ライフ・イズ・カルアミルク

本当のライフハックを教えてやる

【日記】そしてみんな無職になる(10月5日~11日)

 10月5日(土)

今年で65歳、来年4月に定年を迎える親父の誕生日。
5年前だったか、たばこの吸い過ぎで肺をやられて入院して、以来声帯がボロボロのスポンジみたいにかすれているような、まあその前から頼りないかすれた声ではあったけれど、スポンジはスポンジなりに元気そうな声が電話越しに聞こえて安心する。入院以来、たばこをやめた反動なのか暇さえあればスナック菓子を食うようになって、当然のごとく腹が出て糖尿病が悪化、朝昼晩、食前にインスリンを摂取せねばならぬ体になっていて、アメ公かと思う。
 
そもそも中卒で趣味もなく、会社の外に人付き合いがあるわけでもなく、ほとんど出世することもなく働いてきた親父がここにきて放り出されて、これからどうするんだろう。年金は出るから生活は心配ないにしても、スナック菓子食べる以外何もすることがないしたら、ちょっとぞっとする。アメリカ人だったらホームパーティーでもするんだろうか。イオンモールを徘徊する老人にはなってほしくないな、と思うが、そういえばパチンコがありました。パチンコも退院を機にやめたんだけど、最近やってんだよな。となると、その次はソーシャルゲームかな、あれは「どこでもパチンコ」みたいなもんだよな。「介護の現場でボケ防止にゲームが使われる」なんて話はだいぶ前に聞いたけど(もぐら叩きとかやるらしい)、おそらくソーシャルゲームにハマる老人はこれからぞろぞろ出てきてもおかしくないはずで、そうなってなお「ソーシャルゲームはボケ防止に効果的だ」なんて言えるんだろうか。
言うんだろうな。
 

10月6日(日)

無職になったいかそーめん(@ikasohmen)さんの門出を祝して、上野の『大統領』で昼飲み。ひろくん(@tamtam_rev3)と水星(@mercury_c)さんと俺で、会社員と無職が3:1の比率。
無職は、じゃなかった、いかそーめんさんは思ってたより元気そうで、会社やめてから頭がすっきりしたらしく、本当によかった。無職、じゃなかった、いかそーめんさんの地元の同級生は6人中4人が無職らしく、そういえば俺の地元(愛知県)も、大学行ったやつは公務員、工業高校行ったやつはライン工、あとはイオンモールの店員で残りは無職かもなあと思う。工場もイオンモールもない田舎が半分以上無職でもおかしくない。俺の親父が俺と同世代だったら、間違いなく無職だったろうな。
 

10月7日(月)

夕方、職場へ保険のおばさんが勧誘に来る。月々3000円で済むんですよと説得されるも、入る気皆無。保険に入るような人間は、ああこれで病気になっても大丈夫だ、って安心して病気になってしまうのであって、保険に入らなければ病気になっちゃいけないという自覚が芽生え、病気になることもない、とは考えていないけれど、自分に保険を掛けるという発想が、面倒くさい。考える気にならない。月々3000円も自分に保険かけるなら、毎月いろんなおもしろ無職に3000円くれてやったほうが遥かに有意義だと思う。
ところで気になったのは、先の保険会社が最近開発したらしい商品(保険の新プランを「商品開発」と呼ぶ感覚ってどうなんだろう、と思うのは俺がメーカー勤務だからだけではないと思う)で、若い人向けにメンタルヘルスの保険をはじめたらしい。精神の都合で出社できなくなったとき保険が日払いでもらえるらしく、いまあなたぐらいの歳の人に人気なんですよと話していた。そりゃそうだろ、俺のタイムラインは受給資格あるやつばっかだぞ、と思うけど、しかし「精神に保険をかける」という発想はなんだか不気味に感じて、俺は絶対に入らないだろうなと思う。誰が俺の精神がおかしくなったって判定するんだよ。「あなたの精神はおかしいです」なんて言われたら、俺は全力で否定するぞ。「近代はすべての狂人を精神病院へ追放した」と批判したミシェル・フーコーを出すまでもなくこんなのはずーっと続いてることだけれど、逸脱した人間は病気認定を飲み込ませて、保険と薬とインターネットでおとなしくさせときゃいいくらいのもんなんでしょうね、もう。

10月8日(火)

人事面談。先の6月、お騒がせした件について「や~、あのときは、焦ってました!」と上機嫌で謝る。
お騒がせした当時、退職を撤回して部署異動ということになって、まあ異動祝いで飲み会をしたのだけど、その席で俺があんまりにもけろっとしているもんだから「もうちょっと申し訳なさそうにしろ」と上司からつつかれてしまった。はい、はいと頷くも、そういう器用なマネもできないし、そう言われると余計に楽しくなってしまう性分なので、ずっとニコニコしていた。いや俺も、申し訳なさそうにしなきゃダメなのかな、とは思ったよ。思ったけども、まさか本当に「申し訳なさそうにしろ」と言われるとは思わなくて、言われたとき「ええっ!?」って驚きながら、笑ってしまった。お酒のせいです。
思えばほかの人はチームの中にいるときにはニコニコして、離れるときは深刻そうな顔をするものだけれど、俺はチームの中にいるときに深刻そうな顔をして、離れるとニコニコするという、まったく真逆のことをやっていたのだなあ、と思う。基本的に組織から離れるのがうれしくて仕方ないタイプなので、ああこんなにも組織に属して安心したい人間がいるのだ、という発見が、入社して一番の発見だったかもしれない。25年かけてやっとそれだよ。

10月9日(水)

仁木恭平さん(@nikikyouhei)がオモコロデビュー(?)したらしく、さすがにおもしろい。ダ・ヴィンチ・恐山さん、冷凍食品さんに続いて、ということで、おもしろい人がぞろぞろ集まってくるなあと思う一方、「おもしろい」という枠にハマって行くのは大丈夫なのかな、と心配もする。どんな表現だって「おもしろい」として受け入れてもらえれば安心できるし、インターネットでお笑いやる人なんてだいたいやさしい人だから、誰も傷つけない表現として笑いへ行くのは真っ当で、人徳しか優れてない俺もそういう人間なんだけど、あまりにも早くから消費者なりネットユーザーが求める「おもしろい」の型にハマって行くのは、けっこう危ないんじゃないかと心配になる。
 
※以下、話が長くなるので、興味なかったら最後にオモコロの記事だけ貼っとくんで読み飛ばしてください、って、なんで俺は日記でこんな気を遣ってるんだ…。
 
でまあ、小野ほりでいさんやぼく脳さんが商業媒体でやってる仕事も、さすがにおもしろいけれど、もう一段上を目指せる人たちだよなあ、とも思う(俺は何様なんだ)。「おもしろいね」と言われ続けるがために頑張る、というのはつらいんじゃないか。昨年「オナホ男」というインターネットを徹底的にこき下ろした小説がちょっとした話題になったとき、おもしろいという称賛の声はあれど、批判の声はなく、まじめに批評する動きもなく、「ワロスw」「マジキチ」しか反応が来ないものをいくら作っても虚しいなと思って、創作はおやすみして、自分で批評やる方向へ向かってる俺の現状。今って「何をもって優れているとするか」という共通の評価軸が壊れてしまった時代で、壊れてる以上は自分で立て直すしかないってんで、いつか創作やるにしても、自分の中で評価軸を組み立てておかないと、まわりの期待に応えるだけしか基準がなくなって、そうすれば限界が来ると思う(これは別に創作だけじゃなく、生きてく上でもまったく同じだけど。世の中が要求するスキルだけ身に着けて前へ進んでも、いつか壁にぶつかる)。
上に上げた方々は現状、俺より間違いなくセンスある人だと思うけれど、しかしあんまり器用にこなせてしまうと(求められるものを、感覚で掴んで生み出せてしまうと)、いつか壁にぶつかったとき困るかもしれない、と思う。で、この壁というのは、世の中ではなくて自分の側にある。
 
ぼく脳さんの漫画を見たとき俺は大笑いしたあと「これがおもしろいなら、俺はもう何も作る意味ないかもしれないなあ…」とショックを受けて、今もその気持ちは根底にあるんだけど、世の中の多数はあまりショックを受けず、「ワロタ」つって安全に消費する。ものわかりのいい世間がそれを安全なものとして受け入れてしまえば、自分の外に壁は存在しないことになり、自分の中に壁を設定しなければならなくなる。そうしてその自分で設定した壁を、自分で乗り越えていく…という繰り返しが近代以降の芸術なのだけど、ぼく脳さんの芸風って洗練の徹底的な否定にあるし、ただ壁を崩していくだけで、一向に洗練へ向かわない…というのは、本当につらい。
だからこそ、「才能が安全に消費される」という形は、ある種の人にとってあまり幸せなことじゃないかもしれない、と思う。こういうのを拾い上げるのが文学の役目なのだけど、内輪化してる文学界は、そこまで目を向けないだろうし。
 
…これは話すとキリがないですね。もっと丁寧に説明しないとダメだろうな。表現する当人の問題というより、批評が死んでるのが最大の問題なんだけど。
ということで、以下の記事おすすめです。
 
「オオカミ少年が成長していく夏休み | (仁木恭平さん)」
 
「日本紙幣の作り方 |(冷凍食品さん)」
 
「あの名作漫画を自動生成! OSB関数の正体とは?(ダ・ヴィンチ恐山)」
 

10月10日(木)

仕事、暇なり。プロジェクトもあらかた片が付いて、若干暇を持てあます。
帰宅してビリー・ワイルダー監督『七年目の浮気』を鑑賞。マリリン・モンローが舞い上がるスカートを押さえるあのシーンで有名な映画だけど、こんなにおもしろいとは知らず、大いに笑う。この監督は天才じゃないかと思って、ググったら超有名な監督だったので恥ずかしくなった。洗練されたドタバタコメディという感じで、面白いです。全然古びてない。
あとマリリン・モンローってセックスシンボルみたいなイメージだったけど、この映画の彼女はセクシーというより、断然キュートですね。ものすごくかわいい。一枚写真ならともかく、動画だと全然印象がちがってかわいい。アメリカ人はいったい何を観てるんだ。
 
風呂に入り、スーパーで半額で買った焼き芋を食べる。味がない。はちみつを掛けたら甘くなった。生活の知恵を感じる。

10月11日(金)

友人からスカイプで相談を受ける。ものわかりの悪い親父が「つらくても限界まで我慢してからやめろ」「逃げるのはダメだ」と言うらしく、どう説得すればいいか、と大枠はそんな話。「絶対に我慢しろ」とまで言わず「我慢してからやめろ」と微妙に譲歩しているのはきっと、「我慢したほうがいい。でも、やめたいならやめたいで仕方ないと思う。でも、俺の口から認めるわけにはいかない」と二重に「でも」が入るようなねじれ方をしてるからなんだろうなあ、みたいなことを話す。彼のオヤジさんは60年安保の時期の生まれで、ということは、物心ついて世の中を眺めるのは、64年の東京オリンピック以降。日本がイケイケドンドンで高度経済成長へ邁進していく時期である。ということは、そんな中でモーレツ社員として働く自分の親の背中を見ながら子ども時代を過ごし、そうして自分は働き盛りの20代を、日本が世界一の金持ちになる軽薄な80年代の中で過ごす。そうしてしかし、自分の子どもを生んだ頃は、昭和が終わり、バブルが崩壊へ向かっていく時期だった…。ということで、その世代のお父さんは、「モーレツに働くことしか知らない」けれども、その結果は壁にぶち当たって、「俺の言うことは正しい」までは自信持って言えない、そういう中途半端な世代ではあるんだろうなあ…と思う。彼の親父さんは一度か二度だけ見たことがあって、硬そうではあるけど、口数の少ない穏やかそうな人だなあ…と思って、そんな親父さんが「実はものわかりが悪い頑固オヤジ」ということになれば、そういうねじれ方をしてるんだろうなと思う。
 
しかしそういう一直線で走ってきた人が会社から放り出されたらどうなるんだろう、と自分の親父と重ねあわせて思う。ひたすら我慢をしつづけて定年を迎えて、「もう我慢しなくていいよ、やりたいことをやりなさい」と言われて、何ができるんだろう。、「やるべきこと」しか存在しなくて、それも「ひたすら我慢すること」であれば、「何をやるべきか?」は考えなくても済む。そうした彼に「やりたいことは何か?」と言っても意味がわからないだろうし、「何をやるべきか?」も、実は考えたことがないからわからない。そんな恐怖があるのだと思う。
親父さんの歯がゆさは、そういう自分の先が見えないことへの不安でもあるような気がする。息子にもこういう道を進ませていいんだろうか、でもこの道しか俺は知らないし、考えられないんだ、だから俺は責任を取れない、という。
 
そうしたら息子の使命は「親父の代わりに俺が考えてやる」なんだと思う。親孝行ってのは、そういう段階にもう行ってるんだろうな。
 
***
 
で、1週間終わり。つい長く書きすぎてしまうし、こんな絶対に拡散しないタイプの日記に文字を費やしてアホじゃないかと思うけれど、まあ気楽に書けるんでいいです。そろそろちゃんとしたものを書かんとあかんかなー…。

【日記】満員電車でヤクザに絡まれた(2013年 9月28日~10月4日)

日記を書きました。また1万字超えのまとまった論書きたいけど、まとめるのクソ苦手だし、妖精さん手伝ってくれないかな…
 
9月28日(土)
「難民映画祭」なるイベントでシリア難民のドキュメンタリー映画を観るため九段下へ。鑑賞後、怒りが収まらず。シリア難民をここまでの悲惨に追い込む世界の不条理に対して怒ったのではなく、作者の表現する者としての自覚のなさに腹が立って仕方がなかった。難民にカメラを向ける自分は暴力を告発する者である、と無邪気に思い込んで、自分もまた暴力を行使する側に立つとは思ってもいないであろう、だらしのない表現。チープなアニメーション、「これは悲しい音楽です」という顔をした音楽、何度も繰り返し言われる犠牲者の数(悲惨さを数字で表現してしまう映画にあるまじき甘え)、もう諸々すべて記号でしかない。記号に変えて、難民一人ひとりの姿を埋もれさせる。それはどんな表現だって抱え込まざるをえない暴力ではあるけど、そのこと(=自分の暴力)にあまりにも無自覚で腹が立つ。アメリカ映画だそうだけど、アメリカの観客はこんなレベルで騙せるのか、と思ってツイッター検索したら、日本にも感激してる人いましたね。そんなものか。

こんなものをUNHCR(国際難民機構)という緒方貞子がゲストに来るくらいちゃんとしてるはずの機関が垂れ流すってのはまあ役所なんてどこもそんなものかもしれないけど、とにかく全部に腹が立って仕方なかった。こんなもの平気でつくる人間も、これを許す人間も全部クソだと呆れて、しかし前から俺は、こんな怒る人間だったか…?

会場を出た後「三流の難民ポルノだ!」といっしょに来た後輩にあれがいかに許すべからざる表現かわめきたてた。いい迷惑だったと思う。

※今週の日曜にも上映するらしいので、最近イライラが足りてない方は行ってみてはいかがでしょうか。

http://unhcr.refugeefilm.org/2013/title/2013/08/post-52.php 


9月29日(日)
映画『風と共に去りぬ』鑑賞。昨日の口直し。
計4時間の大作のためディスクがPart1、Part2と分かれているのだけど、間違ってPart2を先に見てしまった。「なるほど、昔のハリウッド映画は余分な説明をしないのだなあ…」と、俺の知らないところでストーリーが展開していたらしい超難解なドラマを2時間見ていたら、ヒロインのスカーレット・オハラが涙を流して生きる決意をする。ということは、まさかのエンディングが来てしまったということで、えっ、ちょっと待てよ。狼狽しつつ前半のディスクを後から見たのだけど「おお、ここはこうなっていたのか!」って、ミステリーの謎解き編みたいでやたらおもしろかった。ヒロインの知られざる過去がポンポン出てくる。この鑑賞法はおススメです。
それはともかくすごい映画だった。1939年にアメリカはこれだけの超大作撮ってたって、そりゃ日本は戦争に負けるわなあ…。
 
9月30日(月)
出張。新製品の紹介VTRを撮影するため、お手伝いとして派遣される。
基本的に俺は気が利かないし、気を利かそうとするとまず失敗するため、もう気を利かせることをあきらめた(さすがに営業をやめた人間である)。
撮影中、俺はずっと後ろの方で堂々と突っ立ち、眼前で展開する光景をじーっと眺めていたら、休憩中、お前はすごい、と同期に絶賛される。部長が目の前でせこせこ動き回ってるのに、お前はなんであんなに堂々と立ってられるのか。そう言われても俺には、部長がせこせこ動き回っていた姿を見た記憶がなく、そう言われるとそうかもしれない。部長は気が利く、反射神経のいい人だし、ああいうのが得意なんだと思う。俺は反射神経と引き換えに、堂々と突っ立つことを選んだのだ…。
とはいえ部長からもしばしば注意されるので、そのときはきっぱりと、すいませんと謝ってヘラヘラ笑いながら手伝った。「本当に気が利かなくてすみません!」と酒の席で何度も言ってるので、大丈夫である(と思う)。
作業終了は20時過ぎ。鈍行列車で帰宅し、家に着いたのは23時半ごろ。
 
10月1日(火)
新製品についての会議が長引き、20時過ぎまで残業。お偉い御方々の話を議事録に取るだけなれど、専門用語が飛び交い理解が追いつかない。追いつかないが、大した内容じゃないことだけはわかるので適当に聞き流す。

帰宅後、市川崑監督『細雪』を鑑賞。谷崎潤一郎原作、1983年の映画。
大阪船場の名家に生まれた四姉妹の話で、なるほど前近代を引きずった戦前の「家」とはこんなものだったのかとしみじみ感じ入る。
船場言葉といえば大阪弁の中でも折り目正しい、貴族の言葉らしいのだけど、この名家の女性たちは発声が喉声気味というか、声帯を抑えつけるような話し方になるのだなと思う。貴族特有のエスプリって言うんですか。貴族とはいえさすがに日本で、ヨーロッパのそれとは違ってずいぶんと湿っぽいエスプリだけど。
本作、長女と次女はいかにもこなれた、含みの多いというか慇懃さも感じる船場言葉なんだけど、いちばん下の四女はさっぱりとした発声で、自分の生きたいように生きたがる近代人という感じ。で、驚くのは間に立つ三女、演じるのは吉永小百合。この人、どこから声出てるのかよくわからない人だ、ってはじめて気づいた。AQUOSのCMだけじゃ気付かなかった。なんというか日本人形の不気味さみたいなものを感じて、これはこの人の本質かもしれないぞと思う。とにかく人間がおもしろいし着物はきれいだし傑作です。特典映像で、監督が着物の美について訥々と語ってるのがよかった。
 
10月2日(水)
仕事を定時で上がり、新橋駅前SL広場の古本まつりへ。特に掘り出し物は見つからない、と言いつつ20冊ほど買う。もっと歴史を知らないとあかんなあ、と痛感している最近なので、まずはおもしろそうな江戸やヨーロッパ中世あたりの本を中心に。文化史から入るのが良さそう。あと絶版になってるベケットの『モロイ』がやたら安かった(420円)ので買ったけど、しばらく読まないだろうなあ…。
古本市の雰囲気が好きで、開催してるとなんとなく行って、読みもしないのに買ってしまう。新橋古本まつりは今週末までやってるので、行ってみたらいいと思います。週末は早稲田の古本市行こうかな。
 
東京古本市予定表
http://tbfs.ninja-web.net/
 
10月3日(木)
朝の通勤電車が人身事故で遅れる。混雑する車内でやたら音漏れが聞こえてくるなと思ったら、近くに立ってるのはオールバックの小柄なヤクザ風のおっさんだった。駅に到着して人が入ってきて、体が押されるたびにややオーバーに顔を歪めるその人の顔がおもしろく、「大音量の音楽で耳をふさいだり、顔をしかめたりして、この人は必至で自分の領域を防衛しようと戦ってるのかなあ…」とぼんやり見つめていたら、おいなにこっち見てんだよ、と絡んできてビビる。あっ、見てないです、混んでるから、と訳のわからないことを言ってやりすごす。結局そのヤクザは、人が入ってくると「痛ってえなぁ!」と声を荒げたり、それでも人がどんどん入ってきて顔がますます歪んで弱っていくのがおもしろく、こう満員電車ではヤクザも形無しなんだろう、と、遠くに流された彼の顔を見ながら思う(離れたので安心して見てる)。
ヤクザが生きづらい世の中ってのは、こういうことなのかもしれない。やたらと様式(スタイル)を気にするヤクザは、そんな細かいこと言ってる場合じゃねえだろって身も蓋もないツッコミを食らった瞬間、様式を守る正当性を失ってなぜ威張ってるのかわからない人、間抜けなお笑いの人になってしまって、顔のないサラリーマンの群れに流されて顔をおもしろく変形させるって、それはそれで悲しいよなあ。

ニコ生で人気のヤクザってのも以前見て寂しいなと思ったけど、その人が威張れる場所って、そこしかなかったのかもしれない。まあロンブーの淳がニコニコに進出してきたのも、そういうことなのかもなあ…。
 
10月4日(金)
通勤時間にコツコツ読んできた大塚英志『「伝統」とは何か(ちくま新書)』読了。
柳田国男の民俗学を追いながら、母性・妖怪・郷土といった「伝統」が近代以降、人為的に作られたものであると、筆者特有のハイスピードな論理で検証していく好著。
大塚英志はサブカルチャー・文学方面の評論でも本当に冴えてるけど、もしかしたら民俗学関連の著作のほうがおもしろさは上かもしれない。
大塚英志は好きなものについて批評することは自制している、と公言してる人だけど、好きなもの語らせると本当にいい文章を書く。ただそれが現に生きてる作者だったりすると、自分の批評が作品に影響を与えてしまうのではないか、と己の暴力性を自覚してあんまり書かない。そのストイックな姿勢こそ俺がリスペクトしてやまない理由だし、だからこそ表現の暴力性に無自覚なシリアの映画に激昂するわけですね、俺は。
大塚英志にとって民俗学は「好きだけど、もう死んでしまったもの」で、だからこそ語りやすいのかなと思う。死んでしまったものは生き返らせるしかないわけで、方向は決まってるわけだし。
でまあ珍しく好きなものについて語った文章がネットに上がっていて、大槻ケンヂについてなんですね。
『贖いの聖者』という大塚英志原作、白倉由美作画の怪作としか言いようがない少女まんががあるのだけど、そこで主人公の少女の前に現れる救世主のモデルがなんと大槻ケンヂ。というくらい好きで、下記URLはオーケン処女詩集の巻末に載った解説らしいんだけど、文庫化の際に削除してしまったらしい。おそらくは大塚英志本人が消させたんじゃないかなあ、と勝手に思ってるんだけど、どうなんだろ。
とはいえ下記は名文で、この人が悪文としばしば揶揄されるのは文章が批評の文法から逸脱しているからであって、実はめちゃくちゃ文章が上手い。
 
大槻ケンヂ論 笛吹き男のいいわけについて - 大塚英志
http://bit.ly/155Ci8Y
 
需要があるか知らないけど、大塚英志の文体論書きたいなあ…。俺がいちばん影響受けたのは大塚英志の文体だと思う。一言で言えば「『ゲタを履いて理性的に歩くのが大人である』という世の中に物申すべく、本当は自由に走り回りたいはずの子どもが、仕方ないからゲタ履いて鼻緒に足ひっかけて全力で駆け回ってる」ような文体です(特に近著は走りまくってる)。大塚英志の文章が一見、どこに向かっているのかよくわからない、でも見えない何かと戦ってる気がするってのはそれなんだけど、しかしこの説明もわけわかんないだろうな。ゲタを履いて必死の形相で走り回ってる人見たら「いったいこの人は何と戦ってるんだろう…?」と面食らうのは必至で、彼の論述のわかりにくさはそこにあるんだけど、何と戦ってるのか段々わかってくると、こんな魅力的な文章はない。ないんです。そのうちなんか書きます。

 

 ***


…ということで、1週間終わり。土日は某氏の無職祝いをする以外特に予定もないので、昼からビール飲みながら読書したり映画観たりすると思います。風雅だ。

そばと悟り

最近、というか去年の今頃あたりからずっと昼めしは弊社近くの立ち食いそば屋で済ませていて(「昼めしを済ます」っていかにも流れ作業でサラリーマン感ですね)ボリュームあるごぼう天を乗せても1杯350円で済むし、量を食べるとすぐ眠くなる体質なので、そば一杯で十分。お店のおばちゃんは俺の顔をすっかり覚えてくれて、サービスしてくれるわけでも別にないのだけど、あらお兄ちゃん、いらっしゃいと毎回決まった声を掛けてくれるのでドラクエの村人みたいだと思う。

 

あんまりにも同じものばかり食っているので「お前は食にこだわりがないのか」と同期に指摘され、そう言われるとないですね。毎日同じものを食べていると、日によって味が違うのが分かってきて、あれ、今日は体調がおかしいのかなって、いつもと味覚が違うぞって、わかるしお得。だいたい昔から、同じものばっかり食って飽きたことがないのだけど、ふつうの人は飽きるものなんだろうか。俺は一生そばを食えるぞ。

思えば自分はもう25年も自分やってるわけだけど、しかし自分に飽きるってこと、ないもんな。とすると仮に、そばは自分の中に取り込まれたもの、すなわち「自分=そば」と考えることができたならば、自分自身に飽きがこない以上、そばに飽きる未来も一生来ないのかもしれない。「自分≠そば」と考えれば、いつかはそばに飽きるのかもしれない。おそらくは自分とそばが結びつかなくなったとき、「自分=そば」でありうる可能性がすべて消えてしまったとき、俺はそばに飽きるわけで、ということはつまり、俺がそばに飽きるとき、そばもまた俺に飽きているのだ(!?)。

 

「飽きる」ってのは「自分=A」が「自分≠A」に変わることかもしれない。「自分」ってのは、自殺しない限り嫌でも付き合うしかないわけじゃないですか。そうすると理性は賢いので「お前が生きてるってことは、お前がまだ自分に飽きてない証拠だぞ」って自分が生きてる現状に合理的な解釈を与えて、励ましてくれる。「自分に飽きた」という状態は、「今の自分は自分でない」と感じてしまう状態、自己疎外感マックスの状態かもしれない。つまり「今の自分≠あるべき自分」という状態は、しかしこう書けば当たり前のことで、問題は「あるべき自分」というのが具体的にイメージできるかどうかだと思う。イメージさえできれば、「今の自分=あるべき自分=そば」にもなりうる。

ということは、「自分に飽きる」という状況を解消する方法の一つにはまず「自分はそばだ!」を発見する道がある。その道をガンガン拡張して「今の自分=あるべき自分=そば=カレー=ラーメン…」と無限に代入できるリストを伸ばす(別に好きな食べ物じゃなくていいですけど)。こうすれば飽きませんね。「自分=宇宙」のレベルまで行けば「この世界が滅びないかぎり自分も滅びない」になるし、最強。

もう1つ悩みを解消するためには、単に「あるべき自分」を単純に消せばいい。そうすれば「今の自分」がすべてになって、「あるべき自分」とのギャップに苦しむことはなくなる。がしかし「自分」というのが残っているかぎり、苦は起きるぞというのが仏教の主たる教えで、だから「今の自分」から「自分」という幻想を消して「今」だけになるべきである。ヨガや瞑想の少なくない流派はこの境地を目指してますし、細分化の極地である量子力学もこっちに分類されんじゃないでしょうか。悟り。

前者は「躁(=統合過剰)を突き詰めたら悟りが開ける」というルート、後者は「うつ(=統合失調)を突き詰めたら悟りが開ける」というルートで、違う道をたどりつつ、2つは場所にたどり着くものであると思います。しかしまた一方、二つのルートはたぶん、同じ道の表裏で、我々はそばとの分離、同一化を繰り返しながら、少しずつ悟りへと近づいていくのかもしれません。

「自分=そば」であり、かつ「自分≠そば」である。この「絶対矛盾的自そ同一(自己とそばの同一)」を主体的に引き受けたとき、悟りが開ける。俺も悟りが開けるし、そばも悟りを開く。がんばって悟りを開く。俺が毎日、飽きもせず立ち食いそばと向き合っているのは、そんな悟りの道を探しているからではまったくないです。

…ひっでぇ文章だな。酒のんで書いたってことにしといてください。おわり。

「風立ちぬ」で宮崎駿は大人になった

宮崎駿、引退ということで。

「この世は生きるに値するんだ」宮崎駿監督、引退会見全文
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1309/06/news133.html

 

「風立ちぬ」は巷の評、特に評論家のそれを読むと「『美しいものを表現したい!』という芸術家としての宮崎駿の業」あたりの結論が多いのかなと思います。それを前提にして「こんなもの監督のオナニーじゃねえか!」って怒ってる派と「いや、自分の信じた美を描くことこそ芸術家の使命なのだ」派に分かれてる印象なんだけど、これ、どっちも浅いと思いますね。たしかに一面の真実を指摘してはいるとは思う。思うけれど、どちらも一面でしかない。「宮崎駿はロリコン」くらい、一面でしかない解釈だと思う。

「美しいものを表現する」は宮崎駿が生涯に渡ってずっと追い続けてきたテーマであって、別に本作にはじまった話ではありません。

なぜ彼が美しいものに固執するかといえば、「この世界が生きるに値するとすれば、『世界は美しい』ということを証明してみせるしかない」という人だからでしょう。「美しくない世界は滅びるしかない」くらいの絶望が、大げさでなく宮崎駿にはある。

これは誤解されがちだけれど、彼は何かを描きたい欲望の人というよりはむしろ、絶望の人です。「美しいものを描きたい」ではなく「美しいものを描かねばならない」という過剰なまでの義務感・使命感を背負っている。だからこそ本作のテーマは「生きねば」になるし、「生きよ、そなたは美しい」にもなる。「この世界は生きるに値するのか?」をクソ真面目に問い続けてきたクソ真面目な人なんですよ。

こんなツイートがありました。

さすがに俺は鋭いこと言うわけですが、ツイートのとおり、宮崎駿は美しいものを描くうえで「大人を美しく表現する」ということに欺瞞を感じてしまった人なんですね。大人が大人の姿を美しく描くなんて醜い、オナニーじゃねえか、って。

だから彼の作品では、大人の対極としての少女が、大人がつくりあげた文明に対してファンタジーの自然が、美しく描かれる。72年放映のカリオストロの城パンダコパンダ以来、一貫しています。

宮崎駿は「己の欲望の赴くがままに少女を美しく描く変態ペドおやじ」ではなく「大人も美しく描きたいけど、美しく描いたらウソになる…」という困難をバカ正直に抱えてしまった人でした。ウソがつけない真面目な人だから大人を描けず、それでも自分に代わるような存在が他に誰もいない以上、新しいものを作り続けなければならない。

だから彼は美しい・愛らしい少女を何度でも描かざるをえないし、その方向で限界まで行けば、ポニョのような「幼児性バンザーイ!」みたいなエクストリームな方向にもぶち当たるわけです。そうしてポニョで限界まで進んで壁にぶつかったからこそ「もう大人を描くしか残されていない…」という瀬戸際まで追い詰められ、そうして逆に吹っ切れて「風立ちぬ」へ出発した、という流れは宮崎駿のなかに間違いなくあった、と思います。

【 「風立ちぬ」は「火垂るの墓」へのアンサーである】

本作について宮崎監督に負けず劣らずストイックな物書き、大塚英志はこうコメントしています。*1「風立ちぬは火垂るの墓を作った高畑勲への回答である」。俺もまったく同意なのですが、どういうことか。

 

大塚は昨年出版された『物語消費論 改』で以下の趣旨を述べます。

火垂るの墓」は1988年当時(俺の生年です)「となりのトトロ」を後追いする形で制作され、両作品は併映する形で同時公開されたものだった。上映順は「となりのトトロ火垂るの墓」であった。そこで高畑は「となりのトトロ」への批評として、「火垂るの墓」を制作していたのだ、と。

当時は「となりのトトロを観たあと、火垂るの墓にショックを受けて劇場を飛び出した観客も少なくなかった」なんて話を聞くと、それはそうかもなと思います。

詳細は同書にあたっていただきたいのですが、「火垂るの墓」は、物語の構造から、舞台背景、人物、描写、絵コンテといったミクロなレベルまで、トトロのそれを意識的に反転させている。そうまでした高畑の意図とはなんだったのか?

高畑の問いかけはおそらくこうでした。

「あなたは無垢な少女のファンタジーばかり描いているが、どうして大人を、大人が作り上げてきた歴史を描かないのか。それは逃げじゃないのか」

なぜこの問いがクリティカルに刺さるかといえば、彼らのつくるものが「アニメーション」という近代以降を生きる「大人」が生み出した商品だからですが、このあたりの論理はわかりにくいかもしれない。

 

古今東西、芸術とは必ず、人間の上に立つ崇高な存在に捧げられるものでした。それはその土地の神様に豊作を祈願する踊りだったり、民衆が拝み倒すための仏像だったり、時の権力を讃える壁画だったりした。だから当然、「自己表現」といったものはただの余分でしかありませんでした。神を表現するので精一杯なんだから。

変化が訪れるのは西欧の近代以降。「われ思う。ゆえにわれあり」とあの有名なフレーズをデカルトが宣言、人間が人間として自足するようになった近代以降です。芸術はパトロンをはじめとする上流階級の人間に捧げるものとなり、今日の消費社会では消費者という、世界中に点在する顔の見えないパトロンたちに捧げるものとなりました。そうしてしかし、消費者とは信仰に値する、崇高な存在でしょうか。「お客さまは神様」なのでしょうか。

「消費者を讃えるもの」とは、ほとんどポルノと同義かもしれません。「ipadをこするのは自慰と同じ」とかつて宮崎駿は発言しましたが、消費者の欲望に忠実たる商品は、彼にとってほとんどポルノグラフィー同然であり、それを嬉々として使う消費者はオナニーにふける猿と同然に見えた。

だからこそ宮崎駿は、消費社会から目を背け、自然あふれる美しいファンタジーを描くわけですが、そうは言ってもお前がつくってるのは消費社会の最前線で消費されるアニメじゃねえか。どれだけ消費をオナニーだと目を背けても、お前のアニメはナウシカのエロ同人を生むんだぞ。高畑勲はおそらくそのように、宮崎駿の矛盾を指摘した。それが「火垂るの墓」でした。

 

【「となりのトトロ」VS「火垂るの墓」】

「大人」が成長するということは、消費社会に組み込まれることである。しかし宮崎は、そんな社会に何の疑問もなく組み込まれていく人間を醜いと思う。だがしかし宮崎は、彼が嫌う消費社会の最前線に立ち、消費者のための商品を作るトップクリエイターであった。

その矛盾を見逃さなかった高畑は「そもそもアニメの使命とは何であるか?」という大問題を、作品を通じて宮崎にストレートに問うたのです。

宮崎駿がアニメというメディアを、すなわち大衆の欲望に奉仕するポルノ性の高いメディアを利用しておきながら、まるで戦争からこっち側の歴史なんて存在しなかったかのように、現実離れしたファンタジーだけを夢いっぱいに描くのは欺瞞ではないか。むしろそうした業を背負ったアニメだからこそ現実を、アニメにしか描けない歴史を描く義務があるのではないか…。

高畑の問いはおそらくこのようなものであったのですが、それにしても宮崎駿がクソ真面目なら高畑勲もクソ真面目。彼らの後継者がジブリに育たないのも才能の問題というより、これほど規格外なクソ真面目さを持った人間が他にいないということなのだろうなと思います。まあ才能とはそういうものかもしませんが…。

こうして制作された火垂るの墓は日本の歴史を舞台とし、「近代化を理念として掲げた国家」と「前近代を平気で続けた社会」に引き裂かれて崩壊していく幼い兄妹を、トトロのようなアニメ的な記号表現ではなく、リアリズムのタッチで描いた作品でした。アニメーションを生んだ「近代」という時代が、かつて見殺しにしてきたものを、高畑は真正面から描きました。それも「となりのトトロ」というアニメ表現のど真ん中を走る作品に、わざわざぶつける形で。

 

…ところで「近代」って意味が広すぎてわかりにくいと思うんですけど、「自分のことは自分で考える」の時代だと思ってください。

「風立ちぬ」では主人公の堀越二郎が、軍は二郎宛の手紙を勝手に検閲するだろうという話を彼の上司から聞いて「近代国家の日本がそんなことをするなんてありえない」と憤り、上司が「おい日本が近代国家だと思ってたのか!」と大笑いする場面が出てきますが、これはまさに、そういう時代なんですね。当時は理念として「近代」が掲げられる一方、現実は平気で前近代の延長戦をやっていた。理念の人である堀越二郎は「近代国家」を信じ、しかし大人は平気で現実を生きている。社会全体がそういう矛盾を抱えながら、悩む人は悩み、悩まない人は悩まず、そうして終わりの見えない現実は続いていく。そういう時代でした。

 

前近代の村社会に居場所をなくしてしまった清太と節子は、これからは二人で暮らそう、自分たちの生活をつくろうと、村を飛び出す。「自分のことは自分で決める近代人」として彼らは出発しようとする。しかし現実はといえば、前近代の村社会が平気で続いている。近代の人間として出発しようとする彼らを受け入れてくれる場所なんてどこにもなかった。頼れる縁もなく、見ず知らずの他者とコミュニケートできるような言葉も持たない清太と節子は、都市にも逃げ込めなかった。

その結果「前近代と近代、両方の無理解によって殺される」という悲劇が待っているわけです。

この構図はちょうど、前近代=田舎のおおらかさの象徴であるトトロに庇護されて幸福な現実へと帰っていく、サツキとメイ姉妹と対照をなしています…って、前近代とかなんとか言いすぎて嫌になってきたな。

 

【ざっくりまとめると…】

田舎の美点に庇護され、通過儀礼を経ていく子どもを描いたのが「となりのトトロ

田舎の暗部に見殺しにされ、通過儀礼に失敗した子どもを描いたのが「火垂るの墓

 

ですが、ざっくりまとめすぎたかな…。

となりのトトロ」では、森のなかに昔から住んでるトトロに出会うという、まさしく「子どものときにだけ訪れる」経験、すなわち通過儀礼を果たして子どもは現実へ戻っていく。一方「火垂るの墓」では、自立して「大人」になろうとする子どもが、その「大人」によって見殺しにされ、現実には帰還できない。

高畑勲は、このように対照的な構図を成立させることで宮崎に批評のまなざしを向けました。そうして宮崎駿は、この批評に答えるのに25年かかった。25年かけてやっと出した答えが「風立ちぬ」です。

「風立ちぬ」の物語はどのようなものか。これは最初から「大人」として生きるよう運命づけられ、そうして田舎から都市へ独りで飛び出した少年が、大人になった後も生き延びる物語ですね。

「風立ちぬ」は「火垂るの墓」へのアンサーであるがゆえに、同じ時代背景を舞台にしながら、やはりいろいろとひっくり返した構成になっています。

たとえば清太と節子は、「前近代=田舎から半ば追い出されるように、しかし自らの意志で近代へと出発した人間」でしたが、堀越二郎はといえば、「生まれたときから近代に出発するよう、それどころか近代化していく日本国をトップに立って牽引していくよう教育されてきたエリート」でした。どちらも孤独ではありますが、かたや下層の子ども、かたやエリートの大人です。そして二郎に寄り添う女性は、「節子のような従順な妹」ではなく、「赤の他人の菜穂子」でした。

言葉も対照的ですね。関西弁というローカルな話法しか使えなかった下層の子どもである清太たちに対し、ローカルな言葉を奪われ、作られてまだ間もない不自然な標準語(=書き言葉)と外国語しか与えられなかったエリートの二郎とが対極に置かれています(余談ですが、堀越二郎が生まれた1903年は「方言を排し、標準語を正式な話し言葉として教育しよう」というコンセプトのもと「国語」という授業が日本全国の学校でスタートした年です)。

清太たちを襲った悲劇が「故郷を追われてしまったものの、逃げ込める場所がなかった」だとしたら、二郎を襲った悲劇は「帰るべき故郷が最初から存在しない」というものでした。

他にもいろんな部分で対比されるところはあって面白くて、たとえば二郎がお菓子屋でシベリアを買って、道端でひもじそうにしてる兄妹たちに差し出すシーンがあるでしょう。あそこで土着のことばしか話せない子どもは口ごもって二郎のことを信用せず、そっぽ向いて立ち去るんだけど、あれ、火垂るの墓の逆やってるんだよね。都会が田舎に無理解であるならば、田舎だって都会に無理解であって、そのようにして人間は分断されて寂しかった、って、どんどん脱線してしまう…。

 

宮崎駿が「この世界」を描くまで】

話を戻します。

前近代的な、自然あふれる田舎の美しさを描いた「となりのトトロ」に高畑勲は「本当にそれでいいのか?」と批評のまなざしを向けた。もちろん、となりのトトロは第一級のエンターテイメント映画として完成されています。しかし日本が誇る天才アニメ監督、宮崎駿が成すべき仕事は本当にそれなのか? もっと果たすべき責任があるんじゃないのか?

高畑勲は、ほかの誰よりも宮崎の才能を高く評価しているからこそ問いました。

宮崎駿はそれから「風立ちぬ」に至るまで25年間、大人を描くことに挫折しつづけます。もし宮崎駿が自分の描きたいものを欲望の赴くままに描く「欲望の人」であれば、大人を甘美に描き、それを作る自分も肯定する映画だっていつでも撮れたはずです。が、それはできなかった。

たとえば「紅の豚」は大人の男を描けたかといえばそうではなく、主人公のマルコはすでに戦争から降り、大人になれない魔法を自分にかけています。「あれは失敗作だ」と宮崎監督が振り返るのもそういうことでしょう。

繰り返しますが、宮崎駿は法外にストイックなんですね。「アニメに存在意義があるとしたら美しいものをそこに描き出すことである。だけども大人を美しく描くことはできない」という矛盾を抱え続け、安易に回答を出さなかった。

しかし実は「風立ちぬ」以前から「大人」を描きだす徴候はたしかにありました。本作以前の作品を公開順に並べると…。

 

崖の上のポニョ → 借りぐらしのアリエッティコクリコ坂から → 風立ちぬ」

 

という順になっている。ここに宮崎駿が「この世界」を描くまでの流れがあります。

まず、ポニョで幼児性の果てまで到達した宮崎駿は、「借りぐらしのアリエッティ」で小人問題を描きます。

アリエッティは原作こそイギリスの児童文学ですが、この物語はアイヌの伝承に登場する小人こと「コロボックル(蕗の葉の下の人)」を想起させるものでした。日本が近代化する中で迫害に遭ってきたアイヌ民族の問題が、ここでは隠喩的にですが、描かれます。

次の作品が「コクリコ坂から」。作中、ヒロインのメル(海)は終盤、父は朝鮮戦争に巻き込まれて死んだと、唐突に告白する。セリフの中ではLSTという日本が物資の輸送に使った商船の名前まで登場し、ノスタルジックなドラマが展開しそうな中で「日本も朝鮮戦争に協力していた」という事実が不意に侵入してくる。ちなみに朝鮮戦争のさなか、LSTの沈没により多数の日本人が死亡したのは実際の史実で、原作にないこの改変を宮崎駿はわざわざ加えました。

 

このようにして宮崎駿は、大人たちが形作ってきたこの国の歴史を描く準備をしていた、とは大塚英志『物語消費論 改』の論稿なので詳細はそちらを。(ところで大塚英志も、サブカルチャーの作り手として消費社会の最前線でストイックに戦ってきた人ですが、同書のあとがきで「みんなに語りかけることからぼくは降りる」と宣言しています。俺としてはこっちの引退宣言がまず衝撃的で、大塚英志が降りるほど消費社会はどん詰まりなんだろうなぁ…)

ともかくも歴史を描くために、まずアリエッティで隠喩的に歴史を描き、コクリコ坂で史実の断片を侵入させた。ホップ、ステップと進んで、とうとう「風立ちぬ」でジャンプして空を飛んだというのは、案外とこじつけでもないように思えませんか。

 

【「風立ちぬ」は宮崎駿のオナニーなのか?】

さて。

宮崎駿は「大人の美しさを描けばオナニーになってしまう」という困難と向き合い続け、ポニョからアリエッティ、コクリコ坂と進むなかで、ようやく光を見出した。大人を描く覚悟ができた。

ここまで「オナニー」という言葉を推してきましたが、考えようではオナニーより悪いかもしれない。アニメを作るとは、下手をすれば爆撃機を作ってしまうことと同じかもしれない。1つの表現が人を殺すかもしれない。宮崎駿はそれくらいに思っていて、だから他人にも容赦がない。一つの表現がその人の人生を奪うかもしれないと、表現がもちうる暴力性について徹底的に自覚的だからこそ、他人にも厳しいんです。

そうして暴力を持たざるものの象徴として、美しい少女を繰り返し描いてきた彼は、とうとう近代を生きた現実の大人、「堀越二郎」に爆撃機を作らせた。

それはアニメを作ってきた自らの責任を、真正面から問うことでもありました。いま「つくる」ということは、果たして肯定できるのか? 肯定できないのか? 自分のつくってきたものに意味はあったのか?

そうであればこれは、「宮崎駿のオナニー」ではなく、むしろ「宮崎駿の作家人生を賭した一世一代の大勝負」でしょう。失敗したら一生のお笑い草になるかもしれない。すでにして偉大な宮崎駿はこんなものに挑戦しないで、おとなしく引退する手だってあったんだから。

宮崎駿の覚悟がはたして実を結んだかどうか、オナニー以上の何かがスクリーンに映されているかどうかは、もちろん観客の判断に委ねられています。芸術家たるもの作品がすべてですし、「風立ちぬ」はやっぱり監督のオナニー映画だと感じる人だっている。それは仕方がない。

ですが、日本の映画界を牽引してきた彼の積年の苦闘をまったく無視して「芸術家としての自分を肯定した、ただのオナニー映画」とは、あまりに残酷な物言いではないでしょうか。作品の出来不出来、好き嫌いは置いておくにしても、今までの作品とはまったく意味の違う、宮崎駿ののっぴきならない覚悟は間違いなく本作にある。これは間違いありません。「がんばってきた自分へのごほうび」とはまったく逆で、一世一代の大勝負ですよ。

否定的な意見も当然あるでしょうが、少なくともこれを、彼の人生の集大成として真剣に受け止めることこそ、消費社会の最前線に立って戦い続けてきた、この偉大な作家に払ってしかるべき敬意ではないでしょうか。と言えば大げさだけど、単に「オナニー映画」で片付けていい作品じゃないですよ、本当に。

 

【「風立ちぬ」は本当に子ども向け映画ではないのか?】 

宮崎駿は「子どものためにアニメをつくる」と言い続けてきた人です。大人向けのアニメは作らない、世界のマーケットも意識しない。ただ日本の子どもに向けて作るんだ、と。ではなぜ今回、大人を、歴史を描いたのか。いま子どもに伝えるべきは、こっちだと思ったからでしょう。つまり今回「『「大人」になってもいいんだよ』という赦し」がはじめて主題になった。

「時代が追い付いた」と公開前のインタビューで発言していましたが、それは宮崎駿の傲慢でもなんでもなく、「大人を描くことこそが、子どもへのメッセージになる」という時代が来たということでしょう。少なくとも宮崎駿はそう思ったから、大人を描いた。

本作、当初はもう1つのエンディング案があったそうです。当初の案では、なんと二郎は菜穂子とともに死んでいる。

「風立ちぬ」もう一つのエンディング

http://comajojo.hatenablog.com/entry/2013/08/18/024840
 

もちろんそれはそれで一つの映画でしょうが、「時代に殺された悲しい男女の物語」ということになってしまえば、それはうまくいって「火垂るの墓の一変奏」で終わっていたと思います。少なくとも明確なアンサーにはなりえなかっただろうし、それで傑作になっていたとしても、宮崎駿はまだ引退できなかったでしょう。「25年かけて高畑勲の後追いをした」では、いくら作品が素晴らしくてもピリオドは打てなかったと思う。

宮崎駿は悩みに悩んだ結果、「二郎を生かす」という選択をした。いま子どもに向けて伝えるならば、そのエンディングを描くべきだと思い、描ききったからこそ引退した。

 俺は思うんですけどね、この人、最後の最後に大ウソついたんだと思う。

「本当のことだけ描きたい!」って美しい少女の世界を描いてきて、それはどれだけ美しく描いてもウソにならなかった。美しいファンタジーの世界は本当のことだけ描いていれば良くて、美しくない「この世界」は無視してかまわなかった。

それが最後、「この世界は生きるに値する」って「この世界」を描いちゃうわけでしょ。俺、こんなの大ウソだと思うんだよね。「どんなにつらくても、最後にワインを持って待っててくれる人がいる」なんて、真っ赤なウソかもしれない。この世界は、それはそれはひっでえもんかもしれない。それでも「この世界は生きるに値するんだ!」って子どもに向かって強弁するのは、体を張って全力で素敵なウソをつくのは、大人が背負ってやるべき使命でしょう。だって「この世界は生きるに値しない」なんて大人が言い出したら、それ聞いた子どもはどうすりゃいいんだよ。

俺、宮崎駿の作品って、子どもの頃からひとつも好きじゃなかったんですけど、「風立ちぬ」はボロボロ泣きましたね。ああ、俺はこれが見たかったのかもしれないって。

宮崎駿は最後、わざわざウソをつきに、芸術家として失格するために戻ってきた。芸術家としては失格かもしれないけど、ひとりの大人として、果たすべき責任を最後に果たした。「この世界で君は生きていてもいいんだ!」って、一世一代の大ウソついて、ウソをついてしまった以上は芸術家失格だ、あとは子どもたちに任せるって、格好よすぎるでしょう。

…すごい走りましたけど、本当にすごい。宮崎駿は大人になれたんだと思った。こんなのやられたらさあ、憧れるしかないんだよなあ…。

【「風立ちぬ」は宮崎駿の最高傑作である】

宮崎駿の最高傑作とは何か。もちろん意見は分かれるでしょう。

ラピュタが最高だ、いやナウシカだ、いやとなりの山田くんだ…等々。

けれども、宮崎駿自身にとっての最高傑作は間違いなく「風立ちぬ」で間違いないと思う。

彼はずっと「風立ちぬ」が描きたかった人であり、でもずっと描けなくて、とうとうそれを達成した。それは消費社会の中でアニメーションを作ってきた自分への赦しであり、これからアニメーションを作っていく次世代の人間たちへの赦しでもあり、これから「大人」へ出発する「子ども」たちへの赦しでもあった。「この世界は生きるに値するんだ!」って捨て身の大博打を仕掛けて、そうしてバトンを渡した。

である以上、我々が宮崎監督に言うべきは「もっとアニメを作り続けてください」ではない。

「あとはこっちでやりますから、任せてください」でしょう。

宮崎駿は最後に、わがままな芸術家としてではなく、子どもに未来を託す大人として果たすべき責任を果たした。だからこそ、今度は我々がその使命を引き継ぐ番である。別にアニメの現場だけじゃない。それぞれが責任を持って、自分の使命を引き受ければいい。今度は俺たちが、子どもに大ウソをつく順番なんだ、って。

 宮崎駿の引退を「引退詐欺」にしないためにも、クソ真面目に生きねばいかんと思います。生きねば。

 

【参考リンク】

大塚英志 『風立ちぬ』は火垂るの墓への回答」

http://dot.asahi.com/wa/2013072500035.html

「風立ちぬ」もう一つのエンディング

http://comajojo.hatenablog.com/entry/2013/08/18/024840

宮崎駿の名言集」

http://matome.naver.jp/odai/2127907003039673401

 

※10,000字超も書いて本編にほとんど踏み込んでない…!

「風立ちぬは宮崎駿の中でどういう位置づけにあるのか」と「俺は風立ちぬが好きだ!」しか語ってないですね、ほとんど。巷の批評家の評は全然しっくり来てないので、また感想書きます。感想書こうとしてもうまくまとまらないような、言葉が下手クソな人のほうがぐっとくる映画だと思うんだよな。

*1:http://dot.asahi.com/wa/2013072500035.html

「社会人になると人間はつまらなくなる」は本当に本当なのか?(俺はおもしろいけど)

「社会人になると人間はつまらなくなる」という説について。

まあ他人事みたいに言ってますけど、他人事ではない。

サラリーマン生活はじめてからネタが思いつかなくなったのは俺に関して言えばかなり本当で「こんな現実はイヤだ!」からの「全部がでたらめだったらおもしろいのに…」へつながる現実逃避的な思考回路、っていうんですか。現実を深刻に受け止めすぎないための俺なりの処世術が、俺をしてネタツイートを書かしめたり、ネタツイートを書かしめたりしたんだけども、それが就職以前でした。就職以降、なにかが変わる。なにか。

 

これはわかる人にはわかるだろうし、わからない人は何十万字書いてもわからないかもしれないんだけど「意味」って怖いんですね。とりあえずなんでもネタにして現実を凌ぐというのは「意味に縛られるのが怖いから、意味を無意味に変えて笑ってしまう」ということで、そういう処世術が途端に通用しなくなる現場が社会、および会社組織だと認識していただくと、就活を控える学生の方々にも参考になるかと思います。社会に出たらへらへら笑ってばかりじゃいられないってことですね。そりゃそうだ。

 

思えば就活生だった時分、自己PRをどうぞ、なんて言われて、「私は学生時代に○○を行い、創意工夫と努力によって組織を牽引しました、ゆえに私には☓☓力があります。そしてそれゆえに私は御社で☓☓力を活かせる有用な人材であります」みたいな語り、全然できなかった。「意味」とはこれですね。「私の過去の実績は、私のこれこれの能力を証明するものであり、ゆえに御社でもこの能力を開花させることが可能です」って、ウソじゃないですか。過去にたまたまそういうことがあったからってなんなんだ。

ウソだし「過去のある出来事があったおかげで現在そして未来の自分がある」という理屈は、怖い。怖いですよ。「私は両親に虐待されたおかげでこうなりました」ってカミングアウトするのと何が違うんだと思うんですけど、思わねえか。俺は思ってましたし、今でもやっぱ思う。

 

別に、過去に発生した諸々のイベントが現在のあなたを形成しているというのは否定しない。それは事実だと思いますけど、それをなぜ口に出さなきゃいけないの、って話じゃないですか。口に出したら、俺はそれを信じこまなきゃいけなくなる。

「なぜ現在のあなたは、現在のあなたであるのか?」と問われて「それは大学時代に、アニメのサークルで活躍したからである」って、あまりにバカバカしくて、面接中にへらへら笑い出すのはたしかに良くなかったけれど、でも笑わなかったらやってられない。やってられないけど、それをやると一次面接という社会は俺を認めてくれないんですね(そりゃそうだ)。

論理的思考能力が高すぎるがゆえに面接で落ちるとは不条理もいいところで、これを笑わずにいられようか。ということで、就活中は現実のネタ化にも気合いが入って、現実の不条理は笑い事にしていたわけです。しかしこうまとめると地獄だな。

 ***

それでまあ、何の因果か最終面接までへらへら笑ってたら今の会社がなぜか内定を出してくれて、菩薩かと思ったんだけど、それで入社後もへらへら笑って通用するかといえばそうでもなく、営業に配属されたからには「なぜお前は○○をしたのか?」「お前はいま何をすべきであるのか?」「お前は何者なのか?」と上司や客が意味を問うてくる場面に何度も出くわす。なぜなのかと問われて「自分でもわからないけど、そうしました」と言えるほど正直者でもないので、その場でパッとひらめいた理由を言ったり、少し考えて何も思いつかなければ「うーん…すいません…」と謝ってみたり、時には絶句もするんですけど、しかしこれは、完全に社会不適合者じゃないか。書く気が失せてきたぞ…。

 

とにかくしかし、困ったときに「へらへら笑ってやり過ごす」という伝家の宝刀、俺のお家芸をふさがれると、困る。自分が悪いと思ってないのに「すいません」と言い続けてると喉が潰れていくし(本当に)、何かしら言葉をでっちあげてごまかして、それがなんとか通ったところで、自分が嘘をじゃかじゃか積み重ねているのが恐ろしくなって「この嘘ツリーが巨大化して手遅れになる前に、早くリセットしてゼロに戻さなければ…」と思うし(これが退職騒動を起こした理由ですね。はっは)。言い訳するな、へらへらするな、と言われたら、俺の二大名物が消える。琵琶湖とひこにゃんを奪われた滋賀県みたいなもんで、おもしろいわけがない。

というわけで、社会に出れば人間はおもしろくなくなる、というのは一つの道理ですね。げに恐ろしきは社会の闇よ…。

***

思えば少年時代、無口で友達もおらず学校も休みがちだった俺が、ようやくコミュニケーションのコツ(?)をつかみはじめたのは10歳ごろで、とりあえずへらへら笑っておけば通る、という処世術はこのとき誕生する。口ベタでも笑ってりゃ嫌われないって、手探りするなかでわかってきたんでしょうね。

 

自分はこう思う、自分はこうしたい、これがほしい、とレゴブロック組むみたいにことばを組み立てる能力が未発達な子どもが、コミュニケーションの世界へ羽ばたくうえで「私は口ベタだけれど、あなたの敵じゃないよ〜」とことばを使わずに伝えられる「笑い」という表現は大変に便利なもので、発明だった。たぶん笑うという発想がなかったら、世の中と折り合わなさ過ぎて、とっくに死んでたか人を刺すかしてたんじゃないか。

酒鬼薔薇聖斗が小学生を殺したのは俺が9歳のときで、ワイドショーを見ながら「きっと俺もこうなるんだ…」って想像がリアルにできて怖ろしかったんだけど、こうならないためにはどうすればいいんだ、と考え、「とりあえず笑って不条理をやりすごす」って発明をしたのかもしれない。て、天才だ…。

酒鬼薔薇少年は文才もあり、絵の才能もあって、彼は早熟の天才かもしれないと当時の週刊誌は書いていたけれど、俺のほうが天才でしたね。こうして生き延びたんだから。

 ***

で、幸か不幸かへらへら笑ってここまで来てしまったんだけど、これ何に似てるかというと、モラトリアムですね。モラトリアムの延長戦。

酒鬼薔薇少年は殺人を犯すことで通過儀礼を行おうとした。彼は彼なりの通過儀礼をでっち上げ、子どもから大人へ移行しようとした」という論評も見たことがありますが、それで言えば俺はへらへら笑うことで誰も殺さず、通過儀礼から逃げ続けてここまで来た。だけども根本の問題はなんにも解決してない。へらへら笑って現実を見ないガキである。

乱暴なこと言ってるように見えて本当に乱暴なこと言ってるんですけど、でもちょっと前までツイッターで元気にネタツイートしてた人たちが社会に出たら急に死にたい死にたい言ってる理由って、これだと思う。「大人になれ」ってしめつけがどんどん強くなって、それは極論、人を殺すか・自分が死ぬかしかないっていう。そこまでいかないと通過儀礼を果たせない、大人になれないっていう。尾崎豊だってあれだけ派手に反抗して、大人になれないまま死んでいった。

 

俺がリスペクトしてやまない作家であり批評家の大塚英志は「現代は通過儀礼が不可能になってしまった時代だから、通過儀礼を疑似体験できるフィクション・物語を胸に抱いて、現実に耐えていくしかない」と何度も繰り返し言っていて、「なんでこの人はこんなに絶望してるんだ…?」と俺は最初、著作を読んで驚いた。けど、ようやく意味がわかってきた気がする。俺はなんだかんだでへらへら笑って現実をフィクションに変えて、通過儀礼をやり過ごしてきたんだなって。大塚英志は誤解されているけど、批評界にこんないい人はいないですよ。30年近くこればっかり言ってきたんだから。

そんな通過儀礼が不可能な時代で、無理やり実行してうっかり大人になってしまったのが「意識の高い学生」であり、もっとすごいのが「子役タレント」だろう。「早く大人になれ」と言われて大人になって、その結果、大人から「気持ち悪い」と言われたら悲しすぎるなと思うし、笑えないなと思う。かつて酒鬼薔薇聖斗になってたかもしれない俺は、そういう子役にだってなってたかもしれない。あんまり叩いていいもんじゃないよ。

 

でまあ一方、俺はへらへら笑って「通過儀礼なんてねえよw」と逃げてきたけども「どうしようか…」になったわけですね、ここにきて。なんだかんだで、まわりがおかしくなっていく中で俺だけまともに生き延びてしまった。なんだろう、終戦直後の日本人はこんな感じだったのかもしれない。気づいたらまわりは廃墟で、俺だけ生き延びてたっていう。

まあ最近は、お前こそ本当に頭がおかしいなんて言われまくってるけど、俺くらいまともな人間はいないからな。まともなことを言う人間がいちばんイカれて見えるくらい、この社会はふざけてるんですよ。真っ当なこと言ってりゃ、ただそれだけでロックになるんだからな。

 ***

…飽きてきたのでもうまとめます(モラトリアム人間なので)。

じゃあどうすればいいんだというと、答えはないんだけども、ここにきてようやく「責任感」というものが、わかってきた気がする。それは酒鬼薔薇聖斗とか、意識が高くなってしまった人間とか、子役タレントとか、ツイッターで死にたい死にたい連呼してる人とか、小学生のときの自分とか、親兄弟とかそういうもの全部に対する責任っていうんですか。そういうの。

ここまで来ると「全人類に対する責任感」「宇宙に対する責任感」ってことになりかねないけど、それはそうで、でもそれを認めていっそ抱え込んじゃったほうが、楽かもしれないんだよな。モラトリアムを脱するって、そういうことなんだと思う。アフリカのある部族は、いい大人たちが夜ごと盛大な儀式をやって天を仰いで「俺たちが太陽を動かしてるんだ」って宇宙とつながってる気になってたらしいけど、それはそれで幸せだったんだと思うし、現在、人間の根本にそういうものがないかというと、ある気がするぞ、俺は。そういう部族では宇宙を動かす儀式への参加資格として、通過儀礼を経て大人になるというプロセスがあったりもしたんだから。大人になるとは宇宙に対する責任を追うことで、それが彼らに生きる実感を与えていた。

 

…ということで覚悟しました、俺は新しい宗教を立ち上げますという話ではなく、ちゃんと歴史の勉強とかしてます。なにが「ということで」なんだ…。

もう少しまともな文章を書くつもりだったのに、すぐ話を広げて宇宙まで持っていくクセがあって困る。まあどんなクセだって話なんだけど、そりゃ宇宙までつながったらめでたいよなあと思うし、僕なりの照れではあるんですけどね、一応。意味とか過去とかその他諸々よ、宇宙へ飛んでけーっていう。痛いの痛いのとんでけーと同じです。本当に。へらへら笑うのもきっとそうで、笑い声に乗せて毒気を宇宙へ飛ばしてるんだろうな。

***

まとめます(今度こそ)。

「自分を社会の中に位置づけるための言葉を持てない」という人間は結構いて、その人が「成長して自分を語れるようになる」までの猶予期間が、「へらへら期=モラトリアム」である、と。へらへら笑って現実をやりすごすことが許される期間である、と。勝手に普遍化しましたけど、身に覚えがある人はいると思う。

 

そうすると俺がいま為すべきは「いつまでもへらへら笑ってないで、自分を社会に存在させるための言葉を、真剣に組み立てる」ということで、幸いにして部署も営業部から異動になり、コミュニケーションの反射神経があまり要求されないぬるめの職場に異動したこともありまして、この猶予を生かして学ぶしかないなと。いつまでも「世界がお笑いだったらいいのに…」とか言ってる場合じゃないなと。

「世界がお笑いだったらいいのに」と願ってるというのは、はっきり言えば子どもですけど、そういう子どもの心を捨てたら、この先なんにもないと思うんだよね。「お前は平気でへらへら笑って過ごして、それでいいのか?」って、子どものときの自分が問いかけてくるっつーのは昔からあったけど、社会に出たからってその声を完全に押し殺してしまったら、そのときは本当に、ただのつまらないサラリーマンになるんだと思う。

だから自分の中の子どもを捨てずに守るための言葉ですね、それを組み立てるしかないなと思います。アムロがガンダム乗るみたいなもんですね。ガンダムを作らねばならない。ガンダムだよ、諸君。この世界で大人になるとは、悲しいかなガンダムを作ることであり、美しい爆撃機を作ることである、と。

 

…ということで、最近は日本史・世界史の勉強から語学、ガンダムの作り方から宇宙のことまで、諸々勉強しているところであります。勉強は必要性ってのがわかると、骨身にしみますね。おもしろい。

2013年9月10日現在。俺はまだ、おもしろいぞ。

「死にたい」なんて絶対言うんじゃねえぞ

俺はメンヘラに冷たいし脳の良心を司る部位にまったく血が通ってないクソサイコパス野郎だから、インターネットに「死にたい」とか書き込む奴には絶対に同情なんかしない。バカだと思う。

 

人間は、自分が信じてることを言うんじゃない。

人間は、自分が言ったことを信じてしまう。

「死にたい」と言葉を発してはじめて、なるほど、俺は死にたいのだな…と納得する。そうして「俺は確かに死にたいはずだ」と、自分が死にたいと思うに値する、確実と思われる証拠を集めはじめてしまう。私はかくの如き状況下に置かれている。これはとてもつらい。ゆえに死にたくなるのも当然である。あなたもそう思うであろう。そういうふうに、実に論理的に考える。

そうして「死にたい」が自家中毒を起こして、ますます「死にたい」としか思えなくなる。バカだなと思うけど。

 

文章を書くとは、自分の体に毒を回すことでもある。書いた以上は、その書いた文字の表すとおりに自分は信じこまなくてはいけない。そういう強迫観念が書いた文字に従って生まれる。

毒を外に発散させるだけの芸や教養体系も持たない人間が文章を書いたってろくな事にはならないよ、本当に。

「そんなこと言っても、インターネットは『死にたい』と気軽に言ってもかまわない、ガス抜きの場所じゃないのか」と言われるかもしれない。でもそれは間違いだ。「男性は精子が溜まってくるから、定期的に精子を出さなければならない」と同じモデルで考えてるのだろうけど、精神と精子を混同してるんじゃないか。

 

残念ながら、その人間=精子タンクモデルは大きな誤謬を孕んでいる。世界中が産業社会化へ進んでいく最中でフロイトが発明した力動精神医学は、あたかもタービンから飛び出した蒸気が汽車に運動エネルギーを与えるように、頭の中でリビドーが膨張した結果、人間は突き動かされるのだと精神の作用を説明した。フロイトは熱力学と同じモデルを転用して精神を捉えたが、それは本当に正しいのか、という話をしようと思ったけど、膨大だからやめる。

 

でも、そういうザーメンタンクモデルは近代化以降、物理学と同じように精神のはたらきを説明できる便利な説明原理として登場しただけだ。

有名なストレス説だってそう。ストレス(Stress=応力)は物理学用語からの転用だけど、しかしストレスは1つの説明原理にすぎず、証明されているわけではない。「ストレスがたまる」という話法は便利で「じゃあストレスを解消するにはどうすればいいのか?」というわかりやすい話になる。「ストレスを解消するにはこの商品を!」ということでそこには産業の、カネの匂いがするけれど、しかしこれが本当の解決策なのかはわからない。

少なくとも、それを信じたら幸せになれるのかどうかくらい疑ってみてもいい、と俺は思う。「ストレス」なるものは仮説にすぎず、違うと思えば別のロジックを組み立てたっていい。

(適当に言ってるわけじゃなくて、説明しようと思ったら膨大なんです。G・ベイトソン『精神と自然』ではこれが論理的な誤りを犯していると明確なロジックで説明してるんだけど、めちゃくちゃおもしろい) 

***

脱線した。 

とにかく「死にたい」と直接俺に言うならまだいい。そうしたら俺もちゃんと聞いて、ふーん、くらいのことは言って、その「死にたい」はその場でおしまいになる。タバコの煙が空へ消えてくみたいに、発したことばはその場で消えていく。

でも「死にたい」とインターネットに書いたら、それはバカだ。書き込むにあたって「本当の死にたさ」を伝えなければと自分がつらい証拠を捜しはじめるし、書き込んだ後も自分の「死にたい」が十分に伝わってないんじゃないかと絶えず不安になる。インターネットの書き込みなんて、伝わったかどうかわかるわけがない。おまけに自分の書いた「死にたい」は、そこにずっと残る。「お前が書いたこの『死にたい』はウソなのか?」と言葉が問いかけてくる。

こんなのはタバコの煙をガンガン吸い込んでるのと同じだ。「死にたい」は決して発散に向かわず、体内に凝縮される。「愚痴を吐き出す」というモデルで考えないほうがいい。余計にためこんでるんだから。

 

第一「死にたい」をわかるとはどういうことか。

「俺も死にたいよ」という形でしかわからない。そうやって自殺サークルみたいになるんだろうけど、「死にたい」を本当にわかったら俺は死にたくなってしまうし、そんなバカなことをする趣味はない。

わかるとすれば、自分とは切り離した他人事としてその人の「死にたい」を理解するだけだし、理解したら「バカなことを言ってる」にしかならない。

 

「死にたい」はどうやって生まれるか。

「ここにいたら危険だ」とまず脳に信号が送られる。これは動物と同じで、しかし人間には「大丈夫、ここから逃げなくていい」と判断を下す理性もある。それが一時的なものであれば、理性の言うとおりじっと我慢して嵐が通り過ぎるのを待てばいい。それでなんとかなる場合もあるだろう。

しかしそれがずっと続くと「ここにいたら危険なのに、私はここから逃げないでいる」というおかしな状況が生まれる。理性はこの状況を合理的に解釈する。解釈は2つある。

1つは「そうか、私は死ぬかもしれないのにここにいるということは、私は死にたいのだな」と理性が合理的な答えを導く。こうして「死にたい」が生まれる。

もう1つは「私はここにいるべきだし、決して危険ではない」と理性が危険信号を無視する。徹底的に合理化する。ブラック企業に従順になってしまう人はこれだろう。

「狂人は理性が狂っているのではない。理性以外のすべてが狂っているのだ」という箴言があるけれど、理性だけが主導権を握るとこうなる。発狂だ。

 

「死にたい」を連呼していて、かつその事態を合理的に解釈しようとし続ける限り、人間は死ぬか発狂するかしかない。どうしてそうなるか。「死にたい」が間違いだからだ。間違いに向かって突き進む限り、その先は破滅しか待っていない。

 

「死にたい」と言う人ほど死なないという誤解はさっきのストレス学説と同じで、「死にたい」と口にすることは死にたみの発散になって良いという解釈モデルから生まれたものだろうけど、残念ながらそんなことはない。「死にたい」と口にするほど、人はますます加速度的に死にたくなる。

 

自分の状況を「死にたい」で済ますのは、自分と異質なものを「ウザい」「キモい」で済ます中学生と同じだ、と性格の悪い俺は思う。自分を語る言葉を持ってないから、そういうことになる。身も蓋もない言い方をすれば、頭が悪い。

でも、頭が悪いというのは一つの救いであって、頭が悪いなら頭が良くなればいい。バカは罪でもなんでもない。バカであることを素直に認めて、自分を語る言葉を自分で組み立てはじめればいい。

「死にたい」と思ったということは、今まで自分を構成していた言葉であり世界が信じられなくなった、ということで、それはまた、一から自分の言葉を組み立てるためのチャンスでもある。それは決して楽な道ではないだろうけど、でもきっとそうするしかない。少なくとも「メンタルを鍛える」なんてエセ科学じみた発想より何倍もマシだ。

死にたいと思った人間だけが賢くなれるんだ、と俺は思う。こんな社会、死にたいと思ったことのない人間のほうが異常なんだから。

 

「死にたい」なんて言っても「間違ったことを言うのはバカだ」にしかならないし、誰も本気で同情なんかしてくれない。「メンタルヘルス」なんて御大層な問題じゃなくて、頭が悪いだけだ。あるいは危険信号に反応できないほど、体が鈍らされているだけ。メンヘラは玄米食って日本史でも勉強してろ、って俺が言うのはそういうことで、メンヘラはメンタルが悪いんじゃない。メンタル以外のすべてが悪い。メンタル以外を何とかするんだ。

 

俺は冷たいから絶対に同情しない。死にたいなんて言うんじゃねえぞ。

「少年は黒髪ロングの夢を見るー黒ロンから見た現代のドラマ」

続きです。

前回:「黒髪ロングはなぜエロいのか? ―黒ロンでたどる日本文化史―」

http://johnetsu.hatenablog.jp/entry/2013/09/06/204003

 

【前回のおさらい】

平安時代から江戸時代まで黒ロンが流行ったけど、江戸からは日本髪になった。

 

ということで江戸の日本髪が「女性も活発に動きたい!」という男女平等の象徴であるならば、平安の黒髪ロングは「女性を二次元世界に閉じ込めたい!」という男根主義の象徴でしょう。*1

 

だからこそ「黒ロン好きはキモオタ」なんてイメージも出てくるのだろうし、そもそも本稿のあまりにもあまりな物言いでは、「黒ロン好き=キモい」と思われても仕方がない。それは僕が全面的に悪いのですが、しかし本当にそれだけなのか。本当にキモいのか。

いや、黒ロン好きはキモくない。キモくないです。キモくないかもしれない。

説明するぞ!

 ※本稿、話が膨大で言いたい放題なので、意味がわからないところは飛ばしてください。

 

【男女平等時代の黒ロン】

現代、男女は平等です。少なくとも建前はそうで、「女は男に従え」なんて言おうもんなら、政治家・芸人・もんじゅくんの誰がツイートしてもまず炎上します。平安時代のように「男に顔を見られたら性交渉を拒めない」という非情なまでの男女差別は存在しない。

 

もちろん現代は髪型も自由です。「男からのアプローチを受けるため、女性は黒ロンにしなければならない」などという因襲は面影もない。ではなぜ、この男女平等が是とされる現代に黒ロンなのか。これは瑣末なようだけど、現代を語る上で避けては通れない、非常に重要なテーマです。

 

【自由ってせつなくないですか ~黒ロンから遠くはなれて~】

何も髪型にかぎらず、現代は自由の時代です。が、自由が幸せだとは限らない。

「人間は自由の刑に処せられている」と言った思想家もいましたが、「何でも自由にしていいよ」と言われると、我々は困ってしまう。「何でも自分で判断する」というのは、人間にはかなりしんどい。そうして「自由はしんどい」と感じた国民が判断を放棄して、流れに身を任せてしまった結果がナチスドイツの全体主義だった、とは「自由からの逃走」を記したE,フロムの分析ですが、やっぱり自由ってせつなくないですか。

自分を束縛する悪は存在しない(ということになっている)この時代は、悪と闘うドラマが存在しない時代です。ドラマを起こそうとして無理やり闘うべき悪を探せば「ユダヤ人こそ諸悪の根源である!」と断言するヒトラーに取り込まれてしまう…というのは対岸の火事ではまったくなく、日本海の向こうのアジアに敵を見出してしまう現代のネット戦士はそんな感じだと思う。

戦後民主主義の定着以降「われわれは自由だ!」が前提としてある一方で、やっぱり自分は自由ではない気がする。何者かが自分を縛り付けている気がする。しかし縛り付けている何かと戦うことはできるんだろうか。

 

というところで、「悪の正体はわからなくても反抗する」というドラマが誕生します。いったい何のことかと言えば、尾崎豊のことですね。

 

尾崎豊のことですね】

高校生の尾崎豊は早く自由になりたくて夜の校舎の窓ガラスを壊して回りましたが、「卒業しても何も変わらない」「仕組まれた自由に誰も気づかない」「結局、自由になれなかった」と自らの敗北を宣言し、自死します。

この当時、尾崎が共感を得たのは、「見えないけど自分を縛る何かがいる」という感覚が思い悩む思春期の少年少女の間に共有されていたからでしょう。反抗したくてもできない彼らの代わりに、尾崎豊は反抗してみせ、そして案の定、失敗した。

 

そういう戦いが「なんで見えない敵と戦ってるんすかw」と笑われてしまいかねない現代、「見えないから敵はいない」が当たり前になっているのかもしれません。

(余談ですが、「放射脳」をめぐる話はこれですね。「見えない敵はいない」「想定できない危険は危険ではない」とされる世の中で、「見えない敵」である放射能が復讐をしかけてきたのは必然であった)。

 

悪が存在しえないこの時代、反抗はもはやお笑いじみたものでしかありえない。それでも笑われる覚悟で反抗の姿勢を取りつづけた尾崎豊は、時代遅れの騎士道精神でもって風車に立ち向かい続けた、あのドン・キホーテを思わせます。敵が風車のようなものだとわかっていてもなお、人間は戦い続けなければならないのか。尾崎豊が残した問いかけはそんなものだったと、「卒業」を聞いて涙をボロボロ流す俺は思います。

 

オウム真理教エヴァンゲリオン

さて、尾崎の死から3年後の1995年、地下鉄日比谷線構内で猛毒のサリンガスを撒いたのは、新興宗教「オウム真理教」の信者でした。

90年代初頭にバブルがはじけ、戦後の日本を支えてきた「経済成長」というドラマもついに終わり、人々が生きる方針を見失い、ただ「自由」という漠然の中に置かれたとき、若者に生きる指針を与えてくれたのは、皮肉なことに新興宗教しかなかった。麻原彰晃の毛髪がボサボサに伸びた=自律を欠いた黒ロンなのは象徴的かもしれません。

f:id:johnetsu-k:20130907092131j:plain

(美学なき黒ロン。おのれの妄想のままに生きた彼は、黒ロンのダークサイドと呼ぶにふさわしい存在かもしれない) 

 

自由の重みに耐えかねた人々は、「こうすればいい」と答えを与えてくれるもの、イデオロギーや宗教にたやすく身を委ねてしまう。長らく宗教を遠ざけてきた日本人は「信仰」という行為がいかなるものか、わからなくなっていました。

ところで黒ロンの美とは「何も信じられるものがない世界では、自分が自分を律するしかない」というやせ我慢じみた覚悟から生まれるものです。そう、信仰なき世界における信仰。

オウム真理教がもたらした混乱とは「安易に信仰というものを発見してしまった人々」と「信仰がわからずパニックになってしまった人々」の衝突にありました。

 

***

 

同じく95年、社会学者の宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」とメッセージを打ち出し流行語となりますが、これは「ドラマのない日常に満足しろ」という意味ですね。「はじまりと終わりがある」からこそのドラマで、それが存在せずだらだらと続く作品がたとえば「日常系」と呼ばれます。

「日常系」とは正しく現代の要請に応えて出てきたものではあるのですが、そこに大前提としてあるのは「ドラマのない日常は善である」という思想。そこでは「ドラマのない日常は本当によいのだろうか?」という疑問は最初からないものにされる。

 

同じく95年から放映開始された「新世紀エヴァンゲリオン」は最終2話で突如としてシナリオを崩壊させます。日常系アニメのような架空の学園ドラマを露悪的に描き、脚本すらそこに写し、最後は今までのドラマを自己啓発セミナーじみた茶番に回収させ、現代でドラマを作り出してしまうことの欺瞞を自ら暴き立てる。「ドラマは死んだ!」と宣告したそのアニメが空前のブームを巻き起こし、人々はそこに拍手を送る。時代はそのようにして行き詰まっていました。

 

【ドラマなき時代の黒ロン】

めちゃくちゃ端折ってるのは申し訳ないのですが、ということで、ドラマが死んでしまったこの時代。

 

無理やり敵を見つければオウムの道へまっしぐらであり、敵がわからないまま反抗すれば尾崎豊と同じ末路をたどり、もうドラマは終わったんだと庵野秀明は宣告する。

そうして残されたのは、敵もわからず手足もふさがれた、ただ暗くぼんやりと広がる日常です。

 

その日常をあなたは肯定できるのか。

肯定できない人間はどうすればいいのか。

日常を肯定できない人間のために、ドラマは存在したはずじゃないのか。

 

世の中にドラマは起きず、ただぼんやりと物思いにふけり、毎日を気晴らしでやり過ごすしかない我々は、まるであの平安時代の「お人形さん」ではないか。

 

お待たせしました。

 

ドラマなき世のドラマの担い手、「黒ロン」の出番です。

 

【黒ロンはドラマの申し子である】

いまやドラマを担うべきは「お人形さん」である、という地点から、黒ロンのドラマはスタートします。自らの「お人形さん性(?)」を徹底させるべく「黒髪ロング」という抑圧をあえて引き受け、その後に抑圧からの解放を目指すことで、ドラマの達成を夢に見る。ドラマなき時代のドラマ。これこそ黒ロンの現代的意義でしょう。

 

少女は黒髪を伸ばすことで、リアルな肉体を持つことが禁じられた、平安美人が抱えた困難をあえて引き受ける。外の世界に悪を探すのではなく、自ら悪を背負い込む。悪のいる場所にしかドラマが発生しないならば、自らを悪が存在する場所にすればいい。

そしてその自らまとった悪からの解放を目指すことで、ドラマを発動させる。これが現代の黒ロン。屋敷に閉じ込められた従順な黒ロンではなく、ドラマの主役を演じる躍動する黒ロンです。

 

そして黒ロンを背負うのにふさわしいのは、リアルな肉体を持ちえないアニメ・漫画のキャラクターであり、続いてアイドルや女優といった芸能人である。お人形さんだったはずの黒ロン美少女が、意志を持って動き始める。

 

ブラック企業」だなんだと言われる世の中ですが、世の中全体がブラックかもしれない世界で、自らブラックを背負うことで世界の悪を自分の中に引き受ける。それが黒ロンこと「ブラック・ロング」の倫理と言ってしまえばこじつけでしょうか(いや、こじつけではない)。

 

平安時代の「受け身の黒ロン」から、現代の「攻めの黒ロン」へ。

悪を抱えてなお自らを律することができるのか、それとも己を取り巻く世界の欲望に取り込まれてしまうのか。その危ういバランスこそ現代的黒ロンの魅力であり、戦士としてふさわしい存在である、と書けばこれが何の話かおわかりでしょう。

魔法少女まどか☆マギカ」の話をします。

 

【黒髪ロングの魔法少女】

f:id:johnetsu-k:20130907091409p:plain

暁美ほむら。就活中、幾度となく一次面接で落とされ、円環の理に導かれそうだった俺を救ったのは、ニコニコに入り浸って見続けたまどマギのMADであった…)

 

本作においてドジっ子三つ編み少女、暁美ほむらは、自分に救いの手をさしのべてくれた鹿目まどかを蘇らせるために、何度でも過去へ遡り、自分がまどかを救うため戦うのだと決意をします。

決意をした瞬間、彼女は髪留めをはずし、三つ編みからロングの垂髪へと姿を変える。彼女は何にも縛られず、自分で自分を縛る道を選択する。

 

アニメの世界に生きる魔法少女は、言うなれば現代に生きる平安美人です。

先に述べたように、平安美人とは現世の男性の欲望を過剰なまでに引き受けたバーチャルな存在です。だからこそ暁美ほむらは、十二単よろしく魔法少女のコスチュームという呪われた意匠を身にまとい、黒髪ロングという業を引き受け、そこからの解放を目指す。そうしてはじめて、ドラマが生まれうる場所が誕生します。

 

魔法少女が抱えるグリーフシード(欲望の種)は、名前のとおり魔法少女が抱え込んだ業の象徴です。

まどマギの話をしたらそれだけで10万字を超えかねないのでやめますが、ほむらは物語の最後、自らの業とともに一人で歩む決意をしています。もとのドジッ子三つ編み少女に戻るのではなく、黒髪ロングという業とともに凛々しく生き続ける。

己を貫くブラックから解放されるハッピーエンドは未来永劫ありえないとしても、それでもなお、運命を受け入れ、戦い続けなければならない。これがまったく説教くさくならないのがすごくて、現代においてドラマとモラルを両立しようとすればこれしかありえない、くらいのものだと思います。

 

脚本の虚淵玄が「長い間、バッドエンドしか作れなかった」と言っていたのは、この人がモラルの人だからですね。現代においてモラルを優先すれば、ドラマは挫折するしかない。ドラマを優先すればモラルは崩壊する。それでも彼はドラマを作り続けねばならず、しかしドラマを作る葛藤の中で最終的にモラルを選び続けてドラマを失敗させ続けてきたまじめな人だった(うっ、深入りしてしまう…)

 

悪が存在しないからこそ、自由だからこそ、ドラマを開始できない時代。それでも人間は、ドラマを求めずにはいられない。だからこそ、過去の業を引き受け、自らをドラマティックな存在へと変貌させる。それが黒髪ロングの少女たちなのです。

 

【黒ロンは歌舞伎の美学である】

でこれは、歌舞伎の方法論と似ています(どんどん変な方向に行くぞ…)。

江戸もまた、ドラマが存在しない、というか存在してはいけない世界でした。江戸は実に完成された管理社会で、「体制は悪」とする主張は徹底的に取り締まられた。「現在に悪が存在する」なんてことはあってはならず、悪はただ、過去に存在するだけだった。

「悪がいないことにされている世界」でドラマはいかにして可能であるか?となれば、江戸のドラマが抱える困難は悪のいない現代と同じなのです。

 

ご存じのとおり歌舞伎では男性が女役を演じます。「オヤマ!菊之助」で有名な「女形」ですが、なぜ男性が女を演じるのか?

男性は女性の記号をまとって、女性より女性らしい女性になることができるから。つくりものの女性になれるからです。

だから歌舞伎の女形は着物や髪、化粧といった数々の洗練された意匠を身にまとい、女性より女性らしい仕草で舞台を舞う。自分を形作る「過去」をその身に引き受けてステージへと上がり、そうしてドラマの中でカタルシスを志向する。これを黒髪ロングの精神と言わずしてなんと言おうか。

 

そもそもドラマを志向する大江戸歌舞伎の起源は、もとをたどれば人形浄瑠璃にあります。前章で紹介した遊女歌舞伎、およびその後に登場する若衆歌舞伎などでは、見せ物といえば踊りが中心で、ドラマ自体はたいしたものではなかった。ドラマは人形が演じるべきものであり、人間が演じるものではなかったのです。

人形浄瑠璃は江戸時代中期に上方(京都)で流行し、「こりゃおもしろい!」ということで江戸に持ち込まれ、しかし武士オリジンの街である江戸では人形を使わない。人形の代わりに肉体を持った人間がドラマを演じてしまう。大江戸歌舞伎はこうして誕生しますが、これ、髪型とまったく同じですね。女性の肉体を否定した京都の黒ロンから、女性の肉体を肯定する江戸の日本髪へ、という構図。

 

現代のわれわれからすれば人形浄瑠璃は「なぜ人形にドラマなんかやらせるんだろう?」とヘタをすれば思いますが、黒髪ロングのドラマツルギーを知っていれば理解は難しくない。そう、ドラマを発動できるのは、「人形」だけだからです。歌舞伎役者がわざわざ顔を白塗りするのも、浄瑠璃の人形を模倣するためです。人間は人形を経由することで、はじめてドラマができる。

「人形」に魂が吹き込まれることで、人は現実を超えた何かをそこに見るのです。

 

【人間は神=髪の玩具である】

そもそも古今東西、人間が演じるものといえばまず彼らの世界を支える「神話」で、自分たち人間のドラマを演じるというのはその後に登場します。

古代ギリシアの演劇世界もそうですね。「人間はただ神の遊戯の玩具となるようつくられている」とはプラトンの言ですが、人間は自らを神様の玩具に仕立てあげ、そうして神たちのドラマを模倣し、神の世界の中で生きた。ドラマはただ、神に捧げるためにこそありました。

 

「ドラマは神に属するもの」ではなく「人間にもドラマがある」ということになれば、浄瑠璃のように人形にドラマを演じさせるのはむしろ当然でしょう。人間は「神」という一段上の存在に憧れることでドラマを生み、人形は「人間」という一段上の存在に憧れることでドラマを生む。ドラマの精神とは実に「憧れる」ということであります。

 

そういうわけで歌舞伎役者は、人形になろうとした。メイクや衣装、立ち振舞いで自らを精巧な人形に仕立てあげ、そうしてはじめて、人間を祝福するドラマが可能になる。

 

現代では当たり前のように人間が人間のドラマを演じていますが、歴史的に見ればこれは特殊なんです。「そのドラマは何に捧げてるんだ?」って話になりかねない。昔の人からすれば「人間が人間のドラマを演じる」というのはただの内輪ネタで「それ、何がおもしろいの?」かもしれません。「人間が描けてない」なんて言い方もありますが、しかし人間をリアルに描いたからといって、それがいいとは限らない。

 

もう消費文化の頽落ぶりって、ほとんどここにあると思いますけどね。人間にウケることばかり追い求めて、崇高なものが何一つなくなってしまったという。お前、パズドラを神に捧げられんのかよって話なんですけど、そんなこと言ってもまともには受け取られませんね。でもそういう話ではあるんです。

 

【人間は人形の夢を見るか】

黒ロンの波が来ているのは「人間は人形でもありうる」という可能性へもう一度立ち戻るための、ドラマへの原点回帰だと僕は思います。「人間は人間である」を当たり前にした現代のドラマに、人間はうんざりしてしまった。だから時代は「黒ロン」的なものを求め、そこに憧れる。

 

人形であることが当たり前であった平安時代の女性にとって「人形は人間でもありうる」が可能性でしたが、現代「人間は人形でもありうる」という方向に可能性がある。黒ロンの意味は、そのように変わっている。

 

もちろん、人間はどっちにだってなれるんです。人間だけでも息苦しいし、人形だけでもつまらない。まどかがほむらと一体になるのは、「お人形さんと人間の和解」というものでしょう。「風立ちぬ」で菜穂子と二郎が果たすのもそういうことなんだけど、こんなの全部説明してたらきりがないな…。

 

【少年犯罪と黒髪ロング】

さて、話は一気に小さくなって今回の黒ロン祭主催者、水星さんの話。

といっても別に内輪の話ではなく、いま20代半ばでサラリーマンやってる文化系の男性だと思ってください。そういう人は黒ロンにハマる素質がある、という話。

 

水星さんがもっとも多感でドラマを必要とする思春期を迎えたのは、ちょうど2000年前後でした。俺もそうだけど、いま25歳の俺は中学に上がる頃ちょうど2000年ですね。97年に劇場版エヴァンゲリオンが公開され、ドラマの死が宣告されて後の世界に、思春期を迎えた。

徐々に社会へと向き合っていくこの時期ほど、ドラマが必要とされる時期はないでしょう。自分が共感できる人間が生き生きと活躍する姿をモデルにして、少年少女は勇気を出して社会へと出発することができる。

ところが「自分が共感できるドラマがほしい!」と思う多感な時期に、ドラマの死はもはや公然と宣言されていて、ろくなドラマはありませんでした。そんな彼がドラマを求めようとすれば「自分で作るしかない」となりますが、話はそう簡単にもいかない。

 

なにせ2000年と言えば、少年犯罪が真っ盛りの年です。

西鉄バスジャック事件、岡山金属バット事件、「人を殺してみたかった」と証言した愛知の殺人事件もあり、少年法も改定され、とにかくセンセーショナルに「少年犯罪」が報道されます。

 

その3年前、97年には「酒鬼薔薇聖斗事件」が連日、ワイドショーで話題を呼びました。彼はまさに「自分でドラマを作ってしまおう」とたくらみ、「殺人」という形で自作自演の通過儀礼を執り行い、そして罰せられた。

これをきっかけに、少年は危ない、特に一見ふつうの少年ほど危ないというムードが広まっていくのは、当時9歳の俺でも感じられました。

もしかしたら自分も、そのうちとんでもないことをしでかしてしまうかもしれない。だってテレビで凶悪犯として報道されるのは「どこにでもいる普通の少年」なのだから。こうして自分の中の「少年」に怯えて日々を過ごしたのは僕だけではないと勝手に思います。

 

そうして少年が、何を起こすかわからない、不気味なものとされていく中で、まわりの期待に逆らってはいけないと思う真面目な子どもほど、ドラマを起こすなんてできない不自由な状況が続く。

ドラマを起こせない一方で、しかしドラマを求めずにはいられない。自分だってドラマの主人公になりたい。でも、どうしても自分で自分を縛ってしまう。ドラマに憧れつつ、おとなしくしているしか他にない。

そんな夢見るお人形さんのような少年の前に、自分と同じ、お人形さんのような黒髪ロングの美少女が登場し、ドラマを巻き起こす。まったく違う世界で、自分と同じような存在が堂々とドラマを演じている。少年的なものへの共感を絶たれた彼が、自分から遠くはなれた黒ロン美少女に憧れるのはむしろ当然でしょう。

…まあ、水星さんが黒ロンにハマったきっかけなんて知らないんですが、おそらくそうなるだけの素地は確実にあった、と同時代に思春期を送った僕は思います。

 

そうして現在、サラリーマン=会社のお人形さんとして、そこまで真面目に考えなくてもいいんじゃないかってくらい真面目に仕事に取組み、会社はいやだ、こんなの茶番だ、黒ロンは素晴らしい、とツイッターで毎日ぼやく水星さんを見ていると、子どものときはそんな感じだったんじゃないか、と勝手に思います。黒ロン好きなんて、だいたい業が深いからな。

 

【サラリーマンも黒ロンの夢を見る】

さて、水星さんをはじめとする現代の典型的なサラリーマンに足りないものは何か?

相変わらず、ドラマです。

 

サラリーマンはドラマのない日常を退屈だと思う。自分の退屈な日常にも、何らかのドラマが訪れてほしいと期待する。だからこそ半沢直樹だって流行るわけですが、しかし水星さんは、そんなものには満たされない。現実と地続きのサラリーマンにドラマがあるなんて嘘だと思ってしまう。嘘なんです。経済成長が頭打ちを迎えて久しい昨今、ほとんどのサラリーマンにドラマは訪れない。

ドラマを起こすためには、神に自分を捧げるように、会社に自分を捧げなければならないけれど、それができる企業がいまどれほど存在するのだろうか。

そういうドラマが起きない会社人生で、無理やりドラマを発生させてしまうのが、ブラック企業ってもんだと思いますけどね。

 

だからこそ会社なんか嘘っぱちだと思う人間は、徹底的に自分から離れた場所でドラマを発動させている、黒髪ロングの美少女に自分を見るわけです。あんなに離れた世界に、もし自分が存在できるとしたら?いや、もしかしたら存在しうるのかもしれない。とヒーローに憧れる少年のような心を、大人になっても持ち続ける。

水星さんの黒ロンへの執着は、きっとそういうものなのだ、と僕は思います。「黒ロン美少女ハァハァ」だけではあそこまでの気持ち悪さ、もとい情熱はおそらくありえない。

だから僕は、こう結論します。

 

彼は黒ロン美少女を消費したいのではない。黒ロン美少女になりたいのだ、と。

 

【今後の黒ロン】

…という水星さんの性癖が特殊かというと、僕はそうも思いません。現に黒ロンがアニメ・漫画に頻出しているとすれば、少なからず本稿で述べてきた要因が背景にあると思うし、黒ロンの形をしていなくても「黒ロン的なもの」はますます求められると思う。要するに「お人形さん的なもの」のドラマですね。進撃の巨人なんか、ドンピシャだと思う。あれはあの共同体全体が、一人の黒ロン美少女みたいなもので、だからほとんど少女的な内面のドラマでしょう。巨人のダイナミックさでカモフラージュされてるけど。

 

何度でも言いますが、過去の業を一身に受け、ドラマなき世にドラマを起こす。それが黒ロンの美学です。

ドラマのない日常はもうこのまま続くだろうし、そうすれば黒ロンがフィクションの分野でますます重要な地位を占めていくのは、間違いないと思います(割と本気で)。

 

しかし憂慮すべきは、その後に待ち構えるであろう黒ロンの堕落でしょう。「男は黒ロンが好きなんでしょ」という短絡からはじまる、美学なき黒ロンの氾濫。平安や江戸の髪型史を見ればわかるように、流行はいずれ制度となり、ドラマを生まなくなります。

そうして黒ロンが消費され尽くしてドラマが消えてしまう、という事態を、俺はもう心配しています(割と本気で)。

ドラマのない黒ロンが再び氾濫するとすれば嘆くべきことですし、現にそれは起こりつつあると思います。まあ、あんまり現実に浸食してきちゃうとダメかもしれない。

 

だがしかし、心配はいらない。黒ロンが死ねば、次はショートカットの時代が来るはずだから。だからショートカッ党の各位、安心してください。もう少しの辛抱であるぞ。

…こんな黒ロンについて語っといて、俺はショートが好きっていうね。そういうオチでした。じゃかじゃん。

 

【参考文献】

橋本治『ひらがな日本美術史(全7巻)』

橋本治『桃尻語訳 枕草子(上・中・下)』

橋本治『源氏供養(上・下)』

橋本治『江戸にフランス革命を!(上・中・下)』

橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』

 

歴史部分はほとんど橋本治の著作を参考にしてるんですが、めちゃくちゃな要約とアレンジをしてるので間違ってたら完全に俺のせいです。しかし橋本治は歴史を語らせると天才的におもしろい。

 

【おまけ:水星Cは黒髪ロングの夢を見るか?】

舞城王太郎の話。

水星さんのハンドルネームは舞城王太郎の長編小説「ディスコ探偵水曜日」に登場する名探偵、水星Cの名前に由来しているそうですが、だからなんなのか?

舞城王太郎という作家は、そもそも作風が黒ロン的です。

舞城の作品は『世界は密室でできている』という初期作品のタイトルからも明らかなように、「閉鎖された観念世界からの脱出」というテーマを明確に打ち出していますが、ではどう脱出するのか? 

 

といえばミステリー小説ですから、過去の因果関係を解きほぐすことですね。着物と黒ロンの意匠の代わりに、「殺人事件」という過去の業を自ら引き受ける名探偵。そうして彼が自ら因果を解決することでドラマが発動し、そして平穏な日常が戻る。

舞城のそれが特徴的なのは、「その事件すら自分の観念が作り出したものではないか?」という問いが根底にあるからです。普通のミステリーの場合、何らかの事件が起き、それが外からやってきた名探偵により解き明かされる、という展開をたどります。

しかし舞城の場合、事件は名探偵の侵入によりますますややこしくなる。探偵の思念が過去の出来事にだって影響を及ぼしてしまう。事件という過去の業を、自らの思念の中に取り込んでしまいます。これ、完全に黒ロンですね。過剰に因業を引き受け、そうしてそこからの解放を目指してドラマを発動させるという。

「運命と意志の相互作用」という本書を代表するフレーズはこれでしょう。黒ロンという運命を引き受けてはじめて、人間は意志を発現できる。

 

ディスコ探偵水曜日」は舞城の作品の中でも、一番分量のあるハードな長編作品です。観念が観念を引き起こし、何かが解決したと思ったその瞬間、事態はすぐにひっくり返り、ぐるぐるとらせん状に回り続ける。そう、果てなく長く伸び続けるミステリアスな黒髪のように…。

 

というのは強引にしても「踊り出せよディスコティック」という水星Cの名言は、そっくりそのまま水星さんへ向かう。踊りたくて仕方なくて、いつか踊り出せる日を夢見ている水星さんの姿は、やっぱり黒ロンの少女にそっくりだと思う。俺も何言ってるか、わかんなくなってきたな…

 

【おまけ2 時間は本当に流れるのか?】

終わった!!!!!

これでも本文、まじめに論理を追ったつもりなので疲れた。論理を追ったつもりで、途中でめんどくさくて投げたんだけど。これもっと言葉を費やさないとダメなんだろうなあ…

ふつうに論理組み立てるのがこんなにも苦手な理由もだんだんわかってきたんだけど、わかってきたからって実力不足はいかんともしがたく、よって以下は好き放題書きます。一筆入魂で書けるような熟練がないとダメってことですね、勢いもなくなっちゃうし。

 

本文でまどか☆マギカと歌舞伎を結びつけましたけど、それが全くこじつけではないのは、シャフト(アニメ製作会社)の方法論が歌舞伎のそれとそっくりだからですね。どういうことか。

歌舞伎とは元来、「傾奇者」であり時代からはみ出す「傾く(かぶく)」の精神を体現する者に他なりません。傾く、ね。言うまでもなく、シャフト角度です。顔を傾けてバンと見得を切る。

めちゃくちゃに強引なようですが、「明確な敵が存在しない世界で行われる、予定調和のエンターテイメント」という点で、江戸の歌舞伎と現代のアニメは同じくしている。ただの記号であるキャラクターに息を吹き込むなんて、人形浄瑠璃と同じでしょう。

となれば歌舞伎や浄瑠璃とアニメの方法論が似ることは当然なんですけど、アニメ製作会社の中でも独自の方法論を打ち出す理論派のシャフトが(そして徹底的に理詰めでシナリオを考える脚本家の虚淵玄が)歌舞伎の方法論も意識してるのは間違いないと思う。あのシャフト角度はまさしく「傾奇」へのリスペクトでしょう。と思ってるんだけど、誰かこういうこと言ってる人いるのかな…。

 

日本が本当は誇るべきなのにぜんぜん評価されない批評家の大塚英志が物語論を語るとき頻繁に歌舞伎の例を持ってくるのも、こじつけではまったくない。明治時代に入っても日本はまだ江戸の延長をやっていて、驚くことに現代まで江戸は生き延びてきている。だから現代と江戸って似ている部分は本当に似ていて、ドラマの依って立つ基盤なんかは本当に江戸と近い。だから方法論も応用できる、というわけです。

 

歌舞伎と言えば「時代世話」という現代と過去が入り乱れる特殊な時間概念を持っていて、これなんかびっくりしたんですが、まどか☆マギカの時間のアレと共通する部分が大なんですね。ただし江戸は管理社会ですから、最終的に人間もまた人形である、という予定調和にはなるんだけども、そこに至るまでのドラマでは時間軸が複雑に交叉していく。一方現代は「人間は人間である」という結末が最終的に求められますね。「生きねば」ですから。「風立ちぬ」もまどマギと非常に似てて面白いんですが(最後に菜穂子が消えなければならないのは、まどかが概念になったのと同じです)まあそれはいい。

現代と江戸で何が違うかというと、わかりやすく言えば「観察者」の存在です。「平和な日常が戻りました。めでたしめでたし」の予定調和で終わるのが歌舞伎ですが、現代は「本当にめでたいのか?」と疑問が差し挟まれる。冷静に自分を観察し、ツッコミを入れ続ける第三者がいる。これをどう処理するかが現代の厄介なところです。

虚淵玄がインタビューでエントロピー云々と話していたのもこれですね。一つの結末に向けて、過去から未来へ時間を流そうとする場合、この現象を観察することは不可能になる。逆に現象を観察をしようとすれば、結末は一つの方向へ向かわず、無限大に拡散していく。何を言ってるのか?なんですが、この話です。

 

「時はなぜ一方向なのか:観察者問題から説明」

http://wired.jp/2009/09/07/%E6%99%82%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%B8%80%E6%96%B9%E5%90%91%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9A%E8%A6%B3%E5%AF%9F%E8%80%85%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E8%AA%AC%E6%98%8E/

 

量子力学では「観察者効果」という概念がありますが、これは理系の話だけでは全然ない。一つの宇宙論ですからね。

まどマギには「観察者として立つほむらは果たして悪なのか?」というテーマがあります。それまでの虚淵玄は「観察者の存在はエゴであり、悪である」と結論するしかできず、ドラマを頓挫させ続けた。実際、ほむらも最後には自分の過ちに気づき(驚くことに、エントロピーの概念から言えば、ほむらの行動は倫理的ではなく論理的に間違いなのです)自分の行為はすべて無駄であったと、欲望に飲み込まれた魔女へ変身しそうになる。

そうしてまどかが奇跡を起こし、観察者としてのほむらを許す、というドラマがあるわけですね。まどかが起こしたのは時間を戻すという奇跡で、「過去⇒未来」へ時間を流すほむらと「未来⇒過去」へ時間を流すまどかがぶつかると、そこに奇跡が起きる。

ほむらは「私の求めるまどか」という一つの目標に向かって時間を進めたのが論理的な間違いを犯していたのであって、「まどかは無限に遍在している」と気づいたとき、論理は正になります(エントロピーの理論によると)。

 

観察者としての自分を保とうとすれば、拡散へ向かうしかない、とはそのとおりで、思念を自分の頭の中でぐるぐる回すのはダメなんですよ。何かしら外へ発散させるための、自意識以外の論理体系を構築しないといけない、と思ってやっぱり教養をつけなあかんな、と思って歴史を勉強した結果の本稿があるわけですが、これは東洋医学の理屈と同じですね。西洋医学は悪玉を特定して排除するけど、東洋医学は全身に悪玉を分散させて治療する。そう、これからは教養の時代だ。

という一方、もう1つの方向は、どうしても一つの目標に向かいたいとき、観察者としての自分を排除して時間を逆向きに、未来から過去に流すという考え方が必要になる。これは苫米地秀人がしょっちゅう言ってることですね。あの人は近代的合理思考を徹底的に突き詰めて突き抜けた人だから、こっちになるのだと思う。自己啓発界で有名な「引き寄せの法則」はたぶんこれ(パラパラ読んだだけなので自信はないです)。

 

まあ何を言ってるかまるでわからないと思いますけど(おまけなので)、いま時間論が個人的にアツいですね。どうすれば奇跡は起こせるのか?歌舞伎の時間軸、エントロピー、それからレヴィナスの時間論(内田樹の本でしか知らないけど)はおそらく同じことを違う道筋で語っていて、まったく文化も言葉も違う人間がわかりあえる可能性があるとはきっとそういうことなのかもしれません。俺が「ようやく人間がわかってきたかもしれない…」と言うのはそんなところで、なんでそんな遠回りしてるのかまったく意味が不明な人には不明だろうけども、俺もただ酒を飲んで毎日たのしく暮らしたいだけなのに、なんでこんな遠回りしてるのかわからなくなるな…。

でもいまや考えるべき問題は時間をどう流すか、ですよ。近代科学の発明からこっち、もしかしたら時間は止まってるかもしれないんだから。

*1:とは言うものの、江戸も男女差別の時代でした。平安時代の女は成長すると人形になりますが、江戸の女は成長しても「非・大人」扱いです。まあ20世紀に入ってもまだコルセットはめて女性をお人形さんにしてた西欧よりはだいぶ進んでます