【お知らせ】文フリに参加します in 2016 秋
トランプ新大統領に「政治的すぎる」という理由で怒られたせいで半年間ブログを更新できませんでした。お久しぶりです。 @同志
さて来たる2016年11月23日(水)勤労感謝の日、正規の勤労に就いていない私も文学フリーマーケットに参戦します。「墓には何一つ言葉は刻まれていなかった」っつう2016年にあるまじき激シブの合同誌に、伊勢物語についての批評1本と『稀晴物語(アイルランドのポストモダン民話)』の4編分の邦訳を掲載しております。小職、いや小無職のほかには短歌や批評やよくわからん文章など錚々たる面々のおもしろコンテンツが寄せ鍋状態になる予定です。詳細はこちら。
小職、いや小無職も文フリ当日は会場に姿をあらわす予定ですので見つけ次第射殺してください、ってクマか俺は。よろしくどうぞ。
それで今回、邦訳した物語のうち一編を掲載します。アイルランドに古くから伝わる歌物語で伊勢物語にインスパイアされたらしいですが説明はいいか、どうぞ!
***
稀晴物語
第2段
かつては男と呼ぶのにふさわしい男があったものだ。
その男は壁に囲われていない街に住んでいて、果てはなかった。壁に囲まれている街と囲われていない街はそこそこ高い壁によって隔てられ自由に往来することはできず、文化の全ては壁の内側の街に独占されていた。外側は不毛の地で、人々は石と貝とガラクタを拾って暮らし、地表には内側の街から捨てられるゴミと広大な砂浜が広がるばかりであった。
男はある日、女に出会った。
男が砂浜で潮干狩りをしていると、どんな貝が取れるの? と、このあたりでは見たことがない女が聞いてきた。男は、自分はここでガラクタを採掘しているのだ。貝を探しているのなら、あっちのガラクタ置き場で拾ってくるのがいい、と答えた。なにそれ、と女は笑って、当たり前のことだろう、と男が言うと、じゃあわたしも当たり前のことを話してあげる、と壁の内側から追い出されてきたという女は、聞いてもいないのに自分が住む街のことを話しはじめた。
女が言うには、壁の内側の街を統合しているのは街の中心部に祀られている「テンノウ」と呼ばれる感情統合象徴体で、これまで人間やいるかや暖炉などの有機物や無機物が歴代のテンノウを務めてきたのだけれど、現在の「第一八七代テンノウ御希望(オキモチ)」は最新のコンピューターで複雑な演算を繰り返した結果、七色の電球で感情を表出する単純なシステム系統であり、ここ最近は故障のため七色のうち五色の電球が点灯せず光るのは二色のみであるが、特に問題にする人はいない、ということだった。電球は街の中心にそびえる灯台の天頂部に高く掲げられていて壁の外側からも見えるらしく、なるほど男が今までいやにあかるい星だとおもっていたあの光は、内側の街では「テンノウ」と呼ばれているらしい。
あんな光を崇拝しているのか、と男が問うと、女はそれに答えず、内側の街ではね、たとえばさあ、幼稚園で工作の時間にペットボトルを使って男の子たちがおもいおもいのテンノウをつくるの。巨人だったりライオンだったり飛行機だったりね。わたしたち女の子は、男の子が作り終わるまでべつの教室に移動して、テンノウの立派な歴史を先生に教えてもらってね、それが終わったら男の子たちのテンノウをわあ、すごい、ってひとつずつほめていったの。そういうことが学校でも、大人になっても、おじいさんとおばあさんになっても、ずーっとあるみたいなのよ、わたしのお父さんもずいぶん立派なテンノウを作ってたの、と言った。
それを聞いて男は、生まれてはじめて「興奮」という感情が自分の内側に備わっていることを知った。女の語ることは、男にとって新鮮なことばかりであった。内側から外側の街に日々廃棄されるペットボトルはテンノウづくりに不要になったゴミであること、内側の街では生涯を通じて男性はテンノウを作り続け、女性におもいを告げるときにそれを手渡すこと、女は語尾に「のよ」をつけたりするということ、すべて男にとっては未知の刺激であったため、はたして知的興奮と性的興奮の分別もつかない男の一物は、生まれてはじめて硬く勃起をしていた。これはどうしたことだろう、と男が不思議そうに言うと、女はやおら顔を赤く染めて、ジープに乗り逃げ出してしまった。男はたいそう悲しんだが、女を追いかけようとはおもわず、そのかわりに壁の近くに設置されているペットボトルの廃棄場へ足を向けた。山積みのペットボトルを前に、男の一物は力強く勃起をしていた。
それからしばらくしたある日、女はふたたび男のもとを訪れた。驚く男に女が言うには、先日、家の屋根になにか固いものが落ちた音がして、外に出て見てみると、羽根のはえたペットボトルであった。それはボロボロで、ボトルの中には外側の世界で見たガラクタみたいな貝殻がいっぱいに詰まっていた。そうこうしている間に、ペットボトルがまた流星のごとく次々と壁の外側からひゅるると飛んできて、近くの家の屋根に落ちてはカラランと音を立てる。あれが飛んできているのはわたしがかつて追い出された方角であり、おそらくあの男が飛ばしているにちがいない、と確信を深め、いてもたってもいられず、ここまでやってきたのだ、と女は小脇に抱えたロケットを愛おしそうに撫でながら話した。
男は得意気に答えて、そのとおりである、ぼくはぼくなりのテンノウを表現したくおもい、それをあなたの住むところへ飛ばしたのだ。ぼくの立派なテンノウを早くあなたに見せたかったのだ、と言った。女は少しはほめてくれるだろうか、と期待をしながらふっと顔を上げると、女は涙を流しており、体はぼんやりと消えかかっていた。驚きのあまり声も出ない男に言うには、だまっていて申し訳ありません、実は今のこのわたしはただの映像で、最新のVR技術を利用して外側の世界のあなたに向けて姿を投影しています。いまわたしは壁の内側で、と話すやいなやがばりと服を捲り上げ、腹部に残った巨大な三角形の青あざを男に見せ、いるかに虐待されているのです。あのしなやかな尾ひれで何度も、何度も、と涙を浮かべながら言った。まさかいるかが暴力を振るうとはおもわなかった、そんなこと学校で習わなかった、ああ、やはりあんないるかといっしょに暮らすべきではなかったのだ! と女は半ば錯乱しながらまくし立てたが、海に面した外側の街で暮らす男にとって、いるかはレイプをするほど知能が高く残忍な動物である、ということは誰もが知っている事実でしかなかった。壁の内側の人間はそんなことも知らないのだ。
だが、気の毒なことに男は「レイプ」という言葉が何を指すのかさっぱりわからなかった。「レイプ」と呼ばれる行為におよぶほどいるかは凶暴な生物であると言い伝えで聞いたことはあるが、それが何を意味するのか、生殖能力を喪って久しい外側の住人たちは誰も知らなかった。女は発狂して瞳を黒く濁らせており、まともに質問ができる状況ではなかったため、男はあてずっぽうに、いるかにれいぷをされたことはあるか、と聞くと、女ははっと我にかえりいっそう大粒の涙を流して、こんな体では抱きしめてなんて言えない、キスしてなんて言えない、もっと早くあなたに出会えたらよかった、と嘆く合間にも姿はますます薄くなり、男が駆け寄ろうと立ち上がったそのとき、からん、と女の小脇に抱えられたペットボトルが音を立て地面に落ち、女は水泡のように姿を消していることを知った。
男は放心し、窓から壁の方角を見ると、あの巨大な電球が真っ黒にてらてらと光を放っていた。男は唇をわなわなと震わせ、あの電球を破壊しなければならない、というおもいにとらわれた。いてもたってもいられず、わずかに残っていたロケット数本の頭部に石をパンパンに詰め、次々とあの黒光りめがけびゅるびゅると射出をはじめたが、石の入った重いロケットではとうていあの高い壁を越えることはできず、ふにゃふにゃと打ち上がっては壁のはるか手前でぽとり、ぽとりと落ち、割れて砕けて中身の石が飛び散り大地を汚すばかりであった。プラスチックと石の残骸を前に、男が叫ぶには
「テンノウ」と思いみんなは見ているがあれは大きなチンポじゃないか
叫び声はむなしく壁に反響するばかりで、それを聞いた外側の街の男たちは、みな一様に屹立することのない己の一物をなぐさめながら、おおいに涙を流したということであるなあ。
(以下、章段続く)
***
・・・という感じのやつほか3編のアイルランド民話を邦訳しています。ポストモダンですね。
なお本作は先の10月に上梓された大塚英志著「感情化する社会」の「感情天皇制論」に強く影響を受けた痕跡が見られますが時系列が謎だ。同作は大塚英志以外のだれがこんなロジックを組み立てられるんだよ、という氏の怪腕ぶりが堪能できる名著で日本国民必読ですのでこんなブログ読んでる場合じゃねえぞ。試し読みできますので是非に ↓↓↓
・・・ということでトランプ大統領の許可が降りるその日までこの反体制的極左ブログはふたたび更新を停止しているかもしれないですが元気にやっていきましょう。エイエイオー(感情のゲバ棒で殴打されながら)
株式会社を本当に退職しました。
各位
お世話になっております。
いきなりですが今月末日をもって株式会社を本当にたいしょく(退職)する運びとなりました(3年ぶり2回目)
【前回までのあらすじ】
株式会社を退職しました。
株式会社を退職しませんでした。
しかし退職エントリも昔ほど流行ってない昨今を見るにつけ退職はセンセーショナルなイベントではなくなってるのかもしれないですね。各位、息を吐くように退職してるし。終身雇用の崩壊を肌で感じております。
事務的なことから先に申し上げますと(おっ社会人っぽい)退職日である3月末から1週間以内に独身寮からさっさと引越ししないとしばかれてしまうため、4月7日には東京を離れます。地元に戻るぞい。
思えば大学から足掛け8年、東京メトロシティに住まっていたわけで、その間に築いてきた多数のインターネットのこう言う関係や、ひとつまみ程度のリアルの友人たちと離れることは非常に寂しい。寂しいか? 僕たちはまたどこかで会えるから寂しくなんかないもんね。まあ東京にもまた邪魔しにくる予定なので、そしたら今後も引き続き邪険にしないでください。で。
退職の理由。
ですが、「次の道が決まったから」という残念ながらポジティブな理由でして、その理由はコンプライアンス上、ここで申し上げることはできませんが(おっ社会人っぽい)4年間サラリーマンとして会社勤めをする中でようやく自分のやりたいこと、通したい生き様、本当に気持ちの良いセックス等々がだんだんわかってきたな、ということを率直に思います(1個だけ嘘をつきました)。
窓際だろうがなんだろうがとにかく食い扶持をつないで終生を過ごせればよいと何も考えず就職してみた大学時代、「大企業」という名の得体の知れない歯車に巻き込まれるのが怖くて会社を飛び出そうとした入社1年目、社長に退職を引きとめられて部署を移り、世の中の「流れ」というものが次第に見えてきた2年目、再び部署を移って「サラリーマンの寂しさ」みたいなものをつくづくと感じた3年目を経て、4年目の今年、満を持して退職となりました。
・・・なんだけど、どうも抽象的な言い回しになっちゃいますね。まあこの4年で情熱もずいぶん丸くなったと上司・友人・インターネットのみなさんから指摘されるようになった。確かに自分でも、昔の俺はもっと眼光が鋭かった、野性味あふれたオーラが出ていたような気がして大学の後輩に確認してみたら「いや、昔の情熱さんは気が違った眼をしてました」だって。そんなこと言われる?「気が違った眼をしてる人」って、気が違ってる人以外に見たことあります?
それはともかく、よくも悪くも丸くなったものの、いまだに上司に「俺は、いや人間は、太陽にならないといけないんですよ」と平塚らいてうばりの演説をかまして退職告げるあたり、まだ尖ってる部分は残ってるんじゃろな、と思う。以前は尖りっぱなしのカミソリ野郎だったのが安全カミソリ野郎になったっつうか、すいません最近、文章書いてないのでうまい比喩が全く出てきませんが、そんな感じだといいですね。安全カミソリだといいです。
また一段落ついたら、ゆっくりといろんなことを整理して書いていこうかなと思います。
最近は退職するにあたって引継ぎ作業が思いのほか忙しく、そっちで頭がいっぱいでして、思ってたよりいろんなもの抱えてたんだなと思う。何でも自分でやりたがるガキみたいな人間だから引継ぎも苦手だし、自分を中心に世界が回ってると楽しくなっちゃうし、人間は太陽なんだし。
ということで、また東京にいる間に、各位いろいろ俺の退職金(駄菓子程度しか出ないけど)で呑んだり語ったりしましょう、って嘘みたいに穏やかなエントリだな。丸くなったんだね俺も。インターネットが丸くなったのかもしれないけどね。地球は丸いって判明したときから天動説は崩れたわけだけど、そういうことかもしれないですね、人間も(?)
それじゃ、今後とも何卒よろしくお願い致します。
ではでは。
オフィスで鼻唄を歌う
某月某日。
近所の老舗の喫茶店でモーニングをする。
朝11時まではコーヒーに+50円すると厚切りトーストとゆで卵がセットになる。11時まで、とたしかに看板に書いてあったはずなのだけど、マスターは12時過ぎに入店した客にもモーニングサービスを積極的に勧めていて、一日中モーニングサービスを実施しているとかいう名古屋某所の喫茶店はこんな感じの人がやってたのかなと思った。
それはそうとこの店、老眼鏡では間に合わないらしく、新聞をいまどき虫眼鏡で読むタイプのマスターが一人で切り盛りしていて、客は朝から5人くらい店内にいる感じかな、常連とおぼしき人たちが出入りをしている。マスターは店内放送のラジオから流れる歌に合わせて楽しげに鼻唄を歌いながらコーヒーを淹れてくれて、コーヒーの味がよくわからない俺にはうまいとしか言いようのないコーヒーが出てくる。ああ、これだな、と思った。これだよ、鼻唄だよ。
はっきり言えば俺は、今よりもっと待遇のよい職に就きたい、もしくはもっと面白い、やりがいのある仕事を、自分に適した仕事をしたい、ということをあまり思っていない。いや少しは思ってるけどそれよりも、このマスターみたいに鼻唄を歌いながら仕事ができたらそれだけでいい、とそれは本当に思う。
だいたい俺は実家にいると、自分の部屋にいるとき以外はだいたい鼻唄を歌いながら家中をうろうろしていて、家族に不満もありつつ円満なのはそれのおかげだと思う。鼻唄が出てるときはまずイライラしない。実際、実家にいて鼻唄が出るのは実家が落ち着くからではなく、鼻唄を歌ってるから落ち着く、という逆転現象が起きている気さえする。ちなみに俺の親父は鼻唄どころかところかまわず本当にマジで歌い出すので、近所にも聞こえていて、俺の控えめな鼻唄はまったく問題にされない。幸いなことだ。(親父は最近ひとりカラオケにハマったせいで声量が日ごとに増してきて、声量ばかりか歌い出す頻度も上がり、スーパーで買い物をしている間にも歌い出すなどゆゆしき問題になっているが、それはまた別の話)
それはともかく俺は会社で鼻唄を歌いながら仕事をしたい。
思い出すのは前の部署、営業部にいたとき、年配の上司は「よいしょ」「えーっと…」「えぇー!」とひとり言を発する方がかなり多く、俺もそれが伝染ってしまったのか、「よいしょ」と頻繁に言うようになった。今の部署に来てからも最初のころはひとり言を連発していて、しかし他の方々が静かにだんまりと仕事をしているせいか、次第に俺もひとり言を発する気がなくなって現在に至るのだけど(かわりに隣の席の新入社員の女子が俺のかわりに「よいしょ」とよく言うようになって、それは大変いいです)、考えてみればあのひとり言は俺にとって鼻唄の代わりだったのかもしれない。
必ずしも居心地がいいとは言えない空間に、さりげなく自分が介入する余地を、楔を打ち込む。それが鼻唄なりひとり言の重要な意義である。だからもっと俺にぶつぶつ言わせろ、と強弁できればいいのだけど、そうもいかなかったりしますね。でももうちょっとひとり言は積極的に言っていこうかな。
そういえば飲食店やコンビニの接客。お客様にニコニコ笑顔で明るく接客しなさい、とはマニュアルに書くまでもなく当然のこととされるのに、鼻唄を歌ってもよいとは絶対に言われないもんな。楽しそうに接客するなら鼻唄も歌えばいいのに、と言いながら、鼻唄歌うコンビニ店員がいたらちょっと嫌ですね。まあこれはコンビニが悪い。
アニメや漫画で鼻唄を歌いながらコーヒーを運ぶ喫茶店のバイトの女の子とか出てくるじゃないですか。あれ最高にかわいいと思うんですけど、みんな本当は店員さんが鼻唄を歌ってくれるのを期待してるんじゃないの。
インド映画なんて主人公といっしょに店のおっさんたちが突然踊りだしてハッピーエンドを迎える、みたいな日常からミュージカルに切り替わっていく演出で有名だけど、ああいうのを待望してるんじゃないかと思います、我々の心は。インドあたりはそういうのが強く残ってるんだろうな。
ともかく鼻唄を歌えば不真面目、ひとり言がデカけりゃ狂人、みたいな発想は誰も得をしないので積極的にNoを言っていきたい。そういうところから自分が介入する余地がなくなって世の中がルールでがんじがらめになるのであって、どんなものであれ鼻唄っつうのは一種のプロテスト・ソングなわけですよ。
まあそれとはべつに、俺は自分の仕事の勉強をしないといけない。仕事がさっぱりできなくて鼻唄歌ってたら本当にバカになってしまうので…
というわけで複式簿記とかいう悪魔の発明をしたどこぞのヴェネツィア商人をひっぱたいてやりたい今日このごろなのだ♪(バラード)
26歳になった話
各位
お世話になっております。
標記のとおり26歳になりました。おー。
しばし考えてみたけど「おー」以外の感想がなにも出てこないあたり26歳とは何の節目でもないのかもしれない。何の節目でもない年。でもこういうのを重ねて、ひょろひょろの苗木が大樹へと成長するように、年輪を重ねていくがごとく成長できていたらいいんですけど、バウムクーヘンってあるじゃないですか。切り株を模した洋菓子。ドイツ語で「木のケーキ」だそうだけど、ちょっと機械でくるくる巻いただけのくせに何が木のケーキなんだろうな、歪み一つないつるっつるの気の抜けたぐるぐるで年輪を模しやがって。
俺の人生なんてバウムクーヘンみたいなものかもしれないですね。真ん中が空洞というところもポイントが高い。ライフ・イズ・バウムクーヘンにしましょうかね、このブログもね。
中身のないことならいくらでも書けるんですけど、いくらでも書いたところで仕方ないので、近況報告をさせていただきます。
歯医者に噛み合わせが悪いと指摘されてしまった話
「(この噛み合わせでは)噛めない」と端的に言われてしまった。どうりで噛むって難しいよな、と自分でも長らく思っていたわけで、26歳にして「食物を噛む」という、生後6ヶ月の犬ころでもできている課題に挑戦している今日この頃です。
異動した話
7月から部署を変わったんですよ。新しい部署、業務量的にはそこまでハードでもないんですが、精神的にはちょっとハードなところがありまして、仕事を終えるころには頭が働かない、帰宅すると死んだ頭で金田朋子さんのラジオを聞くのが日課になっています。何も考えなくても笑ってしまうのは本当に偉大で、最近とうとう金田朋子さんを人間として尊敬するまでになってしまった。
完全にグッチ裕三を食ってるラジオ
掘り下げれば掘り下げるほどこの人はおもしろいんですけど、なんというか芸を自分の生き方にしているというか、全部を冗談に変えてしまうような芯の強さが本当にすごい。人間ってのはこう生きなきゃダメですね。つらいだの何だの言ってるうちは二流だな、と金田朋子さんの声を聞くたびに思うんですけど、立派に生きるぞ。
文章とか
ブログ、ツイッターともに止まってました。いやまあ、新しい仕事を乗り越えるために、わりと真面目に勉強はしてたつもりなんですけどね…。
とりあえず文フリの寄稿以来が3つほど来てたりするので、そっち方面でいろいろネタを考えてる、という感じです。ブログで書いてもいいんだけど、ネットで一旗揚げてやろう的な野心が以前ほどはなくなってしまった。まあ最近のはてなが全然魅力的じゃないな、というのもあるし、現実の仕事に見通しが立ってきたからこそインターネット上のアーチスト活動が疎かになっているわけで、良くも悪くも、という感じではあるんですが。
でもまあ、ありがたいことに、寄稿の依頼とか創作関連の相談を受けたりはちょくちょくあって、俺もそういう期待に応えられる程度には立派にならねえとな、とは思ってます。
最近のマイブームが「徳」という概念なんですけど、徳のある人間になりたいですね。「才能」という概念が、なんかいけすかなくて嫌いなんですよ、俺は。徳っつうのは、人柄だけじゃなくて、実務能力も試されるからね。古来中国では、徳のない皇帝は革命によって殺される運命だったのだからね。徳のある人間になりたいですね。あと赤ちゃんプレイもしてみたいですね。こないだ池袋の路地裏を歩いていたら、目立たないところに昼間から行列ができていて、へえ、こんなとこにおいしいお店があるのか、と思って列をたどってみるとインターネットでも有名な優良ピンサロの順番待ちでした。びっくりしちゃったね。なんでこの話したんだろう…。
そういう感じです。
26歳になった小職をよろしくお願いいたします。ピース。
排外デモを見てきた
デモを見てきました。沿道で腕組みしながら眺めていたら、物腰の柔らかな青年からこんなビラをもらった。もしよければいっしょに掲げてください、とのこと。
「帰れ!」というのが奥ゆかしい
デモ隊は演説者を乗せた車を中心にして車道を行進、『バカチョン帰れ!バカチョン帰れ!*1』などとスピーカーが壊れてるのか、人間が壊れてるのかわからない、罵詈雑言のリフレインが一番目立ってよく聞こえるという、いかにもこういうデモらしいデモ。この団体が行進する前後左右を警官の列ががっちりとガードしていた。
警官は100人以上いたかな、デモの規模の割にかなり多い印象だった。というのは俺がビラをもらったように「差別反対デモ」が並行して行進しているからで、デモ隊のアジテーションに対して沿道からは差別をやめろという趣旨の声がわあわあ飛ぶ。その勢力間で武力衝突が起きないよう、警官が出動しているらしい。とにかく騒々しいのと警官がうじゃうじゃいるのとで、街の雰囲気も物々しく、「何があったんですか?」と近隣の住民らしき方々から三度、声をかけられた。俺は終始にやにやして突っ立っていたから、こいつは野次馬だなとわかりやすかったのかもしれない。
警官が多くてテンションが上がる
デモ隊が陸橋を超える箇所はみどころだった。広い車道を歩くデモ勢力に対して、人ふたり分ほどしかない狭い歩道を反差別グループの集団がぎゅうぎゅう詰めで並行して歩き、柵越しにヤジを飛ばしあう。
陸橋を渡り終えたところで、差別勢力はすーっと大通りのほうへ曲がっていくのに対して、せまい歩道側の終点には警官が数人でスクラムを組んで待ち構えており、反差別勢力を足止めする。警官隊が防護体制をつくるまで、時間稼ぎをするのが目的らしい(写真左端に固まっている警官たちがスクラムを組んでいる)
コノヤロウ通せよ!と警官に向かってわあわあわめいている間に、デモ隊はざまあみろとアンチデモ隊を煽りながらすーっと遠くへ消えていく。アンチデモ隊の一人は警察の足止めにしびれを切らし、陸橋の柵を横から飛び越えて、走って強引にスクラムを突破しようとするも、すぐに警官が走り寄ってきて捕獲された。さっきまで威勢よくバカヤロウだの何だの言い合ってたのに、逃げる側も本気で突破しようとは考えていなかったらしく、捕まってしまうとあっさり観念して、警官とにこやかに談笑していた。警察24時でもこんなの見たな。
スクラムが解除されると反差別の会は、デモが向かった方向へと走り出した。警官の何人かも同じペースで併走している。横断歩道をわたる途中で信号が赤に変わり、しかし何人かは、信号を無視して突っ切っていく。
「信号を守れ!」とメガホン越しに大声で威嚇する警官に、道路の向こう側では「うるせえバカ!デブ!」とひょろっとした男が自前のミニメガホンで応戦していた。デブは差別だろ!
当人たちは本気なのだけど、俺はといえば、小学生かよ、と思って爆笑してしまい、いっしょに信号待ちをしていた反差別勢力の方々に寒い目で見られました。申し訳なかった。
信号待ちの時間、「おまわりさんも言いすぎだよ」と反差別組の長老的な存在らしい人が、先ほど叫んだ警官を諌めていた。まあそうなんですけど……といった顔で苦笑する巡査。さっきまで早く通せだの、こんなデモやらせるな、など叫んでいたのに、意外と和やかな雰囲気である。
長老はつづいて近所からやってきたらしい子供2人組に話しかけた。俺たちはガラは悪いけど、心は悪くないんだ、ガラも悪くて心も悪いのはあっちなんだよ、と諭し、サングラスで小太りの中年日焼けおじさんが茶々を入れる。一昔前のドラマとかで見たような光景だ…。こういうのは苦手というか、ウソっぽくて俺はつい笑っちゃうのだけど、あんまりニヤニヤしてると絞め殺されそうなので我慢した。
デモ隊は大通りから路地に入って公園をぐるっとまわり、再び大通りへ戻ってJRの駅構内へ入る。駅のホームで解散らしい(遠足みたいだ)。
警官は駅の中まで長い列を作り、がっちりブロックしていた。デモ勢力がSuicaで改札を抜ける間も、反デモ勢力と煽り合いをしていた。子供がケンカ別れしているみたいで微笑ましい。
数人の警官は改札を抜けてデモのメンバーに同行していた。俺もついていく。エスカレーターでホームへ降りると、下は何やら騒々しい。ホーム側のデモ勢力と、線路の向こう側に集結している反デモ勢力が最後の煽り合いをしていた。
こんな狭いスペースで応戦しあう
このホーム、お互い顔を合わせないで済む場所はいくらでもある。むしろ見送りできる場所は、本当に狭い、上の写真のピンポイントにしか存在しないのだけど、わざわざその貴重な地点へ集まって双方ヤジを飛ばしあう。日の丸Tシャツを着た男が尻をペしぺし叩いて煽り、反デモ側が「線路から飛び降りろ!」と声のボリュームを上げる。警官は苦笑して日の丸を眺めながら、時おり仲良さげに談笑していた。
ホーム側の集団は概して、お疲れさまですねといった和やかなムードになっていた。この日は少し暑いくらいのいい天気で、このあとビール飲んだらうまいだろうなと思った。
日の丸と談笑するおまわりさん
その後、電車がやってきてデモ勢力は解散した。電車の中まで警官がついていくらしいのには少し驚いた。どこまでついていくのだろうか。
フェンスの向こう側の反デモ勢力も解散し、デモは終わった。駅に集結していた警官たちは長い列を成して警察署まで帰っていく。こちらも緊張がほぐれ、ああ祭りが終わったな、という感じだった。
日曜の昼下がり、1時間半ほどのデモは特に問題もなく終わった(と思ったら、デモがはじまる前に暴行事件が起きていたらしい。後日聞いてびっくりした)
***
思ってみるとしかし、このデモはかなり楽しい。反デモ側には結構良さそうなカメラを肩に掛けて、写真を撮りながらビラを配っている青年が何人かいたのだけど、目がいきいきしていた。デモというと殺伐としたイメージもあるけれど、なんというか、参加者の笑顔のほうが印象的だった。警官もけっこう笑っている。
「互いの勢力は対立が激しく、武力衝突が起きないように警官が守っている」と書いたけれど、これは正しくないかもしれない。むしろ警官がしっかり安全を確保しているからこそ、あれだけ気持ちよく騒げるのだし、対立の図式も作れるのだろうなと思う。いつ武力衝突があるかわからない状況だったらこんな騒ぎにはならない。事態はもっと緊張するはずで、そういうタイプの緊張感はなかったように思う。
誤解を恐れず言えば、これはいいプロレスだなあと思った。ヒールとレフェリーがいてはじめてプロレスが成立するわけで、そうでなければただの殺し合いになってしまう。なんというか、役割分担がよくできている。
それで警官もこんな人数が本格的に集まってシリアスな顔でガードしてくれるのだから俄然盛り上がるに決まっている。こんな非日常は確かになかなか味わえない。警官は良くも悪くもお祭りを盛り上げる装置として機能している、という印象だった。
たとえばの話、この排外の対象が中国人・韓国人ではなくて、鬼や天狗の末裔を排外の対象にして、鬼は村から出ていけ!みたいなノリだったら、そのまま立派な奇祭になるのではないか。そうなったら本当のプロレスですけどね。
住宅街をメガホン持って練り歩くタイプの奇祭
しかし「安全な位置から互いに言いたいことを叫びあう」という今回のデモは、やってることが子供のケンカと同じに見えて、端から見たらやっぱり笑ってしまう。当人がシリアスならシリアスな分だけおもしろい。これ、どの勢力が悪いという話じゃなくて、この状況そのものが、カフカ的な不条理感があっておもしろいんだと思う。頑張るほど間抜けに見えてしまう悪魔のシステムというか。
まあでも、外から見れば喜劇にしか見えないものが悲劇的な結果を生んでしまったのが昔の連合赤軍だったりしたよな、ということもあるし。実際に暴行事件も起きているわけで、あまりへらへら笑ってるばかりでもない。俺は俺で真剣に考えてるんだ。
あと排外デモを警察は禁止すべきだ、という声もたまに見るけど、どうなんだろう。今回を見る限り、デモは体のいいガス抜きとして利用できるなという印象で、取り締まったほうがかえって激化するのではないか、と思わないでもない。デモがあれば警察だって仕事ができるし。
実際、デモは現状みたいな形で、安全に管理しておくのが賢いやり方じゃないですかね、統治する側からすれば。このデモが社会を変えるとはまったく思わないし、双方ともにいいガス抜きになるような。
あと『反中国・韓国』といった枠組みを外してしまえば、両勢力の少なくない人たちは仲良くできちゃうんじゃないの、という印象も正直あった。巨人ファンとアンチ巨人は似ているみたいな話で、こんなことを言うと怒られそうだけど、なんというか、根本はかなり似ているような…。まああんまり言うのはやめます。
余談だけど、俺はメガホンという機械がどうも苦手だなと思った。どうもメガホンを通した音色は、周囲を威圧するため機械的に増幅されているものとしか思えなくて(だから使っている当人は気持ちいいんだろうけど)、あんなの握ったらもうケンカしかないじゃん、と思う。メガホンを使ったら声が届かなくなる、ということだってあるのにな。
というわけで、メガホンを使わないだけでデモの雰囲気ってかなり変わると思うんだけど、どうでしょうか。「声がデカいほうが勝つ」と考えるのは結構だけれど、それって私は聞き手を信頼してませんと自ら公言している気がして俺は嫌ですね。声がデカいほうが勝つ、がほとんど現実だとしても、そういうもんだって安易に乗っかるのは言葉をあきらめることと同じじゃないのか。
ともかくデモは勉強になるから一度行ってみると面白いと思う。すごくおすすめです(神に誓って皮肉なし)。
*1:これ聞きすぎて、デモが終わる頃には「帰れ!」が俺のなかでおもしろワードと化していた
きのうは文学フリマ
文フリいってきました。感想です。
稀風社ブースの様子
稀風社の『海岸幼稚園』ですが、草稿でもう読んでたんだけども、冊子になったやつ読むとあらためていいな~と思った。ねむるさんのブックカバーはすごいセンスだし、えすにさんの漫画は良すぎですね。こういう薄い感じの女の子イラストが大好きなんだ俺は。
自分の原稿はこう、縦書きで見るとちょっと空気が多いなと思った。横書きだと改行を多めに入れるんだけど、縦書きはもう少し続けてもいいのかもと思う。今度から縦書きで書こう…。
とはいえ内容はよく書けてるかなと思います。宮内さんに褒めていただいたのは本当に励みになった。各位も褒めてくれていいんだぞ。
以下、各サークル新刊の感想(感想書くのはクソ苦手なのでご容赦ください)
手紙魔まみトリビュート。限定版がめちゃくちゃオシャレで買いたかったのだけど、売り切れてしまった…。
オナホ男のデザインを担当してくれた倉又さんがデザインをやっていて、愛だなと思った。倉又さんが今まで見たなかで一番元気そうなのがよかったです。職場の環境が良いのかもしれない。
収録内容もよくて、あっ、かみはる氏のふわふわした短歌よかったですね。あの人はリアルまみみたいなものなんだろうか。
善浪さんのアヴァロンの王杯。
焼肉がうまそうな文章(本当に)。こういう文章が書ける人は焼肉に失敗しないと思う。この世には「焼肉のうまい文章」が存在します。
カラフネの『しあわせはっぴーにゃんこ』。
ツイッターでも書いたけど、ぽたちゃんの自撮り小説『セルフィ』がすごくいい。江戸川乱歩や山田風太郎を読んでるって聞いていたので、読んでなるほどと思った。端正な文章からさも自然に非現実を作り上げていく感じ。いま若い人でこういう文章が自然に出てくるなんてなかなか稀有だと思う。
それとはるしにゃんの生存報告を聞いて安心。はるしにゃんは詩の人だと思ってたのだけど、今回の小説はその文体を持ち込んだ感じで、海外現代文学にちかい印象。元気になってくれ~。
ひえきさんの真っ白な岩壁みたいな文章(これで伝わるのか…)、夜空さんの短歌とは違ったかっちりした文章、きのせいさんは器用ですね、王道のエンタメ感というか余裕を感じさせる文体、それからからてさんの綺麗な〆など、執筆陣がしっかりしてるなと思った。
文体の話ばっかりしてるのは、俺が文体フェチだからですね。なんだかんだ文フリは、いろんな文体に出会えるところが楽しい。
文体といえば帰らせてくれの新刊『試験が近くて花を食う』。すごくよかった。前刊に比べて二人ともいい。
ちんちん花火くんは前回と同じく、あれだけ暴れながらいっさい嘘を書いてないっていう奇跡的な文体で、かつ今回は物語の方向にはっきり踏み出していたと思う。それは絶対正しい。
直泰くんの小説もすごいよくて、特に二作目『正しい生き方宣言』はいま小説でやれること全部詰め込んで正解を出しに行ったんじゃないか、と思う。構成もしっかりしてる。
二人ともすごい真面目で、嘘を書いてないのが一番いいと思う。いやフィクションなんだけど、根本のところでごまかしてない。ズルさがない。そういう「人生の態度」みたいなものが文章書くうえで一番大切だと思うので、これから本当に伸びると思う。
「嘘が書けない」という前提があるからこそ、たぶん二人とも文章を書いてるうちに「これは嘘だ」って思った端からひっくり返していくから文体・構成は暴れてるようにみえるんだけど、それは本当のこと書こうとしてる証拠だと思うんですよ。俺の経験で言ってるだけなんだけど。
文章を波形でたとえると(1)「/\/\/\/\/……」こんな感じが(一本筋を通すために暴れているイメージ)だとすると(2)「~~~~~~~……」とか(3)「―――――――……」みたいな文体も使えるようになると、書き方に幅が出て書けることも増えるし、長い文章書いても息切れしにくくなる。
ちん花くんは(1)をずっと使ってて(しかしこれだけジェットコースターみたいに振れ幅が凄くて軸がぶれないのは本当にすごいと思う)直泰くんは今回(1)と(3)をうまく使い分けながら構成してる印象だった。ネットで公開してた小説もそうだけど、(3)の文体がちゃんと使えるのは直泰くんのすごいとこだと思う。結構しんどいと思うんだけど。
さっき言及したぽたちゃんは(2)に近い文体で書いてるイメージで、こういうのは難しいんだよなと思ったりする。
しかしまあ自分のなかにいろんな文体を持っておくのは生きていくうえで本当に大事なので(文体は思考の枠組みそのものだと思っているので)とにかくいい本とか読んで頑張ってくれ~。今回の作品自体もよかったけど、何よりちゃんと正しい方向に向かってるのがよかった。
偉そうに書いてしまったけれど、俺ももうじき26歳といい歳になるわけで、年上がウソでも偉そうにしてなかったら、下の人間は困ってしまうじゃないか。「大人になる」とはそういうことじゃないか、ということを俺は、橋本治や宮﨑駿、それから肉を食べさせてくれた偉大な社長から学んだ気がします。
職場にもいよいよ後輩が入ってきたわけで、とにかく人生のあらゆる場所で、偉そうに振る舞うべき場面で偉そうに振る舞って、文句を言われない程度にはそれなりの実質を備えなければ、頑張らなきゃいけない、という感じですね。これも自分にウソをつかずウソをつくということで、やっぱり人生とは文学だったのだ。
あしたは文学フリマ
明日は文フリです。
さんざっぱら告知してるんですがまあ半年に一度のお祭りなので。
終日会場にいる予定ですので、ぜひぜひブースで俺に声を掛けていただくか、リプライ飛ばすか、「わざわざ東京モノレール乗って冊子買いにきたのに会おうともしないじょーねつはクズ野郎」とでもツイートしていただければエゴサーチして飛んでいきますのでよろしく。
ところでいつも思うんですが、有名人に声ってかけづらくないですか。いや俺はべつに有名人じゃねえけど、ネットの人たちがやってるイベント行っても、声をかけづらい。自分も出演者だったらともかく「客と作り手」って立場になるとこれはダメですね、相手が一般人でも。文フリや大喜利やカス動画祭なんかで挨拶できたらな~と思いつつ、俺のことそんな知らないだろうし、俺ごときがあいさつってなんだよ、と思って何も言えず帰路につくこと山のごとし。
しかし自分の立場になってみると、応援してますとかブログ読んでますとか言われるとめちゃくちゃ嬉しいので、そういうのは絶対に声かけたほうがいいんでしょうね。そうだよな。なんか今日は当たり前のことを書いてるぞ…。
そんなわけで「ブログ見ました!」と言ってくださったかたには、サインの代わりに俺が会社で使用しているシャチハタをインクが続くかぎり押させていただくことにしたいと思います。俺の名字を知れる大チャンスなので、ぜひ逃さないでください。
まあ文フリの雰囲気はあんまり得意じゃなくて、ブースまわりで黙って本読んでると思います。最近オープンした某アパレルチェーン店舗に入ってみたんですけど、文フリ会場ってこんな感じじゃないですか。
こんな感じだと思うんだよな。よろしくお願いします。