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黒髪ロングはなぜエロいのか? ―黒ロンでたどる日本文化史―

「9月6日は黒ロン(黒髪ロング)の日」

ということで黒髪ロングでたどる日本史文化史、やります(やるぞ!)。

 

【黒髪ロングの誕生 奈良時代~平安時代】

日本における黒髪ロングの起源は言うまでもなく平安時代。誰もが知っている「平安美人」のヘアスタイルですが、それ以前の美人像とは果たしていかなるものであったか?

これは意外と知られていないし、知りたいとも思わない、あるいはまったく興味がないのではないでしょうか。

それでも説明しますけど、中国の美人像といっしょです。

平安時代のひとつ手前、都が平城京にあった奈良時代、文化を担う貴族たちはせっせと唐の文化を取り入れておりました。「進んでる中国さんをお手本にしよう」ということで、女性の理想像も当時の中国の王朝=唐のそれになります。

が、それから平安京に都を移してしばらくした894年、「白紙に戻そう遣唐使」で遣唐使を廃止、鎖国体制がスタートします。「俺たちには俺たちの文化がある!」ということで以降、日本独自の「国風文化」が育まれ、美の基準も変化していく。こうして日本固有の平安美人が誕生する。

 

さて、天平時代の日本の美女を描いた「鳥毛立女屏風」と「源氏物語絵巻」に描かれた平安美人を並べてみます。

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(左が天平文化の美人、右が平安時代の美人)

パーツは似てるけど、違うでしょう。どうしてこうなったか。

 

「鳥毛立女屏風」は唐風の美人です。

この画は輪郭線しか残っていないため白髪に見えますが、ここはもともと、羽毛で飾られていたそうです。おそらくはカラスか鵜の黒い羽毛が頭部に貼られ、艶やかな黒髪を表現していた。現在はそれが剥落した姿ですが、ここに描かれたるは紛れもなく黒髪の和製美人です。

当時のヘアスタイルは正確にはわかりませんが、おそらくは唐風に、ゆったりと大きく束ねてあったのだろうと推測されています。つまり「黒髪=美」の概念は平安以前から存在していたけれども、平安スタイルの垂髪はまだ流行しておらず、唐風に結うことが美とされていた。

平安美人のほうは、おなじみの黒ロンですね。美人です。

 

さて、両者の異なる点を並べてみます。

 

髪…唐風に結った黒髪 ⇒ 長く垂らした黒髪

服…動きやすい唐風の装束⇒10kg近くて動けない十二単

顔…大人の女性らしい肉付き。血色も良好⇒子どものような華奢さ。白粉で血色は不明

 

これらの変化が示すものは何か?

「肉体の肯定⇒肉体の否定」です。

要するに女性からアクションを奪った。女性のお人形さん化、二次元化ですね。

めんどくさいからという適当な理由で遣唐使を廃し、京都に引きこもった平安貴族たちは、結果的に女性を観念の世界に閉じ込めるオタクと化していきます。

平安美人の長い垂髪は長ければ長いほど美しいとされ、長い女性は2m以上あったそうですが、当然これはものすごく動きにくい。十二単はそれだけで10kgを超えるほどで重く、ものすごく動きにくい。平安時代の女性たちは、着物の重みに耐えきれずほぼ終日腹ばいで寝ていたそうです。物思いにふけるとすぐ横になるのも無理ないことでした。

そしてさらに当時は食事も粗末とくれば、筋肉も脂肪も発達せず、女性らしい丸みを帯びた身体は失われ、血の気も退く。そうして女性は、ますます出来のいい人形と化していく。

こんな状況が300年近くも平和に続いてしまったのが平安時代のおそるべき点ですね。エロゲーというか、怪奇小説の世界だ。

 

こうして黒ロンは「お人形さんの美」の象徴として定着します。「洋館に閉じ込められたお人形のようなお嬢様」といえばまず間違いなく黒ロンですが、平安時代の女性は全員がそうなっていく。

 

以下は蛇足ですが、創作に割とありがちな、洋館を舞台にしたいかがわしい物語って「魔性の美少女をめぐって争いを繰り広げる、欲深い男たちの陰惨な物語」って感じでしょ。ところが洋館でなく和風の寝殿造を舞台に妄想が繰り広げられた平安時代は「女性を所有する」という西洋的な発想がないんですね。

だから女性はお人形でありながら、誰も独占しようとせず、みんなでシェアする。当時は多夫多妻が当たり前で、そんな「紳士の時代」だからこそ女性を巡る争いもそうは起きず、平安時代は300年にわたって平和が保たれたっていう、まあ何が平和なのかわかりませんけど、そういう時代もあったんですね。

男性も女性も平和な妄想の世界、酒池肉林のシルバニアファミリーみたいなイメージと言えば怒られそうですが、そうかもしれません。

 

【黒髪ロングはなぜエロいのか】

黒ロンの話に戻します。

平安時代、女性の美の基準は「髪が長くて艶やかである」だけでした。

それもそのはず、高貴な女性は御簾の向こうに隠れていて、男性が見ることを許されるのは、御簾のすきまからのぞく「十二単の端っこ」と「長い髪の毛の端っこ」。この2つしかありません。

 

「服のセンスいいな」「髪がきれいだな」しか判別する要素がないという話で、髪型と服を取りかえただけでブサイクは美人になりかねない。

なんだか変な感じもしますが、現代で言えば「判子絵」はこれと同じですね。顔のパーツはみんな同じで、服と髪型を変えれば別の人間になってしまう。でも全員美少女っていう。判子絵を描く人にとって女性の理想像はただ1つしかなく、現実が平安貴族みたいに見えてるのかもしれない(あるいは単に絵が下手なのかもしれない)。

絵巻物に描かれる平安美人はみんな同じ顔ですし、浮世絵の女性もだいたい同じ顔してますし、美人っていうのはそもそも「判子絵」なんですけどね、多くの文化では。美人とはそもそも観念の中の存在で、固有の肉体を持ったものではない。だからあんまり判子絵をバカにするもんじゃないぜと思うんですが、脱線でした。

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(先ほど貼った「源氏物語絵巻」のズームアウト図。顔どころか角度まで同じ)

 

話を戻して、セックスの話をします。

「まぐわう」という言葉、現代では「セックスする」の意ですが、これは平安時代に生まれた言葉で、語源は「目合う」でした。「目が合う」がそのまま「セックスする」そして「結婚する」をも意味したのがこの時代でした。(「見る」という言葉も「セックスする」「結婚する」の意味があります。これは高校の古典でやったな)

平安時代とは、男性が女性の顔を見てしまった時点でセックスの合意が成立、そのまま男が3日連続で女の家に通えば結婚が成立、という現代から見ればむちゃくちゃな時代でした。「目が合った=即結婚」とはオタクの妄想でもふつうそこまでジャンプしないですね。観念的にもほどがある。

 

現代であれば、たまたま女の子と目があって「あの子、俺のことが好きなのかもしれない…」と思い込んでしまう男は「自意識過剰キモ男」で済みますが、平安時代に「自意識」なるブレーキは存在しない以上「目が合った⇒即セックス」。C級エロアニメかよ、という話ですが、これを理解しない女は「趣がない」として悪いうわさの対象となります。この閉鎖された都において、悪いうわさが立つのは何よりも怖いことですから、男も女もそこだけは気をつけていたというか、そこに気をつける以外に何もない時代でした。へぇ~。

***

ところで平安時代、髪の毛はわれわれが思う以上にエロティックな存在でした。

考えてみれば髪の毛とは、「自分の肉体の一部でありながら、しかし肉体と呼べるか怪しいもの」であります。髪は自分の体から生えてくるけれども、その細胞自体は死んでいる。切り落とせば自分のものではなくなる。

自分と外界のあいだに存在する、中間的な存在が髪の毛です。だからこそ女性の体が男性の視線に晒されてはいけない時代に、髪の毛を見せることだけは許されたのです。つまり髪の毛は他者を迎え入れるためのインターフェイス、コミュニケーションの入口として機能しました(って言うとかっこいいけど意味がわからんな)。

 

平安時代、女性は成人すると黒髪ロングのお人形さんになりました。

人形になる前、髪が伸びない子どものうちは「尼削ぎ」という肩まで切りそろえた髪型で、成人してから「こんなただれた世界は嫌だ!」と出家して尼になるときも、伸びた髪を切って「尼削ぎ」になる。つまりこの当時、男性を受け入れられるのは黒ロンの女性だけだったということです。

「髪の毛を伸ばしている」とは「男性を受け入れる準備ができている(=私はセックスOKよ)」を示す記号でもあったわけです。黒ロンに漂うエロスの理由はこれかもしれませんね。今でもエロスを感じるのだから、当時の黒髪は、どれほど生々しいエロスを漂わせていたことでしょう(実際、イスラム教徒の女性がスカーフを頭に巻いて髪の毛を隠すのもこれです。髪の毛を人目に晒すのをめちゃくちゃ恥ずかしがる)。

 

【黒髪ロングはギリギリモザイクである】

この時代の黒ロンは、女性にとっては「お人形であることの象徴」です。

では、男性にとっては、どのようなものだったか?

品格のあるたとえをするなら、AVのモザイクです。

モザイクはたしかに肉体を隠してはいるけども、イマジネーションを膨らませれば見えなくもない、そういう中間的な領域です。

平安貴族は女性の長く伸びた髪の端を見て、AVのモザイクを見てしまったレベルに興奮し、「ありのままのそれが観たい!!!」と御簾の向こうへ突進していった。だからこそ光源氏のように「恋多き男」になるのだろうし、一度結ばれてしまったらめちゃくちゃ冷たい、という悲劇も山ほど出てくることになる。モザイクを取ってしまったら、意外と味気ないもんですからね(知らないけど)。平安時代、女性と恋愛するのは、現代で言えばネットでエロ動画漁る感覚に近いものだったと思われます。

 

ところでアダルトコンテンツの局部にモザイクをかける文化なんて日本だけだそうで、なるほど「国風文化」であるなあと思います。

考えてみれば、黒髪の端に欲情するのも、モザイクに欲情するのも、人間離れした造型のアニメキャラに欲情するのも、もしかしたら全部異常ではないでしょうか。たかが記号に全力で欲情するのは、今も昔も変わらない。

黒ロンは清楚の象徴どころか、ジャパニーズHENTAIの起源だったのかもしれません。

 

※めちゃくちゃなこと言ってるようですが、この時代がめちゃくちゃなんです。平安時代の色恋事情は橋本治『源氏供養(中公文庫)』が異様におもしろい。源氏物語は紫式部という極めて冷静な観察眼を持った女性が描いた、イカれた閉鎖世界のレポートかもしれない。

 

【黒ロンの断絶 平安時代~江戸時代まで】

黒ロンを汚しまくってますが、最後にはなんとかします。安心してくれ。

 

さて「黒髪ロング=女性の美」は江戸時代のはじまりとともに終わり、江戸からは日本髪の流行がはじまります。なぜ黒ロンは途絶えたのか。

答え。京都が文化の中心から外れるため。

 

黒ロンの全盛期を生んだ平安時代は鎌倉幕府の成立により、その栄華を終えます。終えますが、京都はまだまだ文化の発信地。なにせ鎌倉幕府は武士政権、文化なんてなにもない農民出身の田舎者たちの集まりですから、文化については京都のそれを参考にするしかなかった。

その一方で、鎌倉時代は武士の時代ですから、男が肉体を主張しはじめます。平安時代の貴族の男は、肉体を軽視した観念的な存在でしたが、農民はマッチョです。だから男性の理想像は運慶が彫った「仁王像」のような力強いものになる。が、女性はまだ肉体を持たないお人形さんです。男だけが社会を作って、女性はお人形さんのまま放置される。だから鎌倉時代、黒ロンは美です。

 

鎌倉の次が室町時代。京都に本拠を置く室町幕府は朝廷と仲良し。京都の文化と調和するため黒ロンは相変わらずの美ですが、足利家の支配体制は次第に崩壊。室町幕府の力が弱まるにつれ、全国に群雄割拠する戦国時代へ突入します。

乱暴者の織田信長が天下統一をして黒ロンはいよいよ消滅の危機か…?と思いきや、安土桃山時代は文化の中心を大阪に置き、ご近所の京都の文化はまだ健在です。大河ドラマを思い浮かべればわかるとおり、豊臣秀吉の側室、淀君は長い垂髪ですね。これが最後の黒ロンでした。

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(最後の黒ロンこと淀君。さすがに武士の妻、平安美人ほど人形してない感じである)

徳川政権の江戸時代に入って「これからは武士の時代だ!」と、当時はまだド田舎であった江戸を文化の発信地にしようという動きがはじまる。こうして京都は、平安以来はじめて、文化の中心地から外れ、黒ロンの歴史も絶たれます。

 

さて、江戸における結髪の流行は、歌舞伎役者「出雲阿国」にはじまります。

江戸初期に流行した「遊女歌舞伎」は、名前のとおり遊女(風俗嬢)が演じる歌舞伎。だから遊女が男役も演じます。そこで遊女歌舞伎界のカリスマ、出雲阿国が頭に髷(まげ)を結い、男役を演じるのですが、文化といえば歌舞伎と風俗しかないド田舎の江戸でこれが大いにウケた。ここから江戸の女性たちは遊女のマネをして、髷を結うようになります。

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(江戸初期の遊女たちを描いた「松浦屏風」。この時代は垂髪と結髪が共存し、結い方も自由)

風紀委員のごとく厳格であった春日局(3代将軍 家光の乳母で、大奥システムの開発者)まで晩年には髷を結ったというのだから流行は本物で、結髪は江戸時代の正式なスタイルとして定着していきます。

なぜ地位の高い彼女まで、下層民のマネをして髷を結ったのか。どうして下層階級の文化をわざわざ取り入れたのか。

それは、彼女が武士の妻だったからです。武士の妻である以上、髪をだらんと垂らしているより、結ったほうが活動的でふさわしい。京都の文化を引きずるのもしゃくであるし。

と思ったかどうかは知りませんが、こうして黒髪ロングの時代は終わり、髪を結う時代がはじまる。そうして結い方も洗練され、日本髪の時代が到来します。女性はお人形さんから、男性と同じく肉体を持った人間として生きはじめるのです。

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(江戸時代後期、喜多川歌麿「北国五色墨 川岸」の日本髪美人。「肉体を持つ」とは「おっぱい晒す」の意味では当然ない)

 

しかし、女性を解放したはずの日本髪も「ちゃんと結わなければダメだ」という制度に変化していく。自由とは難しいもので、みんながマネをしはじめるとルールに変わってしまうんですね。

今でこそ「髪型は趣味の問題」と当たり前のように思いますが、昔は髪型や服装といったディテールこそ本質で、内面なんかどうでもよかった。そういう時代の方がずっと長く続いてきたわけで、現代は特殊なんです。

人間とは無数のディテールの集積であり、ディテールとは無数の歴史の集積である。

「たかが黒ロン」と侮るなかれ。そこには膨大な歴史が渦巻いているのです。

 

【現代の黒ロンを語る前に…】

…というわけで、黒髪ロングは江戸で断絶します。

現在の黒ロンブームは「第二次黒ロンブーム」と呼べそうですが、しかし本当にブームなんだろうか…?

 

ブームなんです。

 

書き忘れていましたが、この記事は下記の催しのために書かれました。

 

「黒ロン祭2013 開催のお知らせ」

http://d.hatena.ne.jp/mercury-c/20130905/1376663904

 

主催の水星さんは、普段は紳士なのに黒ロンのこととなると常人には理解しがたい情熱を示す、よくわからない人です。

どうしてこんな黒髪キチガイが現代に、僕と同世代に生まれてしまったのか。これはその謎を解きほぐすための、ごく私的な記事でもあります。そしてごく私的なことを考えるのにこそ歴史は役立つ、という教育的な記事でもあるんですよ、これは。はだしのゲンを図書館に置かないから俺が歴史教育をやるんだ。

***

オナホ男はじめ教育的によろしくない文章ばかり書いてきた人間が何を言うんだって話ですがさてそれはともかく、本当に黒ロンの波は来ているのか。

たしかにアニメや漫画に、黒ロンのキャラクターが増えてるとは思う。黒ロンの女優、アイドルも増えた気がする。気がするだけで、統計的な事実を示せと言われると困ってしまうので、「だって、ここに黒ロンキチガイがいるじゃないか!」で逃げます。勘弁して下さい。

 

参考:【二次元】アニメに登場する黒髪ロングな女キャラまとめ

http://matome.naver.jp/odai/2135597611927336901

 

…さて、黒ロンの歴史に断絶がある以上、平安時代と現代の黒ロンをストレートに結ぶわけにはいきません。「女性差別の復活だ!」「黒ロン好きのオタクはキモい!」と言い立てるのは、ちょっと待ってほしい。

平安時代には黒ロンは先述のとおり時代(というより時代を作った男たち)の要請がたしかにありました。女性は黒ロンにする必然性があった。しかしいま、黒ロンにすることにはどんな必然性があるのか…?

必然性はありません。この自己決定の民主主義の時代、黒ロンは「自ら選び取るもの」です。

そしてそれが、いったいどうだっていうのか…? 

 

ということで、黒ロンの日本文化史、歴史編は終わり。

次回は「現代黒ロン文化論」と題して、現代の黒ロンの特殊性について、そしてなぜ今後、ますます黒ロンブームが来ると言えるのか。一席ぶちたいと思います。

 

続き:「少年は黒髪ロングの夢を見るか?ー黒ロンから見た現代のドラマ」

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/09/06/225928

 

 ※本稿は橋本治「ひらがな日本美術史(全7巻)」に多大な影響というか全面的な影響を受けております。驚異的におもしろい。

http://www.amazon.co.jp/dp/4104061018

美しくない世界で戦争がはじまる

「ああ、戦争ははじまるな…」と思ってしまった。

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某所でたまたま見つけたバナー広告なのだけど、このデザインはどうだろう。

「シリア緊急事態」「今世紀最悪の惨状!」「今すぐ募金する⇒」

…なんというか、あまりにも安いデザインだと思う。安易だし、安っぽい。俺が言うのもなんだけど。

ウィルス対策ソフトや教材商法のバナー広告からおもしろみを引いたらチープさだけが残ってしまいましたという印象で「この機会を絶対に逃すな!」みたいなネット広告のノリを持ち込むにしても、ここには何の屈託もなさすぎるんじゃないか。

 

別にUNCHRがナンボのもんかは知らないし、この広告に何かを代表させる気なんてさらさらないけれど、しかしもしこういうデザインで世界が覆い尽くされるとしたら、あるいは現に覆い尽くされつつあるとしたら、そりゃ戦争だって起こるよなと思う。だって、ここにどんなリアリティを感じろというのか。

 

20年前の湾岸戦争、リアルタイムで放映されたミサイルの空爆映像はあまりにも非現実的で、「ニンテンドー・ウォー」なんて呼ばれもしたけれど、いまや戦争なんてファミコン程度のリアリティも持ちえないのかもしれない。

いい加減見飽きたバナー広告と同じ程度にはうんざりするようなリアリティの中で戦争ははじまり、いつもと風景が変わったことになんとなく気づいても何も見なかったことにして、いつものようにただボーっと口を開けたまま画面をスライド、視界から消える。

 

「こんなものを子どもに見せるなんて問題だ!」と戦争の悲惨を描いた昔の漫画は大人の手で視界から隠され、そうして子どもは、自分のスマートフォンで「何の問題もない」この広告を指一本で読み飛ばして戦争を知った気になる。 毎日毎日うっとうしい現実を見せられ「こんなもの消えればいいのに」と、85円の有料版を買えば消えるくらいのノリで、思う。

 

次の戦争は「iwar」なんてどうだろう。

 

どうだろうな。

株式会社を退職しませんでした。

退職しませんでした。はっは。*1

顛末を書きます。

 

【ここまでのおさらい】

先週のエントリ「株式会社を退職しました」

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/06/07/235046

 

…というわけで人事部長にも退職の意を告げ、残された業務は退職するその日まで、春に咲くたんぽぽのようにじっと寒さを耐えるのみ、だったはずが、突然社長に呼ばれ、会議室で2時間近く語りあってしまったさらにその翌日、ともに酒を飲み、やわらかい肉を食べ、人生について語り明かす流れになりました。

すげえ展開。

***

で、肉を焼きながら、3時間くらいかな、社長とお話した。彼(以降、社長のことは『彼』と書く)も俺と同じで営業からスタートし、2年目で弊社を見限ろうとしたらしい。で今回、営業部の新人が退職すると報せを受け、居てもたってもいられなくなった。で、話してみると案の定気が合ってしまい、ジョッキ片手に「頭のいいやつほどさっさと会社を出てくんだ」みたいなことを言うもんだから、俺もテンションが上がって「そうなんですよ!3年やらないとわからない、なんて上司は言いますけど、俺は頭がいいから1年でわかった」と調子に乗って相づちを打つ、みたいなそんな感じで。肉は本当においしかった。いくつか焦がした。

***

酒の入った社長はトークが止まらず、後半はほぼ9割向こうがしゃべってたけど、こちらは気を遣わずに楽しく話せた。

俺が会社でしんどいのは、職場の上司らのことをまったく偉いとも何とも思えなくて、そのくせ根がまじめだから「『上司らは偉いんだ…上司らは偉いんだ…』と自分に言い聞かせつつ、敬ってるフリをしながら上司らと話す」をずっとやり続けていたからで、ウソがつけない人間には、これがしんどい。本当にしんどい。その場限りのウソをつくのはまだしも、ウソはつきとおすことが難しいので、絶対にボロが出る。うっかり上司にタメ口が出ちゃうとか。「は、何言ってるんですか?」って素でつっこんだりとか。これはもう、仕方ないですね。努力でどうにかなる問題ではない。人生は、ポケモンのレベル上げじゃないんだ。

 

しかし上司と違って、彼(=社長)は「ただただおもしろい人だなあ…」と素直に思えて話すのが楽だった。これくらい器が大きい人には俺ごときが何話したって平気だろう、と思うし、そうすると俄然、ことばが乗ってくる。自分にブレーキをかけなくていいというのは、よいですね。精神衛生上。そうか、これが「社長の器」か。器の大きな人間にならないとダメだ。社長になろう。俺も。がっちりマンデー出よう。がっちりマンデーに出よう。そう思いました。

***

話したことは書ききれないけど、俺から話したことを書くと…

 

「自分がこうしていま生きてるのは、何かの間違いとしか思えない」

 

宮古島の海に浮かんでいたとき感じたような、ただそこに在るだけで満たされる感じがこの街にはない」

 

「朝起きたら体が重く、動かなくなっていて、これはヤバいと思ってガバっと冷蔵庫を開けて缶ビール500mlを1本開けて、出社不可能な状況に自分を追い込んで、『体調悪いんで会社休みます…』って上司に連絡を入れて、そのまま赤羽の立ち飲み屋を朝からハシゴしたのが、先週の水曜」

 

等々しょうもない話をして、会社の人間ではじめてこういう話をできたのが社長、というのが、人生わからないですね。相手がえらい、VIPだからって遠慮して本音を出さないほうが逆に失礼かなと思ったし、本音で話してくれる人なんて少ないからきっと社長も寂しいのだろうし、俺なんて辞めてもともと*2だから、気が楽だった。で、気が楽だと俺は会話のスケールがどんどんデカくなってしまう。

 

社長「お前はなにか、やりたいことはあるのか」

俺「世界を良くしたいです」

 

これがめちゃくちゃウケた。こういうのはウソじゃないから、スラっと出てくるんですね。あまりにもスラっと言うもんだからウケたんだと思う。あー、就活でもこれ言えばよかったのかな…。

***

さて。

社長が話してくれた丸珍エピソード、仕事および経営に対する哲学、会社の裏事情、などをここに書くと、コンプライアンス(っていうんですか?)に引っかかると思うので書きません。社長にブログバレたら恥ずかしいし。

退職を考えなおす決定的な要因となった社長のことばが特にあるわけではないのだけど、社長のぐるぐる同じところを回り続けるような話は一貫して

 

「流されろ」

 

というテーマのまわりを巡っていたと思う。つまり「会社の流れ、世の中の流れ、宇宙の流れに、しっかり自分の身を置いて考えてみろ」という趣旨では、なかっただろうか(なかっただろうか、って俺しか知らねえんだけど)。

いやこのフレーズだけ切り取れば「てめえは流されろ。社畜になれ」だと誤解されかねないけどそうではなくて「お前は今まで、自分のやりかたで何でもやってきたから、流れに身を任せる、ということをしてこなかった。だからそれが怖いんだ。一度流されてみれば、意外と自由に泳げるものだし、そこでつかめるものは必ずある」という話なのだと思う(たぶん)。

 

たしかに俺は、自分の取るべきポジションなり人間関係が安定してくるたび、定期的にご破算にしないと気が落ち着かない、社会的動物としてNGなところがあって、そうやって無理やり流れからはみ出そうとする俺の社会不適合な面を見抜いて心配してくれたんだろうなと思う。見抜いてというか、俺の方からカミングアウトしてるんで世話ないですけど。

まあ今の流れからはみ出してみて、別の流れに身を置くという選択をしたところで、流れに乗ること自体が無理だったら結局同じなわけで、社長の言うことは確かにな、と思った。「お前は無理をしすぎてるんだ」とも言われた。「野たれ死ぬな」と言われた。〆のビビンバがおいしかった。

***

俺があまりに認識が雑だから、相手が何を言ってるのかだんだん自信なくなってくる。

「流れに任せろ」「ホームを持て」「型を大切にしろ」「自分のスタイルを持て」「ルーチンだ」「縁だ」「バイオリズムだ」と社長の話はこのへんのキーワードを巡りつつ、遠いようで近い、どこか同じような話を繰り返していて、きっとこれは全部同じ事を言ってるんだろうな、と思う。

つまりは会社の流れ、世界の流れ、宇宙の流れ、それら大いなる流れの中に、人間は独りぽつんと浮かんでおり、その人間の中にもまた、生命が流れ、小さな宇宙が存在する。そうした森羅万象と自分を貫く流れを調和させ、自然のように生きよ。流水の如く生きよ。宇宙と一体化せよ。

…ざっくり言えばそういうメッセージを伝えているのだと、俺は解釈しました。社長の真の意図など知ったことではないけど、俺はそう解釈することにした(なお社長は一言も「宇宙」などと言っていません)。

が、社長の社長らしからぬ謙虚な話しぶりの中には、なんというか人間は流れに身をゆだねるしかできないちっぽけな存在である、という悟りあるいは覚悟、みたいなものをガッツンガッツン感じて、だから俺の言うこともそんな間違ってないと思うんですよ。ざっくり言えば、だいたいそういうことを言いたかったんだと思う。人間はちっぽけなんだぜ、って。

 ***

…とまあこうして、めったに話せない社長と腹を割って話せたのも、めったに食べられない高級な肉を食べたのも、「流れ」が俺に来てるってことなのかな、と思い「とりあえず流されてみよう」と、とりあえずの結論を出したわけであります。

というわけで、俺は退職を踏みとどまってしまいました。退職を期待された方、申し訳ありません。これは俺の意志じゃない。宇宙の意志なんだ…。

***

何を言ってるんだか、自分でもわからなくなってきました。

もうちょっと続きます。翌日。

出社してみると、なんか世界が、明るいんですね。

不思議だなあ、と思ったのだけど、この一連のイベントはきっと、俺にとって一種の通過儀礼だったのだ。「会社抜けます」と同期、上司、家族、フォロワー、その他いろいろな人に言い散らかして、一時的に会社の枠の外に出て、再び帰ってきた。村を飛び出して帰ってきたメロスを彷彿とさせる、スッキリした顔立ちになってたと思います、俺。

 

で、通過儀礼を終えた男性に特有のスッキリした顔で上司(直属)に話しかけるわけですよ。

「僕ですね、会社やめますってみなさんにひと通り話したらね、今日、肩がすごく軽いんですよ!」って、上司にニコニコ話したら(こいつは何を言ってるんだ…?)みたいな目で見られてしまい、(やっぱりこういう話はダメなのか…?)と思いつつ、「やー、すいませんが、退職、もう一度考えさせてください!」とまたニコニコしながら言ってしまって(こいつは何を言ってるんだ…?)みたいな目で見られてしまった。

(生きていること自体が申し訳ない…)と日々を謙虚に過ごしているのに「申し訳なさそうなフリをする」がこの世でいちばん苦手なの、どういうことなんでしょうね。人間はうまくいかないな。

 

いずれにせよこの瞬間、俺はまた会社の歯車として再スタートすることとなりました。退職、1週間で取り消しです。はっは。

***

夕刻。「情熱くん、ちょっと…」と部長に呼ばれ会議室へ。

 

部長「退職、考えなおしたんだって?」

俺「あ、はい」

部長「俺もそれがいいと思う。で、7月1日から部署変わってもらうから」

俺「え」

部長「異動発表もすぐ出る。頑張れよ」

 

マジか。

話が早すぎると思ったら、どうも社長が俺の異動について話を通してくれたらしく、万事あれば九千九百九十九事は致命的に決定が遅い、伝統的なビッグ・カンパニーたる弊社において、社長の判断だけは驚くほどはやかった。はじめて俺と会話した次の日には焼肉で、次の日には異動で、新しい部署も決まって…。このスピード感。これぞ本物のビジネス。俺も社長になろう。がっちりマンデーに出よう。カンブリア宮殿にも出よう。そう思いました。

***

で、新しい部署について。

詳しいことはコンプライアンス(って言うんですか?)に引っかかるので、言えないんですけど、最近できたばかりの若い部署、というかプロジェクトチームで、やることもまだ固まってないらしい。部署・部門間を横断して様々な問題を解決しようという、トリックスター的な部署、って言えば聞こえはいいのかな。そこの上司に話を聞いたら「やること?特に決まってないなあ…」って言ってた(ちょっと笑った)。

まあこういうヤクザ的な場所に置かれるほど本気を出したくなるのが俺のあまのじゃくなところで、さっそくAmazonでドラッカー名著集をポチりました。

俺はこの会社にイノベーションを起こす。ここから世界を少しずつ良くする。「もしも入社2年目で挫折したアルファツイッタラーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」…? 1年後、いったいどうなるか。まだ会社にいるのか。どうぞご期待ください…。

***

というわけで、しつこいですが、またサラリーマンします。

社長曰く「半年後、1年後にお前が辞めようと俺は一向にかまわん。ただもう一回だけやってみろ」だそうで、本当に半年後、1年後やめるかもしれません。

自分で読み返して思うけど、こういう文章書いてる人間が、まともな会社組織で何年もつか、わかったもんじゃない。まあ半年経ったらまた考えりゃいいか、と思いつつ、とりあえず今は、社長のことばを信じてもいいかな、と思った。ので、もうちょっとサラリーを稼ぎます*3

 

実際の問題として、会社やめて大学院に行こうと思ってたけど、別にそんな勉強してたわけでもなく「会社やめて追い込まれないと、俺は本気を出さないんじゃねえかなあ…」くらいにしか考えてなく、大学受験に2度も失敗した件をまったく反省しておらず、自分でもバカじゃねえかと思うけど、そういう生き方しかしてこなかったので、ここいらで冷静に大人の言うことを聞いて、ちょっと反省しようかな、という気にもなりました。まあ無理かもしんないんですけど、やります。やってみせます。社長になってみせますわ。

***

退職を期待された方。

申し訳ありません。

私は社長になります。

これからもますます、未来の社長として邁進して参りますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。プレジデントピース。

 

*1:石を投げないで!

*2:辞めもと

*3:こういう事情、上司にどう説明したらいいのか、いまだにわからない

株式会社を退職しました。

各位

 

お疲れ様です。

国内営業部の情熱です。

 

7月中に無職となることになりました。やー。めでたい。あと1ヶ月続けてれば夏のボーナス出たんですけど、我慢できなくてやめた。何考えてるんでしょうね。「ボーナス目前にしてやめるって、おもしろいな…」とでも思ってたんでしょうね。でもちょっとおもしろいな。

 

ということで会社やめます。理由を話すと長くなるので、また機会があれば詳しく書きますが、端的にまとめると全部嫌になりました。

直属の上司には「限界です。やめます」ってきっぱり言ったんですけど、人事権を掌握する営業本部長(大ボス的なアレ)は出張中だったため来週、大ボスとバトルする流れになります。ボス、俺のそれ(退職)が気に食わないらしい。何言われても、退職願押し付けますけど。テメーのアンパンマンみてえな鼻っ面にな!*1

 

しかし直属の上司(中ボス的なアレ)には以前から「やめたいです」と一本80円の焼き鳥をつまみながら話したりして、それなりに理解も得ていたはずだったのだけど、いざ「やめます」と話すとぽかんと口開けて「お前の言ってることはむちゃくちゃやぞ…」なんて言うもんだから、わかんないもんですね。人間は。むちゃくちゃって言うなら、こうして上司と話す前に、朝からトイレでジンをぐいっと入れてきた俺のほうがむちゃくちゃな気がしなくもないです。 というか、もしかしてそういう俺の全体がむちゃくちゃだって言ってたのか…? 

 

上司曰く「会社には人材を育てるちゃんとした計画があって、ウチみたいな少数精鋭でやってるところは、一人抜けられるだけで困る」「病気でも家族の都合でもなく自己都合でやめられるのは組織上問題だ」「お前の思考はよくわからない」などなど(最後のやつは同情しますけど)言われてしまい、そういう言葉が出てくるってことは、やっぱりウチは旧い会社だったんだな、と、まあその旧いところについて行けないと感じたから、やめたんですけど。にしても、本当に旧い。

 

だいたい「一人抜けられるだけで困る」って、それ言ったら年を重ねるごとにますます抜けづらくなるじゃないですか!いつやめるんですか!w って、急にテンションが上がって上司をノリノリでディスってしまったのは俺の悪いところで、このあたりが致命的にサラリーマンに向いてなかったですね。基本的に上司を上司と思ってない。のに「このヒトは上司だ…このヒトは上司だ…」と自分に言い聞かせ続け、結局破綻した1年でした。最後まで俺と噛み合わなかった、トラディショナルなビッグカンパニー。

 

あとは「自己都合でやめられるのは組織上問題」って上司の管理者責任?みたいな話だと思うんですけど、んなこと言ってもやめるヤツはやめるし、入社当時から「半年もつかわかんないから…」と半年分購入すべき定期券を3ヶ月分ずつしか買わなかった俺を管理できなかった上司の責任、ない。ないです。

というかそうやって黄門様の印籠みたく「責任」を持ち出し、犯人を探して裁きを下す、まんま学級会の延長みたいなシステム、それに組み込まれるのが怖くなったから、会社(=システム)から抜け出したわけで、つまりそれは「会社のすべてが嫌になった」と言っても過言ではないですね。弊社のようにすっかり枯れた企業は、システムが全てになってる。こうなると舵の壊れた船みたいなもんで、どうしようもないですね。船員は流れに身を任せるか、海に飛び込むしかない。ということを、身を持って学んだ1年でした。やー、もう会社勤めはいいや…。

 

そういうわけで、とにかくいろんなとこで会社と噛み合わなかったのが、退職の理由かなと思います。 自分のどんなところが、なぜ会社と噛み合わないのか。幸いにして俺は天才なので1年で理解して見切りつけたんですけど、それ(俺は天才)がわかっただけでも、会社勤めした価値はあったな。これまでの24年間、完全に正解の道歩んでます。人生が順調すぎる。

 

今後の進路について。

先のことを考えるといつもめんどくさくなるので、あまり考えてないんですけど、今は「大学院行こうかな」という気分(気分)です。会社勤めしてからというもの社会の不条理を味わわさせていただく機会には事欠かず「どうして世界はこんなひどいことになってるんだ…?」という問いが日々、頭をもたげてですね、おかげで本読むのが、めちゃくちゃおもしろい。会社から帰ってきて日本酒煽りながら読む学術書が、ことごとくおもしろい。いっぺん会社勤めしてよかったなと思います。大学生の時分、こんな真剣に本読んだことなかったもんな。サラリーマン時代の貴重な経験を生かして、学部からストレートに院進したやつにはわからない大人の味、ビターな学問を俺ならできる気がします。何も考えてないんですけど。

 

ということで院進、考えてまして、具体的に言えば「人間を死なせないための学部」に歩を進みたく、目下受験勉強してるところであります。せっかく会社やめたのに9月には入試があったりして、あんまりゆっくりする隙がないんですわな。よろしくお願いします。

並行してツイッター、およびこちらのブログも、ぼちぼちと更新していきたいなと思います。おもに読書記録とか。受験終わるまでは、あんまり更新できないかもですが。

 

まあ、とりあえずまだ1ヶ月くらいは働くんでね、とりあえずもうちょっと、がんばりたいと思います。退職を祝ってくださった皆様、ありがとうございました。皆々様にも良い退職の機会が訪れますことを、心よりお祈り申し上げ、挨拶と代えさせていただきたく思います。ピース。

*1:同期ウケを狙っています

「100→1」の文章術がインターネットをクソにした話(および業務報告)

文章術の話は後述。

現在の自分は、新入社員として1年間やってきたことの報告レポートを連休明けに提出せよ、と人事部から言われていて、まあ本来は先月末が提出期限だったので、いいかげん書かねばならない。のだけど、書く気、起きなッシングですね。

もう仕事を辞めたい旨はGW中に両親に告げて了承済み、まあ夏のボーナスまでは働いとけ、という話をまあそうだねと受け入れて、まあ夏までは頑張るか、という気になっていたのに、研修レポートの作成がやる気にならない程度で即退職を考えてしまう思考回路、ポンコツのそれだと思う。意味がないと思ったことは本当に手がつかない。昔からそれはそうで、いちいちやることに対して自分なりの理由付け、説明体系を作らないと、めんどくさかったり怖かったりで一歩も踏み出せない、それが俺のクソみたいなまじめさ・ダサさの根本だよなあ、とわかってるところで別にどうしようもない。

***

話は飛ぶけど統合失調症関連の本をいくつか読んで、他人事じゃないぞと思ってしまった。

統合失調というのは要するに「現実世界がバラバラで、そのバラバラを理解のできるまとまりにうまく統合できない」事態が根本にあり、その困った事態に対する無意識の対処=防衛機制として人により様々な症状が現れるのだと俺は解したのだけど、その原理で行くと別に妄想・幻聴だけが統合失調の症状ではない。

たとえば夜、べランダでたばこ吸っていると目の前に広がるビルやラブホテルや京浜東北線の列車がただの、本当にただの塊に見えて、自分が世界から浮いてる感じがして「つまんねえなあ…」って口に出たその声が自分から出たものとはとうてい思えなくて、あまりにも信じられなかったから笑ってしまった。そんなことを思い出す。

きっと統合失調の人はそのぽっかり空いた空白が怖くて、妄想や幻聴で埋め合わせてしまうんだと思う。俺はバラバラな現実を前に自前の説明体系をなんとかでっち上げて、それでダメだったら笑って、適当にごまかして、きっと正気でいてんだと思う。今のところ。まあ統合失調も果たして病気と言っていいのか、という議論もあるようだし、人間の精神に正気も狂気もクソも本当はないんですが。統合失調の扉は誰にでも開かれてるそうです。はは。

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話はまた飛んで文章の話。

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい  - デマこいてんじゃねえ!

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130505/1367763730

 

記事の是非はともかく、率直に言えばこの記事が1000ブクマも伸びてる事態が嫌だなと思った。「文章とは100の素材を1に加工することである」という話なんですけど、これインターネットの物書きが目指す方向ではないんじゃないか。

「100→1」の文章術は書き手というより編集のそれだ。素材を加工して、文章を流通できる形に整える作業。ここで「流通させる」とは「消費の文脈に乗せる」ということで、しかし「いい文章」と「消費されうる文章」はまったく異なる。「カネになる文章がいい文章だ」という定義なら一致するけど。

しかし俺はまったくそう思わないし「むしろ市場の文脈には乗らないような文章がそのまま読み手に届いてしまう可能性、それがインターネットがいちばん大事にしなきゃいけない可能性じゃないの?」と思う人間としては、ネットの書き手が市場原理に自発的に服従して、消費されるための文章をシコシコ量産している状況は何だかなと思う。

 

だって「0→1」ができない人間が100の素材を集めて1まで圧縮したところで、それはただ中身がスカスカになった骨抜きの「1」にしかならない。

自分の「0」と向き合おうともしない人間が100を集めたところで、それは自分が「0」と向き合わないで済ませる自己正当化の手段にしかならない。

文章を書くとは本来「0→1」の作業で、たとえば発達心理学の研究なんかを参照すれば、100の素材がなくたって実に多くの4歳児・5歳児たちがびっくりするほど豊かな物語を書いていたりする。*1もちろんそれがそのまま市場に乗ることはありえないけど、ネットにはびこるクソライフハック文章・クソ読書感想文とは比べものにならないほどいい文章だと思う。文章を書くとは、まず自分と現実をつなぐための手段、「0」=バラバラの現実を統合する手段、自分の世界を自分の文脈に編集するための手段であるべきで、それをスルーして自分の外側の100の素材を1まで圧縮したところで、中身が何もない、文章の向こう側に人間が感じられないクソ文章ができあがるだけだ。し、そもそも100の素材を集めてくることだって、本来は自分の中の空白、「0」を埋めるためにやむにやまれず行うことだろう。消費されるための「1」をつくるために「100」を集めるというのは、そもそも出発点として間違っているんじゃないか。いつでも出発は「0」からしかできない。

 

にもかかわらずネットでは最初から消費されることを自己目的化した、スカスカの文章が蔓延して、受け手もたいした期待もせずただ文章を消費して、文章の向こうの人間もただコンテンツとして消費されて、消費されることに耐えられなくなった繊細な人間は消えて、鈍感な書き手が書くクソみたいな文章だけがゴキブリみたいに生き残ってネットを占領する。そういうクソそのもののネット言説をパロディとして描いたのが拙作「オナホ男(http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2012/12/17/221545)」だったわけだけど、そういう批評も誰にもしてもらえなかったのでいま自分で解説しました。む、虚しさ…。

***

話をまとめると。

「100→1」は編集の姿勢としては正しいけれど、そもそも「0→1」ができない、書き手になる資格もない人間が「編集者ごっこ」をこぞって始めた結果、ネット言論はクソになっています。だから「100→1」の正否はともかく、その記事に1000ブックマークも付いてしまう状況は象徴的で、俺にはグロテスクに見えた。ということです。これはめちゃくちゃ大事なことなので、いずれ詳しく書こう、と思う。

***

…なんて偉そうなことを言いつつ俺は「オナホ男」以来たいしたことは何も書いてない。

いや自分の0とちゃんと向き合うと何も言えない自分こそ正しいんですと正当化して、ゴミみたいな文章すら発信できない俺はもしかするとゴミ以下なんじゃないか。わからないわからないとか、怖い怖いとかほざいて、都合の良い説明体系を勝手にでっち上げて、踏み出さないための言い訳を作って、自分の檻の中でひたすらオナニーしてるのがお似合いなんじゃねえか。発信する資格がないのは俺なんじゃないか。あっ、死にたい…

 

…と当初は考えていたけれど、ひと通り書き進めたら割とすっきりしました。まあこのすっきり感がいつまで持続するかはわからないけど、オナニーは健康にいいですね。最高。はは。

 

さて、すっきりしたところで業務レポート書きます。あれ、なんで書かなくちゃいけないんだ…。

*1:発達心理学の分野では、内田伸子の著作がドチャクソおもしろい。「子どもの文章(東京大学出版会)」なんか文章論にも応用が効くし、文章書きは読んで損はないはず

句点がこわい

句点を打つのってこわくないですか。

文章でもそうだし会話でもそうで・・・って理屈をこねようと思ったが今日はやめて、インテリぶったところがお前は鼻につくとディスられるのも毎度のことなので理屈オフで書きますよ、今日は。

ある程度長い文章を書くとき普通はピリオドを打ち一旦区切るべきところでわざとつらつらと文章を続ける、あるいは普通なら文章をなめらかに接続すべきところでバッサと打ち切る。ってことをするのが俺のたのしいライフワークなのだけど、これは何に似ているかというとEMINEMのフロウに似ているんじゃないかと思っている。おそらく最も知名度のある「Lose yourself(映画 8mileの主題歌。各自ググってください)」を例に引いてもわかるようにえっ、そこでブレスするの、とかそこでつないじゃうの、とか予想(無意識下の)を裏切って前へ前へ進んでいく、壁を1つ1つ乗り越えていく感覚が聞いていて非常に心地いい。

「あなたの文章を上手く見せるコツ」みたいな腐るほど溢れたインターネットのマザファックな記事の9割には「一文の長さは短く!」と書いてあるが正しい。多くの人はEMINEMではないしHIPHOPでもない。伝えたいことを伝えたいなら文章は短く切って、今気づいた。文章を短く切るとは文章にラベルを貼ることだと気づいた。つまりたとえば「我々は原発をチューリップ畑に変えなければならない。」と「。」を打ちはなった瞬間この文章は「私は原発がきらいだ」というようなラベルにて受け手の脳内で処理されるさだめとなる。だが一方「原発をチューリップ畑に変えることが本当に可能かという疑問はさておいて、私は休みの日にブロック崩しを疑うのが趣味です」と書いたのでは意味がわからなくなってしまうしコイツは頭が悪いバカだと逆にラベルを貼り返されてしまう。送ったはずのメッセージがエラーメッセージ扱いで返送されてしまう。

がしかし我々はAmazonからやってきた不良品ではない。住所・氏名・電話番号・内容物・客先コード・配達者氏名その他諸々がプリントされたラベルの貼り付いたダンボール箱を次から次へ発送するようなものでは文章はない。ところでいまガストなんですけど、いいものを見つけました。

 

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ラベルがラベルとしての機能しか果たしていないストイックな現場を見てしまったと思いませんか。俺は全然思わないけど。

コミュニケーション取ってるやつみんなF-1レーサー

酒が入ると短歌とか文章がポコポコ浮かぶあのマインド、まあ出来の良い悪いは別にして「とりあえずこれで良し!」と提出できるマインド、どういうことだよ。そう思いませんか。思ってるの俺だけか。

 

言葉ってのはバラバラで、何ひとつつながってない。これは信じられないことかもしれないけど本当のことで、たとえば「俺は思う」と文章を思い浮かべたとき「俺は」「思う」の間には真っ暗な深い谷底が広がっていて、文章を組み立てていくということはその暗闇を蛮勇をもって、あるいは眼をつぶってその狭間を飛び越えるということだ。毎回がそうだ。

 

酒が入るとポコポコ文章が出てきて饒舌にすらなれてしまう(話すときだって文章を組み立ててるわけだけど、この意識がすでに多くの人と違うのかもしれない)のは、意識が酩酊しているおかげで暗闇に気づかないままその暗い溝をひょいと飛び越えてしまうからなのかもしれない。

 

小さい頃、大縄跳びが苦手だった。縄を意識すると、意識するほどあれは絶対に飛べなくて、リズムなのだ、要するに。リズムだけが跳躍を可能にする。視界から縄が消えて、俺は絶対に引っかからない。人生は縄跳びなのだ、実際。飛ぶかトバないか、ただそれだけだ。

 

コミュニケーションだって目の前に来た縄を飛ぶただそれだけのことで、それだけのはずだけど、一度大縄に入れば足が引っかかるまでずっと飛び続けなければならない、引っかかることは許されない恐怖。だから何も言いたくない、そもそも飛びに行きたくない、と思うときがある。足を引っ掛けて暗闇に引きずり込まれるくらいなら、飛びにいかないほうがマシだ。

 

コミュニケーション障害とか言うけど、コミュニケーションが取れる方が障害なんじゃないか。いいか。言葉を発するというのはな、はっきり言って、キチガイの所業なんだぞ。俺はキチガイになれないからこんななんだ。平気な顔でコミュニケーションが取れるお前ら、俺からしたら、みんなF-1レーサーみたいに見えるぞ。

 

とか何とか言っても俺は小さい頃に比べたらまったくマシにコミュニケーションができるようになったし、俺は俺で、ある人からしたらF-1レーサーみたいに見られてるのかもしれない。ビューン。ビュビュイーン。はは、トミカでも買おうかな。