るというのは狂人の話し方として有名なんですけども、発狂するというのは「その社会を支えるすべてのメタファーが信じられなくなる」ということだからですね。彼/彼女の前ではあらゆる概念が等価になるから、常人がメタファーでつながないようなものまでつなげてしまう。社会の価値観はすべて幻想だ!って見破ってしまうと、その外側には廃墟しかない。劇場版まどマギの世界はまさしくそうで、正しいことを貫くのはひどく大変なことなんだ。

 

すべてはメタファーにすぎないという相対化の海を前提にして、かつ発狂せず、現世の論理とも調和していくためには、自分なりの論理的基盤、教養体系であり、論理を支えるための物語文法が必要だってのは、前の記事でも書いたとおり。自分の頭で考えるってのは膨大を抱え込むってことで、それでかしんどいことだし、つらいことでもある。

繰り返すけど狂人ってのは、その社会のメタファーを共有できないに人間に貼られるレッテルにすぎない。ある世界での狂人は、違う世界でのヒーローだ。正常も異常も、すべては相対的なものにすぎない。といって、「すべてのものは相対的である。だからあらゆる価値観はウソで、信じるに値しない」というニヒリズムに陥らず、また発狂して自分の世界に閉じこもることもなく、廃墟から自分の言葉で世界を秩序立て、調和を目指す。これが近代が持ちうる唯一の可能性だと俺は思うんだけど、なんで「コミュ力」からこんな話になったんだ…?

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で、この先はどうなるかといえば、この「個人」を「社会」に応用すればいい。「コミュ力」という定義が拡散しているから議論にならない、と投げ捨てるんじゃない。現に「コミュ力」という言葉がこれだけ流通しているということは、語の定義の前段階、「コミュ力」が暗黙のうちに前提としている部分で、社会の中で共有されている要素があるということで、じゃあその「コミュ力」というワーディングは何と何を峻別し、人間の意識に、社会に、どのような動きを生むのかって構造の全体を考えなければいけない。んだけど、めちゃくちゃ面倒くさい。自分の頭で考えるってのは、この面倒くささと付き合う覚悟があるかどうかなんだろう。だからこれからは何万字も書くしかねえんだ、って吹っ切れてるんですけど、これは傍から見たら絶対怖いな。

でこれだけの面倒くさい前提を抱え込んでようやく、「コミュ力」の問題についてスタートを切るわけですが、面倒なので今日はやめます。勢いで書き散らかしちゃっただけなので、また気が向いたら。

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…今回のは久しぶりに書き散らしただけなので、わけがわからないと思いますが、こんなわけのわからないことを言っている人間でも社会生活を営めていること、言葉をあきらめていないことを知っていただけるだけでも、有益になればいいなと思ったり願ったりでございます。言葉は何の意味も持たないってことは絶望かもしれないけど、絶望はスタートでしかないんだ。

 

※追記:11月4日の文学フリマ、行きます。よろしくお願いします。

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/10/26/173722